19130601
その男は、荒れ果てた高地を歩いていた。
男が何かこの土地に、特段の用事があったというわけではない。
彼は、裕福とは言わないまでもそれなりに蓄えがあったため、成人しても就職して働こうとは思っていなかった。
かといって、何か目的や目標があるわけでもない。
強いて言えば、小説を書いてみたいという漠然とした願望こそは持っているが。
勉強や努力をするわけでもなく、何かの作品を実際に、書いてみたわけでもなかった。
ぼんやりとした意識のままに日々を過ごす、それが男の人生であった。
それ故に、この土地を訪れたのも単なる偶然に過ぎない。
目的もなく、かといって家に居れば「働け」と迫る家族が煩いため。
適度に知らない場所を散歩してみようという、その程度の動機でしかなかった。
「ん?」
逆に言えば、何かしらの目的に飢えていたのかもしれない。
気なしに周囲を見渡していた男は、奇妙なものを見つける。
見渡す限り土と岩と、それ以外には何もない荒野に建つ1軒の小屋。
そして、そこで何かの作業をしている人影を見つけた男は、特に何か意識するでもなく向かい、挨拶を交わした。
「こんにちは」
「……あら。こんにちは、珍しいですね、このような場所に」
レンガ造りの小屋に居たのは、女であった。
金髪のウェーブのかかった髪に、緑色の目を持っており、外見こそ若いものの、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
女の手には、ボロボロで使い古された農具が握られており、小屋の近くにはいくつもの小さな鉢植えが置かれていた。
小鳥のための小屋と、養蜂用の木箱も見える。
それ以外には、せいぜい井戸が一つある程度か。
どうも、この場所に住んでいる様子だ。
しかし、物資の調達もままならないだろう、こんな人里離れた荒野に住んでいる割には身綺麗だなと、男は何となく思った。
男が尋ねれば、女性は
男は首をかしげて尋ねた。
「いったい何故、そんなことをしているのか」と。
すると女性は、特段、気にした風でもなく答える。
女性は随分前に夫を亡くし、この土地に一人で住んでいる。
特別他にすることもないので、この荒れた土地に木を植えているのだ。
何年も前から楢の苗を育てていて、そろそろ土地に植え替えて育てられそうだと。
楢以外にもいろいろと植えるつもりだと、女性は話した。
男は話を聞いて多少なりとも興味を持った。
とはいえ、何となく気になった、本当にその程度であった。
男の琴線に触れたわけでも、心に感じ入ったわけでもなく、これ以上踏み入れようとも思わなかった。
そうして、差しさわりのない程度に話を続けた後、女は再び仕事に戻る。
男は、女と別れた後は、また当てもなく、ぶらぶらと歩く日々に戻っていった。
そして月日は流れ。
長い戦争が終わった。
男は、荒野に戻ってきていた。
戦争で、男は不幸にも徴兵され従軍する羽目になり、そして神経を摩耗していた。
未だに銃弾が飛び交う音が聞こえるし、夜寝ていても砲弾の幻聴が聞こえて飛び起きてしまうこともあった。
軍は大した手当を寄こしてくれることもなく、男を実家へと送り返した。
それなのに、家族も帰ってきた男のことを鬱陶しく思い、邪険に扱っていた。
仕方なく家を出ていった男は、どこか人のいないところで、澄んだ空気を吸いたいと思っていた。
荒野に戻ってきたのは、ただそれだけの理由であった。
しかし、高地に到着した男は「あっ」と声を出して驚く。
荒野は、森になっていた。
いくつも植えられた楢が、荒れた土地を覆っていた。
他にも
木々の多くは、男の背丈を抜いていた。
男は走るように、女の住んでいたレンガの小屋へと向かう。
女は最初に出会ったあの日と、何も変わらない様子で、今は新しい植物の苗の選別を行っていた。
女は、男を見ると「こんにちは」と挨拶をする。
そして女も男のことを見ているうちに、以前にも男と会ったことを思い出したのだろう。
「ああ」と手を打ちながら、笑った。
話を聞くと、戦争の間も女は変わらず、ここでずっと植樹を続けていたらしい。
男は、その後も年に一度この場所を訪れるようにしていた。
女がずっと年若いままであることに、男は気が付いていた。
しかし、男は「女性に年齢のことを聞くのは野暮だ」と格好をつけて、そのことに触れることは決してなかった。
荒野の変化は、ごくゆっくりとしたものであった。
ただの数日で見間違えることもなければ、数年経っても変わらない場所もあった。
それでも着実に、しっかりと、荒野は森へと生まれ変わっていった。
枯れた土地に水が戻り、湖や川が復活した。
近郊で絶滅したのではと思われていた動物たちが森に戻ってきた。
様々な学者が訪れて、この「自然のいたずら」に目を丸くしていた。
季節は巡る。
男が結婚し、子どもが産まれて、その子どもが大学に通うくらいになったころ。
森が広大になって。
近くに、若い人間たちがやってきて入植するようになったころ。
何もなかった荒野が、すっかりと緑豊かな土地になり、人も動物も、皆が不自由なく暮らせるようになったころ。
女は男にこう話した。
「この場所は、もう手がかからなくなりました。そろそろ、次の荒野に行こうと思います」
男は驚いた。
おそらく、男の人生で最も驚いた瞬間であった。
女が行ってきたことは、偉業であると男は信じている。
何かのスポーツでメダルを取っただとか、何か感動する映画や物語を書いただとか、戦争ですばらしい戦績を上げただとか。
そんなモノよりも、女がしてきたことは、遥かに素晴らしいものであると思っていた。
なのに、女はここまで手間暇かけて育てた森を出ていき、さらに別の場所で植樹をしていこうと言っているのだ。
男には、こんなに素晴らしいものを手放すことを惜しまない女のことが、理解はできても納得することはできなかった。
それならば、例え業突張りな政治家どもが金銭を与えるのを拒んだとしても、代わりに表彰や勲章を与えられて然るべきであり、そうしなければならないと思った。
何なら、男は自分のツテをつかって女の功績を知らしめようとすら思った。
しかし、女は何の見返りも求めないと答えた。
自分が好きでしていることだからと。
誰かのためになるのは喜ばしいことだけれど、称賛は欲しくないと。
それならば、と男は女の活動を小説にしても良いかと尋ねた。
女は、お好きにどうぞ、と答えた。
男は後日、その生涯をかけて女の功績を本にしたためた。
最後に、男は思い浮かべた疑問を女性に投げかけようと思った。
小説を書くことに必要な情報やエピソードなどを、女から聞き出そうと思った。
が、どうにも上手い言葉が思い浮かばなかった。
しかし何かを聞きださなければ、女性が立ち去る前に聞かなければと、思考を巡らせて、なんとか口を開く。
男はただ一つだけ、質問をした。
「いつまで、苗を植え続けるのか」という男の言葉に、女は僅かに笑顔を浮かべる。
それは優しく絶望しているようで。
穏やかに諦めているようで。
しかし、花の咲くような。
男が今まで見たこともないような、素敵な笑顔だった。
女は、右肩に
左肩に分蜂した女王蜂を留めて。
使い古してボロボロになった農具を右手に持って。
鉢に植わった
答えた。
「世界にすべてたりるまで」
世界にすべてたりるまで 三二一色 @321colors
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