返リ路

ナカ

第1話

 長い夏の休みが始まり、毎日が怠惰に流れていく。特にすることが無い一ヵ月余りの時間。仲の良い友人たちは各々何かしらの予定があるらしく、メッセージを送っても既読が付くまでは時間が掛かっていた。

「みんな、どっか行くってよぉ……はぁぁ……」

 何気ない会話から得られた情報によると、友人うちの数人は家族と旅行に行くため地元を離れるらしい。こちらに残る友人も居はするが、既に遊びにいく予定があるらしく、何も予定が無いのは自分だけ。この退屈をどうにかするべく両親に、何処かへ連れて行って欲しいとねだってはみたが、お盆以外は休みが取れないとばっさり切り捨てられ、淡い期待は直ぐに打ち砕かれてしまった。

「お盆も九月に入ってからだし。どこにも行けんからマジつまらん」

 休みの間だけと特別に長時間のネットを許可されたスマートフォンの画面をタップしても、遊んでいるアプリのデイリーミッションなんてあっさりと終わってしまうのだ。報酬を受け取りストーリーを進めようと画面を切り替えて出てきたのは、深い溜息だった。

「イベントもメインシナリオも終わってるし」

 せめて何かしらご褒美が欲しい。そう思いガチャ画面を呼び出すが、ガチャを引こうにも課金は駄目と事前に釘を刺されているためガチャアイテムなんて皆無で。アップデートのタイミングで溜め込んでいたアイテムなんて全部最新キャラのガチャに突っ込んでしまったせいで、残りのガチャを引ける回数は一回だけしか残っていない。キャラクターの育成も新素材が対象になっているせいでスタミナをフルで使って回収出来る数には限界があり、幾つかのアプリをハシゴしたところで暇つぶしは直ぐに終わってしまった。

「あーあ。つまんねー」

 メッセージアプリを開き誰かからメッセージが来ていないか期待したところで、通知件数はゼロなのだ。期待するだけ無駄というもの。結局、電池を消費し熱を帯びた端末に充電コードを刺してベッドに放り投げるまでが一連の流れで。今日もまた、このルーティンを行い大きな欠伸を零したとしても、状況なんて何一つ変わる事は無い。

「腹減ったなぁ」

 カラカラカラ。音を立てて羽を動かしている扇風機から感じるのは生温かさの混ざる涼しさではあるが、僅かばかりの涼を求めて無意識に服の裾を持ち上げてしまう。服の中に潜り込んでくるのは回転翼によって押し出された風で、汗ばんだ肌の上を滑るように当たるそれが奪う気化熱が、ほんの一瞬だけ全身に纏わり付く不快感を忘れさせてくれるのが心地良い。クーラーをつけたいと思っても、風鈴が揺れ軽やかな音色を奏でている以上、風は確かに室内に流れ込んでいる。風の通り道さえ確保してしまえば、それなりに暑さはやり過ごせるのだから、結局電気代が高くつく万能な機械を稼働する決定打には欠けるのかも知れない。それが実に狡いと感じ無意識に出た舌打ち。それでも溢れ出る汗は止める事が出来ず、乾いた喉を潤すために起き上がると、頭を掻きながら向かうのは台所だった。

 台所では低い音が響いている。この音がなんなのかという原因を探ると、その答えは直ぐに見つかった。

「あ。換気扇」

 普段は消し忘れることの無い換気扇だが、何故か勢いよくファンを回している。珍しいこともあるものだと思い、首を傾げながら辿る記憶の中で思い出すのは母親の行動で。確かに今朝は、母親がいつも以上に焦っていた気がして軽く手を叩く。

『あんた! 朝ご飯と昼ご飯は冷蔵庫に入れてあるから、自分で温めて食べなさいね!』

 別に怒っている訳では無いはずなのに僅かに怒気を含んだ声。それが脳内で再生される。

『んぁ……?』

『じゃあ、お母さん、行ってくるから!』

 半覚醒の状態で母親を見送るのは自分で、母親はこの時期によく見かけるかりゆしウェアに身を包み、必要な荷物を収めた大きめのトートバッグを肩に掛けた状態で玄関のドアノブに手を掛けている。

『食器は洗っておいてね! じゃあ、お留守番よろしくね!』

 こちらの返事なんて待つことは無い。言いたいことを一方的に伝えると、開かれた扉から勢いよく飛び出していく母親の姿。ヒールが廊下のコンクリートと触れる事で響いた足音が遠のいていくのを感じながら、誰も居なくなった玄関に向かって呟いた一言は、母親のことを送り出すために放った言葉だった。

『いってらっしゃーい』

 彼女の足音よりも随分とゆっくり閉まる扉は、実に頼りない音を立てて外界とこの部屋の接続を断絶する。一応軽く押して扉が完全に閉まっていることを確認した後鍵を掛けると、怠惰な二度寝を貪るために自室へと引き籠もる。どうせ予定なんて何もないのだから、自堕落な生活が続こうが知ったこっちゃない。そうやって実に贅沢な時間の使い方をしているときには気が付かなかったのだ。母親にしては珍しい小さな失敗の存在に。

「まったく……」

 とは言え、別にガスコンロの消し忘れでガスが漏れているとか、プラグが抜けかけた所に埃が溜まっているとか。そう言う危険が伴うミスではないため心配事なんて本当に小さなことだけで。微々たる電気代が先月よりも加算されるというもったいなさ以外に特に影響の無い消し忘れを始末すると、漸くこの場所に来た目的を果たすべく冷蔵庫を開ける。

「……………………」

 随分と温度の低い空気。内側に閉じ込められていた冷たさは、扉を開くことで外へと逃げだしていく。内側を白色のポリ・エチレン・エレフタレート樹脂で囲んだ箱の中にあるのは、母親の用意してくれた二回分の食事で。育ち盛りの我が子のためにと量を多めに作ったおかずがタッパーに収められて冷やされている。

「夕飯分は無いから、今日は早く帰ってくる……ってことかな?」

 机の上に置かれた置き時計のデジタル数字は、もう少しで正午になることを示していた。朝ご飯は二度寝のせいで食べそびれたため、これが本日初めての食事となる。窓を開けて風の通り道を作っているとは言え、室内の気温はそれなりに高め。扇風機から離れたことで再び吹き出す汗のせいか、熱を持った食べ物を食べる気にはなれそうに無い。

「んー……」

 折角用意してもらった食事は、どちらも電子レンジを使用する必要のあるおかずで、どちらを食べても汗は掻くのだろう。さて、どうしようか。そう考えていたところで目に止まったのは、一食分だけ残された冷やし中華のパッケージだった。

「ラッキー! 良いもんみーっけ!」

 三つある選択肢から迷わず冷やし中華を選ぶと、麦茶を入れた冷水筒と共に取り出し食事の準備に取りかかる。深さのある皿が一枚、中途半端に開封されたインスタントの冷やし中華が一つ。面倒臭いからトッピングは無しで、茹でる必要の無い麺の袋を開封すると、雑に皿の中に放り込む。箸で簡単に塊を解した後で中華ダレを満遍なく振りかけ、味が馴染むように念入りにかき混ぜたら調理終了。直ぐに食べられる状態になった冷やし中華とグラスに移した一杯分の麦茶を持って居間に移動した後、テレビを付けて手を合わせてからの「いただきます」。

「んめぇ!」

 黒い画面に映像が映し出される前に音だけがスピーカーから吐き出されたテレビは、どうやら昼のドラマが始まったばかりらしい。毎日見ている訳では無いため、話がどこまで進んでいるのかは判らない。だから、このドラマが面白いのかどうかなんてことは判らなかった。それじゃあ何故テレビを付けたのかというと、単純に寂しいと感じたからだ。

 一ヵ月以上もある退屈な時間。その中で他人と共有出来る時間なんてものはごく僅かなものしかない。大半は一人で過ごす時間の方が多く、それ故に時間の経過の感覚が随分と遅く感じてしまう。それを軽減させるために何かしらの音が欲しいと思ってしまうのは、孤独を紛らわせたいという本能からくるものなのだろう。

 演者によって物語られるのは、特に内容を楽しむつもりのないシナリオ。薄っぺらい液晶の向こう側で輝く世界に、自分の居場所なんて始めから存在していない。それでも、そこで生きる役には確かにドラマがあり、だからこそそのことが羨ましいとも感じるし、そんな非日常に憧れを抱いてしまうのかも知れない。それが例え幸せな結末ではないとしても、たった一人で過ごす退屈を止められるのなら喜ばしいと思う事には違いが無かった。

「……………………」

 勢いよく麺を啜ると、口の中に広がる酸味。冷蔵庫で冷やされていた中華麺に絶妙な感じで絡んだタレは、程良い味の濃さと清涼感を与えてくれる。麺の甘みとタレの酸味のマリアージュに舌鼓を打ちながら、次へ次へと口の中に押し込まれていくインスタントの食品。ただ、ずっと食べ続けていると単調になり、味に飽きが来てしまうのは問題だ。しつこく残る酢の味と、それに寄り添う柑橘系の匂い。それを洗い流すように麦茶で流し、更に残った残りの麺を勢いよく掻き込む。

「ごちそうさま!」

 食事という儀式の終わりを告げる行動と言葉でその行為を締めくくると、使った食器を片付けるべく再び台所へ。居間からは付けっぱなしのテレビが音を垂れ流し、時間が静かに流れていることを告げていた。

 蛇口を捻って自由を得た水の流れに手を翳し、汚れた食器を軽く水洗いする。濡れたスポンジには粘り気のある食器用洗剤。軽く揉むと直ぐに泡立ちスポンジは真っ白に染まる。中華ダレに含まれる油分のせいで陶器の表面に付いた滑りは、強力洗浄と謳われた中性洗剤によって食器の表面から剥がされていき、流水でそれを取り払ってしまえばあっとうまに綺麗な状態に。水気を帯びた洗浄済みの皿を水切り籠に雑に収めると、蛇口を捻って水を止め最低限のノルマの達成に一人頷く。

『よくやったね、偉いわよ』

 お手伝いをすれば褒めて貰える。そんな期待はとても淡く、浮かべた笑みに思わず「そんなことはないよ」と呟きそうになった。

「……………………」

 だが、残念ながらこの家に居るのは自分一人だけ。台詞は変われどテレビからは、こちらとの会話など成立することの無い一方的な台詞が吐き出され続けているし、人気の無い家の中はやけに寂しく感じてしまう。窓の外から聞こえてくる音はこんなにも賑やかなのに、扉一枚で隔たれた小さな世界は、どこまでも交わらない外側と内側の溝をただ、ただ、大きく広げていくだけだった。

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