第2話

「どっかに出かけたいなぁ……」

 今日という日は漸く、午前中という時間が終わったところ。床に就き明日を迎えるにはまだ早く、あと何時間も残っている状態。途中まで進めていたゲームも、この長い休みが終わる前には呆気なくエンディングを迎えてしまうことだろう。楽しみにしていたマンガだって、ページを開けば数時間で読み終わってしまう。楽しみをどう後に残しておくかが一番の課題。

「……………………」

 カレンダーを見て曇る表情。休みに入った日数を数えてもまだ片手の指だけで足りてしまう。新学期までのカウントダウンはまだカレンダーが一枚分も残っているのだから、退屈をどうにかしなければという悩みは随分と長い間続くことになる。

「はぁ」

 風が吹き込む度揺れるカーテンに合わせて、窓に吊された風鈴が奏でる軽やかな音。それに重なるようにして鳴き声を上げるのは、短い間の伴侶を得るために求愛を繰り返す蝉の声だ。外から容赦なく降り注ぐ直射日光の暑さと合わさり、体感温度は温度計よりも遥かに高く感じて気が滅入る。もう一杯だけ。麦茶をつぎ足し身体の内側から涼を得ようとグラスを傾けた時だった。

『プルルルルルッ』

 スマートフォンとは異なる電話の着信音。今時古いよと笑われても仕方ない固定電話が早く取れよと促す。

「もしもし!」

 もし通話の相手が犯罪者だったら? そんな不安に気付くのは、いつだって行動を起こした後だ。受話器を耳に当て送話口に言葉を吐き出したタイミングでしまったと表情を歪めたが、その心配は杞憂に終わった。

『もしもし? 雅充まさみち、アンタ起きてたの?』

 受話口から聞こえてきた声は聞き慣れた母親のもの。ほうっと胸を撫で下ろしながらぶっきらぼうに起きていた事を伝えると、母親は良かったと零しながら要件を切り出す。

『悪いんだけど、雅充。ちょっとアンタ、お母さんの代わりにじいちゃん家に行ってきて欲しいんだけど』

 母親からの突然の提案。一瞬、何が起こったか判らず間抜けな声で返事を返してしまう。

「は? 今から?」

『そうよ。出来れば直ぐにでも行って欲しいんだけど』

 話を聞いてみると何てことは無い。数日前に実家に寄ったときに、役場に提出するはずの祖父の書類を代筆した際、間違えて持って帰ってきてしまった。だからそれを届けて欲しいと、そう言うことらしい。

『お母さん、今日帰りが遅くなることが決まっちゃったから、お願い雅充。アンタがじいちゃんに届けてちょうだい!』

 ついでだから夕飯も実家で食べて来て。そんな母親に対し口から出たのは少しばかりの厭味。

「はぁー。なんで俺が行かんといけんし」

『何ねぇ、その言い方。どうせアンタ、夏休みで暇してるんでしょ? いいから、早く行って来なさい!!』

 有無を言わさぬ強い口調。これ以上の口答えは、母親が帰宅したときの説教に繋がってしまう可能性が高い。仕方ないとごねるのを諦め、後日小遣いを貰うことを約束し出掛けるお使い。幸いにも書類は電話の横に封筒に入れて立てかけてあり、簡単に身支度を済ませ施錠を確認すれば直ぐにでも家を出ることが出来る。

「はぁ、めんどくせー」

 ポケットにはスマートフォンと買って貰ったばかりの真新しい財布。マジックテープなんてダサイって言う奴もいるけど、ばあちゃんから貰った誕生日プレゼントだからとっても大事なアイテムだ。中身は祖父の家と自宅を往復るためのバス賃に貯金箱に残っていた小銭をプラスしただけの軍資金。途中で近所の商店に寄ってアイスと駄菓子を買うと決め、託された書類をお気に入りのリュックサックに突っ込むと、玄関の鍵を掛けて家を出る。

「うっ……」

 アパートの階段を降り歩道に足を下ろせば、日差しを遮るものは何も無くなってしまう。眩しい光と熱がこれでもかと皮膚を焼き、与えられた熱で身体は簡単に火照ってしまう。吹き出す汗に舌打ちを零し、手で作った扇で風を起こしながら目指すのはバス停。時刻表の書かれた看板が見えた瞬間、一台のバスに後ろから追い抜かれてしまった。

「あっ!」

 音を立ててバスの扉が開く。と、同時に手を上げながら慌てて駆け出す自分。バスに取り付けられた路線を現すプレートの数字は、祖父の家に向かう時に使用するもので、これを逃すと三十分以上は待たされてしまう。だからこそ気持ちが焦る。何としてでもこのバスに乗らなければと必死に両足を動かしバス停を目指す。

「待って下さい! 乗ります! 乗りますっっ!!」

 乗降が終わり、出発するために扉を閉めようとしていたバスの運転手に向かって大きな声で叫びながら存在をアピールすると、運転手は驚いた表情を見せた後に苦笑を浮かべながら閉まりかけた扉を開いてくれた。

「あり…………がとう、ございます!」

 駆け込んだ車内はクーラーが効いていて少しだけ肌寒い。整理券を引ったくるように取ると、空いている席に適当に腰掛け吐いた一息。小さなビープ音を上げて扉が閉まれば、バスはゆっくりと走り出しバス停から離れた。

 窓の外で流れる風景は見慣れたものだ。ただ、雰囲気はいつもとは異なり、休みを満喫しているであろう学生の姿が多い。友人同士で楽しそうに談笑をしながら歩く女子グループが立ち止まる雑貨屋は最近オープンしたばかりのカントリー風の外装で、有名なアニメと合同企画した商品をメインに取り扱っているらしい。何故そんなことが判るかというと、店頭に掲げられた大きな看板とポスター。女性向けのコンテンツに余り詳しくないとは言え流石にテレビでも良く目にするタイトルのため、キャラクターの情報くらいは判る。確かに可愛いとは感じるが、自分がそれを手に入れて嬉しいかというと何とも言えず、興味を失い窓ガラスに頭を預け瞼を伏せる。タイヤがアスファルトの上を滑る度、身体を揺らす僅かな振動。心地良い揺らぎが誘う眠気に、無意識に欠伸が零れ意識が船を漕ぎ始める。

 『眠ってはいけない』。

 それは判っているのに、抗えない睡魔に段々と闇へと堕ちる意識。いつしか、穏やかな寝息が口から零れてしまっていた。


「ご乗車、ありがとうございましたー」

「っっ!?」

 一際大きく響くブザー音。その後に続く車内アナウンスに急激に意識が浮上に眼を見開く。

「次はー、曖沓祇おくつじ。曖沓祇です。お降りの方は降車ボタンを押し、ブザーを鳴らしてお知らせ下さい」

 停車していたはずのバスがゆっくりと走り出す。目的地よりも一つ前のバス停の看板が徐々に遠ざかり、あっという間に視界から消えてしまう。車内にはこの地域で有名な病院の宣伝が流れており、何度も繰り返し聞く台詞は、一言一句間違えずに言えるほど聞き飽きた内容が耳に飛び込んでくる。再び次の停車予定のバス停を繰り返し始めたタイミングで、慌てて手を上げ降車ボタンを押し撫で下ろした胸。

「良かった……」

 田舎に行けば行くほどバス停からバス停までの距離は段々と広くなるというもの。気の緩みからの乗り過ごしが笑えない状況になるなんて、普通にある地域も実際にあるのだ。日が高いからと歩いて戻ろうとしても、バスの乗車時間と自らの足で歩く時間は必ずしも同じではない。だからこそ、このタイミングで目が覚めたことは、実に幸運なことなのだろう。

「やべぇ。結構寝ちまってたっぺーな」

 窓の外の景色には背の高い建物が無くなり、代わりに昔ながらの背の低い瓦屋根やコンクリートの平屋が増えている。反対車線から近付いてくるのは白い軽トラックで、荷台に大きな茶色の犬と幾つかの農具と草刈り機。これから家に帰るのか、それとも畑に出て作業をするのか。運転者の姿は既に見えず、荷台で身を乗り出し景色を楽しむ犬の姿からは、何の情報も得られなかった。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。

 大きく響くウィンカーの音が車内に響けば、目的のバス停まではもう少しだ。

「曖沓祇ー、曖沓祇ー。お降りの際は、お釣りの取り忘れが無いようご注意下さい」

 静かに停車するバスの扉がゆっくりと開き、降車を促すアナウンスが耳に届く。

「ありがとうございました」

 座席から離れる前に金額を確認した小銭は、乗り込むときに受け取った整理券とともに運賃箱の中に入れ、高さのある段数の少ない階段を飛ぶように移動しながらバスを降りる。足が地面につき完全に車体から離れたことを確認した後、運転手はドアを閉め乗客を残して走り去ってしまう。

「じいちゃん家はー……」

 小さくなるバスの後ろ姿から視線を逸らすと、ゆっくりと歩き出す田舎道。ブロックを積み上げた塀の向こう側に植えられた防風林が、太陽の光を浴びて青々とした葉を揺らしている。バスの後を追うように通り過ぎていく真っ赤な車はレンタカーで、随分と開放的な格好をした男性と女性が楽しそうにガラスの向こう側で笑って居る。路地から本線に合流してくるのは原動付き自転車。使い古して傷のあるヘルメットを被った老年の男性が、欠伸を零しながら大分ゆっくりとした速度でレンタカーの後に続く。

「ニャア」

 突然耳元で聞こえた声に驚いて振り返ると、身長よりも頭二つ分ほど高い塀の上に一匹の猫が座りこちらを見ている事に気が付いた。

「何だよ」

「……………………」

 人に慣れているのだろうか。猫は特に逃げる様子も無く、長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。何の特徴も無いキジトラの猫。もしかしたら、この家の飼い猫なのかも知れない。

「チチチチ……」

 別に好きでもないし嫌いでもない動物。それなのに、姿を見ると無意識に舌を鳴らし指を伸ばしてしまうのは何故なのだろう。

「うなんっ」

 あともう少しで触れられる。そんな距離まで指が近付いたところで、猫は嘲笑うように立ち上がると、踵を返し塀の向こう側へと姿を消してしまった。

「何だよ。つまんねーな」

 取り残されて独りぼっち。行き場を失った手を乱暴に下げると、猫のことを忘れるように首を振り祖父の家に向かって歩き出す。途中、共同売店に立ち寄り安価なアイスバーと数種類の駄菓子を買って食べながら進む道。清涼感のある青色のソーダバーは暑さで少しずつ溶け出し、甘い汁がポタポタとアスファルトの上に落ちる。汚れないように角度を調整しながら慎重に齧り付き減らす体積。身体に感じる暑さと口の中に広がる冷たさが絶妙にマッチし、不思議な心地よさを感じ表情が緩んだ。

「おじい、いるー?」

 色褪せたブロック塀を辿り、暴風壁を越え母屋の縁側から声を掛けると、居るかと問いかけた祖父ではなく、花柄のワンピースにエプロンを着けた祖母が姿を現した。

「あい! 雅充! あんた、どうしたの?」

「お母ぁがこれ、おじいんとこ持ってけって」

 上がりなさい。そう手招きする祖母に小さく頷き靴を脱ぐと、仏間に上がり背負っていたリュックサックを下ろす。ジッパーを動かし中から取りだしたのはA3サイズの茶封筒。

誠仁せいじんおじさんのやつって言ってたけど、オレにはなんなのかわからん」

「誠仁のねぇ? 何だろうねぇ……」

 何も書かれていない茶封筒を不思議そう眺めていた祖母は、徐に封筒を開き中身を覗き込む。

「おばあ?」

「ああ! これねぇ!」

 どうやらその中身に覚えがあるらしい。疑問が解消した事でスッキリしたらしい彼女は、豪快に笑いながらその封筒を仏壇の脇に移動させこう答える。

「おじいが役場行く用事あるって言うから持っていこうとしていた書類やさ。どこ探しても無いから寧子やすこに電話したら、自分が持ってるって言うから、持ってきなさいって言ったんだけどねぇ。そうねぇ。雅充が持ってきてくれたんだねぇ」

 有り難うねぇ。祖母のしわくちゃな手で頭を撫でられる。少しだけ恥ずかしく、むず痒い。

「べ、別に。暇だったし」

「そうねぇ。偉いねぇ、雅充は」

 ジュース飲むね? 祖母はこちらの返事を待たずして台所へと姿を消してしまう。一人取り残され手持ち無沙汰になってしまったため、ぼんやりと眺める外の景色。

「……暇」

 随分とうるさい音を立てて動く古いデザインの扇風機は、今にも壊れそうな見た目で。それでも件名に風を起こし涼しさを創り出そうと働いているのだから偉いもんだ。立ち上がること無く扇風機の前に移動し、口を大きく開けて声を出す。微弱の振動が揺らす音の波は、普段聞いているクリアなものではなく微妙な揺らぎを含んだ独特の音に変化し、擬似的に創り出された奇妙に少しだけ楽しくなってしまう。調子に乗って色々な言葉を扇風機に向かって吐き出していると、お盆にオレンジ色のジュースとお菓子を乗せた祖母が仏間に戻ってきた。

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