第4話

 見覚えがあるようで、無いような不思議な感覚。

 確かに建物自体は記憶にあるのだが、何となく違うという違和感が先程から付きまとって離れない。

「ここ……」

 幾ら筋道とは言え、商店から祖父の家まではそれほど離れていないはずだ。それなのに、いつの間にか見慣れたブロック塀はどこにも無く、代わりに見慣れない石垣が左右に伸びていることに気が付き、一度足を止める。

「どこ……?」

 先程までは確かに存在していたはずの、一定の間隔に立つ電信柱。それが今はどこにも見当たらずに感じる不安。確かにアスファルトだった足元に伸びる道の感触も気が付けば砂利に変わっており、歩く度に尖った痛みが足の裏を刺激する。幾つかの建物は記憶に存在しているのに、所々覚えているものとは異なる外観が混ざり気持ちが落ち着かなくて仕方が無い。そして何よりも怖いと感じてしまうのは、この空間のどこにも人の気配が感じられないという事だ。

「はやく……かえら……ねぇと……」

 ビニール袋の中で溶けていく氷菓子が、形を保てず崩れていく。祖母が大好きなピンクの色をした氷の半分は、固く固まり大きなブロックに。全体に絡められたシロップが溶けてしまって液体へと変わった水と混ざり色を薄めながら嵩を増していく。楽しみにしていたアイスバーも、随分と柔らかくなり指で触ると直ぐにでも曲がって折れてしまいそうな状態。少しずつ経過する時間が焦りを生み、無意識に歩く速度が速くなっていく。

「ばあちゃん……っっ」

 早歩きから駆け足に。いつしかそれは全力疾走へと変わり、祖母の待つ家に向かって駆け出す。だが、行けども行けども見えてくるのは繰り返される同じ風景で、石垣の向こう側から顔を覗かせるオオバナアリアケカズラとブッソウゲが、笑うように風に揺れている。通り過ぎる度花弁が追いかけるように角度を変え、いつまでもずっと見られている感覚がどうにも気持ちが悪くて仕方が無い。

 早く、早く、早く、早く。

 乾く喉が痛みを訴え、内側から血の味を感じ始めても動かす足を止めることが出来ず、ただ、ただ、ひたすらに走り続ける。

「なん…………で…………っ」

 足が前に動く度、少しずつ色を変える大きな空。フクギで作られた防風林の向こうに広がっていた青には徐々に茜が混ざり、やがて朱を通り越して完全に真っ赤へと染まってしまってしまう。

「…………ぅっ…………ぅぅっ……」

 視界が大きく歪むのは、溢れ出した恐怖がもたらす涙のせいだろう。血のように禍々しい色に包まれた世界。流石に此処まで来ると異常なことが起こっていると嫌でも理解する。余りにも現実離れした出来事に、少しずつ狂い始める理性。

「誰かっっ!!」

 もつれる足が絡み失うバランス。勢いよく倒れ込んだ地面からは土埃が上がり、細かい塵が目に入った。

「誰かいませんかっっ!?」

 転んだ拍子に擦れた皮膚が傷付き、破れた細胞の間から溢れ出ていく血液。傷が出来た事を知覚するとその違和感がより一層鮮明になり、鈍い痛みが患部を中心に広がっていく。自らの不注意で作ってしまった裂傷に対するやるせない怒りと悔しさ。それらが重なり、辛うじてした瞼に引っかかっていた涙が零れ頬を伝い、次々に地に落ち染みを作った。

「誰かっっ!!」

 何が起こって居るのかが判らない。その疑問に対して答えが欲しいと声を上げ訴えるが、残念なことにその答えを返してくれるような人間は存在しない。オレンジ色のビニール袋の中では、すっかり溶けてしまった氷菓子。閉じ込められた狭い世界で、流動的な動きを見せながら哀しそうに揺れる。

「…………っっぅ……」

 だからと言って、ここで泣いていては何も解決しないのだろう。この場所に留まっているだけでは問題は何も解決はしない。何となくそんな予感が頭を過ぎる。

「…………くしょうっっ!!」

 本当ならば大声を上げて泣きたかった。

 痛みを訴える身体を無理に起こし立ち上がると、未だ止まる気配を見せない涙を乱暴に拭い歯を食いしばる。

 兎に角前に進まねば。

 そうしなければ状況を変えることは出来ない、と。そんな気がして必死に動かし前へと進める足。

「なん……で、おれ……ばっ……か…………」

 家で退屈をするのが嫌だった。

 長い休みを、普段とは異なる非日常な予定で楽しめる友人達が羨ましかった。

 一人で家に居たくなくて、変化を求めて向かった祖父の家。

 運が良ければ従兄弟たちに会えるかも知れない。そんな下心があったのも間違い無い。

「……くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」

 だが、こんなことは望んだりはしていない。可愛らしい子供の好奇心からくる冒険譚とは異なる不可思議は、簡単に常識のキャパシティを越えてしまう。歩く度に響く痛み。滲み出た血と土が汗と混ざり、真新しかったはずのTシャツを汚していく。

 朱、あか、アカ、紅。全てが赤に染まった世界でひたすら歩き続けてどれ程の時が経ったのだろう。

「っっ!!」

 突然横切る影に驚いて足を止め身構えると、いつの間にか見た事も無い辻に辿り着いていた。

「……………………」

 前後左右から伸びる石垣。赤と黄色の花の花弁が、交わる四つの道の中心に向かって顔を向ける。四方八方にあるのは同じ様な造りの赤煉瓦の平屋で、どの家も目視出来る場所からは石垣の切れ目が見えず、衝立ヒンプンを確認する事が出来ない。

 この家は全て、背中を向けて建っている。

 直感的にそう思った瞬間、助けを求めて家の中に駆け込むのは不可能だと言う事に気付いて狂いそうになる。もしかしたら、もう二度とこの場所から出られないかも知れない。そう考えると恐ろしくて仕方が無い。

「グワッ」

 そんな時だ。聞き慣れない音が突然耳に届いたのは。

「え?」

 この音は一体何だろう? そんな疑問から、恐る恐る上げた顔。

「……あひ……る……?」

 目の前には交わった道の中心。そこに一羽の家鴨が立ちこちらを見ていた。

「グワッ、グワッ」

 近所の家から逃げ出したのだろうか。その家鴨は何かを訴えるように鳴きながら、白い翼を大きく広げて見せる。

「もしかして……」

 目の前には、自分以外に生きている他の生物の気配。

「お前が…………助けて……くれる……の……か……?」

 それに覚えた安堵からか、緊張の糸が一気に緩んでしまう。

「頼む! ここから出してくれ!!」

 動物相手に何を言っているんだろう。冷静な時ならそう言ってこの行動を笑ったに違い無い。だが今は、このたった一羽の家鴨の存在が、何よりも尊く有り難いと感じてしまう。右手を前に突き出しながら駆け出す足。辻の中心で羽を広げる家鴨までの距離が少しずつ縮まっていく。

「グワッ、グワッ」

 しかし、家鴨はそんな人間行動に驚いたのだろう。乱暴に羽を羽ばたかせると、慌てた様子で走り出してしまった。

「まっ…………」

 待って。

 今ここで、家鴨の姿を見失ってしまったらどうなるのだろう。そんな考えが頭を過ぎると同時に感じる怖気。中々縮まらない距離に焦りを感じながらも、家鴨に置いて行かれないように懸命に追いかける。

「グワッ、グワッ」

 目の前を走る家鴨はこちらを振り返ることは無い。ただ鳴き声を上げながら、追いつかれないようにして必死に逃げているだけ。

「グワッ、グワッ」

 一つ、二つと、同じ様な辻を何度も何度も通り過ぎる。

「グワッ、グワッ」

 いつしか、どこまでも終わらない追いかけっこは、無限とも思えるこの空間で延々と繰り返されていた。

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