第3話
「そう言えば、雅充。あんた夕飯はどうするの?」
随分と年期の入った座卓の上に置かれた汗を掻いたグラス。
「お母ぁがおじいんとこで食べて来いって」
「迎えは? 後で寧子が迎えに来るって?」
「わからん。お母ぁ、仕事で遅くなるって言ってたから」
「じゃあ、
「わからん。親父、今日最合いって言ってたし」
「そうねぇ」
祖母が吐いた溜息。隣に座った彼女は、皿に盛った菓子の中から最中を手に取ると包装を解き一口囓る。
「どうしようかねぇ……。アンタ、突然来るから冷蔵庫の中空っぽさぁ。何作ろうかねぇ……」
「何でも良いよ。適当に食べるし」
「そうねぇ? そうは言ってもねぇ……」
そう言いながらも祖母はどこかしら楽しそうで。ああでもない、こうでもないと独り言を続けた後、徐に立ち上がり電話をかけ始める。
「おばあ?」
「あぁ、もしもし? おじいねぇ?」
繋がった電話の先に居るのはどうやら祖父らしい。孫である自分が遊びに来ていること。冷蔵庫の中身が心許ないことなどを伝え、贖罪を買ってきて欲しいと頼むと、要件だけの電話は直ぐに切られてしまう。
「野菜は丁度、おじいが畑にいたから持ってきてくれるさぁ。他は帰ってくる時に買ってきなさいって言っておいたから、それを見てから何作るか決めようねぇ」
「あ、うん。わかった」
あっさりと解決してしまった夕飯問題。こういう時の祖母はとても心強い。
「で。雅充。アンタ、宿題は?」
二つ目のおやつに選んだのは饅頭で。最中と同じように包装フィルムを解くと、祖母はそれを頬張り美味しそうに眼を細める。
「まだ休み入ったばっかりだし。一応ちゃんとやってるし!」
「そうねぇ。頑張ってるなら偉いさぁ」
よしよし、と。祖母のしわくちゃの手で頭を撫でられ、再び感じるむず痒さ。
「そう言えばおばあ」
「なんねぇ?」
「
付けっぱなしのテレビから流れるローカル番組の司会の声。台所からは携帯ラジオから三線の音と方言で歌う民謡が聞こえてくる。開かれた窓の外からは相変わらずやかましいほどの蝉の声に、風が吹く度に揺れる風鈴の音色。それに重なるようにして年代物の扇風機が、忙しなく首を振り生温い空気を攪拌させている。
表通りを走る原動付き自転車のエンジン音が時々過ぎていくが、基本的に流れる時間は実にのんびりとしているもの。
これほど様々な音が溢れているというのに、この地域では子どもの声が滅多に聞こえない。
「隆治たちはどんなかねぇ。まだ帰ってくる話は聞いてないさぁ」
年の離れた従兄弟は、県外に働きに出たままそこで家族を持ってしまった。小さな機械端末には時々連絡が来るが、顔を合わせて合うのは一年に一度あるかないか。一人っ子のため兄弟は居らず年の近い従兄弟も居ないせいで、随分と顔を見るのも久しい従兄弟に遊んで欲しいと思ったのだが、それはどうやら叶わなさそうだ。
「帰ってくるとしたらお盆かねぇ?」
農協のロゴが入った大きなカレンダーには、盆の始まりと終わりまでの日に赤い丸印が追加されていた。それは毎年同じ日に定められたものではなく、陰暦で変動がある旧盆と呼ばれるもの。新盆とは明らかに違うスケジュールに、連休が取れない可能性が高いということを嫌でも思い知らされ気が重くなる。
「でも、今年は中途半端な日になってるからねぇ。休みが取れないって電話が掛かってくるかもしれないさぁ」
それが判っているからだろう。こればっかりはしょうがないさぁね。少しだけ寂しそうに祖母が笑い、随分と温くなってしまった麦茶で饅頭の残りを頬張る。
「つまんないなー……」
祖母に釣られるように手に取った煎餅は、少しだけ湿気っていて微妙な味がした。
それから暫くは、祖母と他愛ない談笑を楽しんだ。
偶に言っていることが判らない方言も混ざることはあるが、普段会話をする機会の少ない祖母の話は、何だか新鮮で興味が擽られる。中でも面白かったのは昔話で、その不可思議さに思わず声を上げて喜んでしまう。
「何ねぇ。雅充はこういう話が好きねぇ?」
別に怖い話だけが好きというわけでは無い。ただ、ここ最近退屈を持て余しているせいか、普段とは異なる刺激がある体験談には、どうしても心が躍ってしまう。ましてや今は夏という季節だ。茹だるような暑さも相まって、肝の冷える怪奇譚を無意識に求めてしまっても仕方は無いだろう。
「おばあは怖い話は苦手さぁ」
そう言いながらもどこかしら意地の悪い子供のような表情を浮かべる祖母の声は、心なしか弾んでいる。
「
「いや、しないし!」
「そうねぇ?」
開かれた仏壇の向こう側に置かれた
仏壇から更に上へと顔をあげ壁伝いに視線を移すと、鴨居に掛けられた数枚の額縁。中で微笑んでいるのは名前を覚えることが出来ない血族の人間で、所謂遺影というものが飾ることが可能な範囲で飾られている。
「でも、本当に危なくなったら、手を合わせてお願いするんだよ」
線香を上げるまではいかなくとも、姿勢を正した祖母が仏壇に向かって座り直すと、しわくちゃな手を合わせて祈りを捧げる。
「ご先祖様。私たちを見守ってくれてありがとうございます。いつも護ってくれて感謝しています。にふぇーでーびる、にふぇーでーびるって」
信心深い祖母には悪いが、この行為に意味があるとは思えないのはいつものこと。怪奇現象のネタが面白くて好きだとは言え、それを実際に目にした事が無いのだから、幽霊だろうが妖怪だろうが信じる事は出来ない。当然、死んでしまった後の魂がどうなるのかなんてことは判らないし、ましてやそれらに護られているということを意識した事も無い。未だに手を合わせて何かを呟く祖母を横目に見ながら、突然訪れた会話の終わり思わず欠伸が零れてしまう。
「そうだ」
もう気が済んだのだろうか。合わせていた手を解くと、ゆっくりと立ち上がった祖母が仏間から姿を消してしまう。
「何か冷たいもの食べたくないねぇ? 雅充」
数分も経たずして戻ってきた祖母の手には使い古された財布。
「暑いからおばあはかき氷が食べたくなったさぁ。だぁ、あり」
手渡されたのはまだ新しさの残る千円札。
「雅充も食べたいもの買ってきなさい。おばあはいつものかき氷をお願い」
お釣りは小遣いとして貰うと良いと言われると、嬉嬉としてこのお使いに出たいと態度で示してしまうのは、実に現金だというもの。
「わかった!」
気持ちの良いくらいの一つ返事を上げると、財布とスマホを手に取り縁側に向かう当たり、とても正直だと祖母は笑う。
「あんまり遅くならんで帰ってきなさいね」
「わかってるよ!」
脱ぎっぱなしのスニーカーに足を突っ込むと、祖母の顔も見ずに飛び出す道路。脇から現れた自転車を慌てて避けながら向かうのは、此処に来る時に立ち寄った小さな商店だった。
物心が付いたときからあるこの商店は年季が入ったコンクリート造の平屋で、飾り気の無いスチール棚に色んな商品が並べられている。この地域にはスーパーマーケットといった大型の商業施設がないせいか、こぢんまりとした店だというのに品揃えは意外と豊富だ。それでも、店の規模は小さく、店頭に陳列出来る数というのはどうしても制限が生まれてしまう。
洗剤や消耗品といった生活用品の隣に、コンビニなどでよく目にするカップラーメンのパッケージ。レトルトのカレーやパックのご飯などに混ざってポークや鯖などの缶詰が並ぶ。米などの重量がある商品は下の棚。地産地消の野菜は専用の販売ブースに隔離され、生鮮食品は飲料品と近い場所に設置された冷蔵庫に並べられている。冷蔵庫の隣に設置された業務用の冷凍庫にはブロックの氷や冷凍食品が並び、お目当ての氷菓類はというと、そことは別にある専用の冷凍ショーケースに収められている。
スナックや駄菓子の棚を一端無視し、真っ直ぐに向かう冷凍ショーケース。並べられている商品は、有名菓子メーカーのよく見る商品が殆どだが、一昔前のパッケージで価格の安い商品も幾つか混ざっている。その代わり、価格の高い高級な商品は殆ど目にすることが出来ない。余り買う人がいないのだろうか。そういう所は少しだけ残念だなと感じてしまう。
「おばあは氷でー」
頼まれたのはパッケージされたピンク色の氷菓子。ビニールの上に印刷されているのはかき氷という文字とイラストで、味の種類はたった一種類しか無いから迷いようが無い。
「俺はー……」
正直に言えば、このアイスは好みでは無い。祖母の好みにケチを付けるつもりは無いが、この商品を選ぶくらいなら別のアイスを食べたいのが本音。
「これにするかな」
限られた種類しかない氷菓類の中から選んだのは、サイズの大きなミルクチョコレートのアイスクリームバー。サイズの割りに値段がリーズナブルなそれは、満足感と懐のどちらも暖かくしてくれる万能アイテムである。
「ついでにこれも買おうかな」
浮いたお金の一部は、お使いを頼まれなかった嗜好品へと姿を変える。手に取ったのはジャガイモを使ったスナック菓子のパッケージで、幾つかある種類の中から選んだ味は、スタンダードなサラダ味。商品を選び終わると、何年も変わる事の無い店主の老婆に品物を渡し、金額を計算し提示してもらうまで暫し待機。レジスターという万能な機械なんて無く、電卓という文明の器機も見当たらないこの店の計算方法は算盤という道具を使ったもので、愛用して色の変わった算盤が机の上に乗ると、珠を弾く乾いた音が店内に響く。
「値段はこれね」
「はーい」
金額を示す珠の位置を確認しても、手持ちのお金は千円札一枚だけ。祖母から預かった紙幣を老婆に渡すと、再び珠の弾ける乾いた音が響き、紙のお金が硬貨となって返ってきた。
「はい、ありがとう」
買った三つの商品がオレンジ色のビニール袋に入れられる。レジ袋一枚幾らだなんて、この店には関係の無い話らしい。特に追加料金を取られる事無く出された手提げのビニール袋は、歩く度に小さな音を立てて前後に揺れる。
「じゃあね!」
店主の老婆に笑顔で手を振ると、再び足を下ろすアスファルトの上。影が無くなり現れた太陽の光が眩しく、反射的に瞼を閉じる。
「……暑ちぃ……」
閉ざされた視界に映るのは真っ赤な世界。視界が塞がれたことで外の情報は必然的に耳から入ってくることになる。相変わらず賑やかな蝉の声と、往来する車の排気音。時々その音が止まるのは設置された信号機が切り替わるせいだ。
「ふぅ」
規則的に響く歩行者信号の音を耳にしながら、祖父の家までの道を歩く。大通りに沿って歩くと迷いにくい代わりに距離と時間がかかるため、時間短縮を狙って近道を選び筋道へと入る。溶けやすい品物を持っているのだから兎に角早く帰りたい。そんな気持ちも何処かにあったのかも知れない。
「……………………」
靴底から伝わる歪な感触。
「………………あ……れ……?」
奇妙な感覚に気が付いたのは、店を出て随分経ってからの事だった。
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