寿限無詠唱

赤井五郎

寿限無詠唱

 寿限無詠唱




 姉が最初に魔術で火を付けたのは六歳の時だったらしい。僕はまだ三つだったから覚えていないが、その前の年に母を熱病で失っていた父は、我が子の才能に驚くと同時にとても喜んだのだと何度も聞かされた。

 僕が五つのとき、冬間近の森へ姉と野草を摘みに出かけたことがあった。

 天気を気にして早く帰ろうとする姉を僕は何度も引き留めた。森をうろつく楽しい時間を長引かせたかったのだ。木のうろを覗いたり、古木クラアバの根元を掘って虫を探したり、一人では怖くてできないことも、姉が傍らにいれば平気だった。

 この辺りは雨といってもせいぜい霧雨程度のことが多いけど、数年に一度、気まぐれな水の精霊が過剰な慈雨をもたらす。この時も、突然のひどい雨と雷に追われて、僕達は慌てて猟師の休憩小屋に逃げ込む羽目になった。

 無人の小屋には暖炉があったけど、火を付けるような道具はなく、僕も姉もずぶ濡れで、寒さに震えていた。雨の中を走って帰ろうと姉が提案したが、雷はそれこそ精霊がひどく怒っている証で、人間が逆らえない事象だ。その中を帰るなんて考えただけで怖ろしくて、僕は姉にしがみついて絶対に嫌だと泣きわめくだけだった。

「しょうがないな。あなた、そこに座って見てなさいよ」

 それは姉が呪文を詠唱するときの言葉で、それを聞いて僕は怖いのも寒いのも一瞬忘れた。

 姉は暖炉の中に何本か残っている燃えさしの薪を組み直した。

「ちょっと湿ってるから火力強めにしないと。来週魔術の試験だから、いま力を使いたくないんだけど」とぼやきながら精霊に祈りを捧げるための手印を作った。

 目を閉じた姉の姿を僕は見守る。

とおとおの命を火の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え」

 呪文の導入の『祈り』が届いた証に姉の足元がうっすらと赤く円形に光る。いつもは『一つ』の祈りばかり見ていた。『十』の祈りなんて初めてだ。僕はそれだけで少し興奮した。

「火の精霊フラともしびありがたし、火の精霊のご加護ありがたし、火の精霊の怒りなおありがたし。我の感謝を聞き入れ給え。願いは祈り。祈りは言葉。十の命のお力をハラとしていまここに顕現させ給え」

 最後の『嘆願』が終わる。

 冷えた空気に染み渡る、凜とした詠唱だった。

 差し出した姉の手からゆるく燃える火の玉が現れる。『一つ』の時より何倍も大きい。僕はその不思議に魅了される。姉が押しやるように火球を暖炉に導くと、積んであった薪が燃え始めた。その火のおかげで僕等は凍えずに雨が止むのを待つことができた。

 気まぐれな悪天候から逃れて村の近くまでたどり着いた頃には、空に雲はほぼなくなっていた。

 小麦畑の向こうに見える夕焼けを姉が指さす。

「見て、すごくきれい」

 姉の姿は鮮やかな橙に染まっていた。

 そうだね、と僕は頷いた。

 この日、僕は自分の進む道を決めたのだと思う。

 

 

 魔術の教本の一ページ目には『呪文を正しく唱える自信と勇気の無いものはこの道を行くべきではない』と書かれている。

 正しい呪文を唱えるなら、文言は完全に覚えておく必要がある。書かれた言葉を見ながら読んでも何も起こらない。これは精霊に対する取引のお願いであり、人間側は本気であることを態度で示す必要がある。書いてあるものを読むのでは、精霊が納得しないのだと、そういう説明がされていた。

 そして、呪文を唱えるなら、詠唱は早く終える方が良い、とも言われている。それはそうだ。小さな火を灯すのに半日かかっていたのでは、隣家に火種を借りに行くか、木を擦り合わせた方がよほど早い。ただ、これは実のところ相反することで、呪文は長い方が威力が増すし、丁寧に心を込めて唱えた方が効き目があるというのは最初に教わる呪文詠唱の基礎だ。

 それを踏まえた上で『効果的な事象を的確な早さで生み出すことができる人』というのが優れた魔術師ということになる。

 

 

 多くの村では引退した魔術師が子供達を集めて魔術の基礎を教えており、才覚を認められれば、都にある国の魔術学校への入学を推薦してもらえる。

 こんな田舎では滅多にないことだったが、姉はまさにその選ばれた人となった。魔術学校から入学を許可するという手紙が届いたときの姉の笑顔。父親の誇らしげな表情が忘れられない。

 姉が入学のために村を離れるときは、近所の人達が集まってきて姉の門出を祝い、馬車を見送った。

 僕は姉に憧れて八歳の時から村の魔術教室で魔術を習い始めた。

 

 

 呪文を無闇に口にすべきではない。

 最初に呪文を習うときに繰り返し言われることだ。

 僕は教書の呪文を目で追い、指でなぞって覚えた。優秀な姉に続くべく、日々魔術の練習に勤しんだ。覚えるのは得意だった。

 実のところ、魔術なんてものは呪文を覚えて詠唱すれば誰にでもできる。ただ、能力のあるものが一度の詠唱で済むところを、それが無いものは二回、四回、あるいはそれ以上繰り返して唱える必要があるというだけだ。

 そして、あらゆる魔術には代償が必要となる。それはそうだ。何もなしに精霊が奇蹟を与えてくれるなんて都合の良いことはない。強力な魔術であればそれだけ多くのものを精霊に差し出す必要がある。

 人が精霊に捧げることができる唯一のもの。それは寿命だ。

 つまり『魔術とは己の命の一部を差し出して、精霊の奇蹟と交換する契約』ということだ。

 その『差し出す寿命の長さ』を宣言するのが呪文の最初に出てくる数になる。

 一日を二十で割ったアーキが単位になっているという話だけど、人が生活の利便のために決めた単位が精霊に認識されているのか、という疑問を持つ人は多い。

 もしかして一日が単位ではないか、と怖ろしいことを言う人もいるけど、いくらなんでもそれだと魔術師はすぐ死んでしまうことになるので、一般の人と魔術師達の平均的な寿命の差と、彼等が生涯に使った呪文の合計値から導き出した『妥当な考え』として、アーキが単位であろうという事になっている。

 十で始まる呪文は半日ぶん。それを二回使えば二十アーキ、つまり一日ぶん、魔術師の寿命が縮まる。

 だから、あの時、森の小屋で十アーキの魔法を唱えた姉は半日分の命を削ったことになるのだと、僕は何年か経ってから気がついた。

 僕のせいだ。姉の言葉に従って早めに帰っていれば良かったのだ。

 唱えれば唱えるだけ、魔術師は己の寿命を縮める。

 ただ、魔術が上達してくると、次第に少ない数で大きな効果を得られるようになる。それこそ、一年後の姉は森の小屋で作った火球よりもっと大きな火を一アーキで作れるようになっていた。

 姉の才能はすごかった。

 魔術学校で習うものは多くて三アーキ。大半が一アーキで、何度唱えたところで大きく命が縮まることはない。それでも、無闇に唱えないように厳重に注意されていた。

 そうは言っても、才能もないのに呪文を唱えるということは、無駄に寿命を削ることを意味する。だから、魔術師を目指す者はある程度のところで決断を迫られることになる。

『才なき者は唱えるべきではない』という言葉は実にもっともだ。

 僕は姉が小屋で作り出した火球の、その半分の半分ぐらいの大きさを生み出すのに十アーキの呪文を五回は唱える必要があった。魔術師の道を目指してから三年でだ。それが僕の才能の限界だった。

 それでも、僕は呪文を唱えるのが好きだった。詠唱を繰り返すと、体の中を何かが巡るのを感じた。自分が奇蹟を起こすことで、姉に近づけるように思えた。一アーキの火球を五回の詠唱で出せるようになった時、年末に帰ってきた姉に見せた。

 小指の爪ぐらいの炎を両手の間に出して「ほら、僕にもできたよ!」と大声で叫んだ僕に対して「それぐらいで得意げに言わないでよ」と姉が言った。

 僕はすごく悲しくなった。

 確かに姉の作る火に比べると、あまりにお粗末だった。

 魔術を習い始めて四年目。十二歳の時、僕は魔術師の道を諦めるよう師範に言われた。

「君には向いていない。このまま続けると、君もご家族も不幸になる」

 師範の言葉は絶体だった。

 この年、姉は都の魔術学校を優秀な成績で卒業し、そのまま都の土木建設担当魔術師として働き口を得た。

 建物を作ったり、橋を架けたりする際に魔術の力が必要とされることがある。

 忙しいけれど、人々の暮らしを支える大切な仕事なのだと、帰省した姉が誇らしげに言うのを、父は嬉しそうに聞いていた。僕は自分が魔術を止めるように言われたのだと姉に打ち明けた。笑い話にしようとしたのだけど、悔しくて言葉が詰まった。

 姉は「でも、あなたは頭が良いんだから、医者になってよ。その方が皆もよろこぶよ」と言った。

 村には年老いた医師が一人。優れた技術を持った若い医者は人の多い町へと行ってしまうため、付近の小さな村では医者の居ないところもあるぐらいだ。母が熱病に罹ったとき、僕の村の医者は他の村に呼ばれて不在だった。居たからといって母が助かったかどうかはわからないが、僕達家族の間には悔しさが根強く残されていた。

「魔術で人は治せないんだから」

 その表情は真剣で、魔術師になれなかった僕への慰めなんてものではなく、もっと大きな視点で語られる言葉だった。

 

 

 僕は姉の言う通り医者を目指すことにした。父には言わずに、いままで魔術の習得に費やしていた時間を医術の勉強に当てた。

 魔術で人は治せない。

 これは一般的にその通りだった。

 実際には不可能ではない。

 例えば、切り傷程度なら、五千アーキの詠唱で治すことはできる。

 魔術師の寿命二百五十日分だ。

 刀で切られたような深い傷なら五万の詠唱が必要だと言われていた。

 魔術師の寿命二千五百日分だ。

 一流の魔術師が行った場合でこれだという。二流、それ以下であればこれを何度か繰り返さなければならない。

 つまり、割に合わなさすぎるということだ。

 医療魔術の研究が熱心にされたこともあった。その時代の権力者が己の苦痛を少しでも早く和らげるために魔術師を犠牲にしていたことがあり、できるだけ効率の良い呪文を生み出そうと多くの試みが成された。

 その歴史があっての『切り傷二百五十日』だった。

 百アーキを超える呪文は『累日魔術ディエルム』と言われ、稀に使われることはある。例えば崩れた建物の下敷きになった人々を急いで救出する、といった場合に魔術師が自分の寿命の数十分の一を差し出して重い瓦礫を取り除き、人を救うということはあった。

 そんな時には国が魔術師に報奨金を出したり、勲章を与えたりして、魔術師の行いを尊いものとして讃えた。

 魔術師が一般的に尊敬されるのは過去にいくつものそういった例があるからだ。

 

 呪文を唱えた際に、いつ呪文の代償を『支払う』のか。

 これは詠唱が終わった瞬間だと信じられている。

 今まで、呪文が終わると同時に絶命する魔術師が多く存在したからだ。一流の魔術師は己の寿命も計算して、あとどれぐらいの魔術が使えるか、おおよその把握をしているという。最後に大仕事を終わらせて地上を去った魔術師は、それこそ長く語り継がれるようになる。

 悲惨なのは、残念ながらそれに失敗した魔術師で、大きな数の呪文を唱え、それが効力を発揮しないので、二度目を詠唱しようとしてそのまま息絶えるといった例だ。最後の命がけの呪文が何も成せない。これは気の毒だ。

 

 

 僕は魔術が好きだ。医術の勉強もしながら、治癒の魔術の文献も読み漁った。ただ、もう覚えることはしない。知っていれば使いたくなる。誘惑に負けて口にすれば自分の命を大幅に縮めることになる。

 そうではなく、自分が会得した医者としての治療法がどれだけの魔術師の命に該当するか、ということを調べるのが目的、ということにしていた。

 例えば腕の骨折を治すためには副え木を当て、粘土で固める方法が一般的だ。適切な治療をすれば時間はかかるがほぼ元通りになる。これに該当する呪文を探すのはそれこそ骨が折れたが、三万アーキで始まる呪文があった。

 僕は魔術師としては初歩のところで挫折したわけだが、医術を学ぶ、という点ではかなり優秀だったと思う。何しろ覚えたことがそのまま役に立つのだ。いくら正確に詠唱しても吹かない風、出ない炎に感じていた無力感が、医術にはないのだ。

 村で唯一の医者の下で手伝いをしながら色々な薬の作り方、様々な病気の治療法、患者との話し方などを学んだ。彼が僕にとっての医術の師匠となった。

 少しずつ治療を任されるようになり、十七歳で医者を名乗っても良いと言われた。

 国家が認める医師は都で専門の学校に行って試験に合格する必要があったが、田舎ではその土地の医者が認めれば周りからも医者と見做される。多くの村はそれでやってきた。

 

 

 師匠のすすめで僕は近くの無医村へ移り、医者として働き始めた。手に負えない怪我や病気は師匠に回せばいいと言われた。忙しかったが、人を助ける為の日々はそれなりに充実していた。お金もそこそこ稼げるようになると、僕はあちこちの村の本屋に行っては魔術師の書いた本を買い漁った。

 そう言えば、デュロッドというある高名な魔術師が記した『魔術師ノ心得』という随筆のような機構本入手した。その中に『魔術師の禁忌・やってはならないこと』という記載があった。

 魔術師への道は断念せざるを得なかったとは言え、魔術に関する知識では大抵の人には引けを取らないと思っている。魔術師がやってはいけないことといえば『うろ覚えでの詠唱』『一度で効力を発揮できない呪文の使用』『発現した奇蹟に回りの人を巻き込むこと』などが思いつく。

 デュロッドのいう禁忌とは何だろうかと思いつつ、こんな古い本で今さら新しい知見は得られないだろうと高をくくっていた。

『呪文は代償となるアーキの量を示す『祈り』に始まり、最後そのアーキ分の力を与えるようにという『嘆願』で終わる。『祈り』を口にし、精霊の承認があると、魔術師の足元が少し光る。それ以降は呪文の完了だけでなく、中断や、唱え間違いがあった場合にも示したアーキの量が魔術師の人生から奪われるとされている。正しく唱えても魔力が弱く奇跡が起こらない場合は同様だ。

 禁忌とは『嘆願』の手続き関するものだ。

 呪文を締めくくる『嘆願』では冒頭と同じアーキの量を引き合いに奇蹟の顕現を要請する。この値を間違えても魔術は発動しない。八十アーキの祈りを百アーキで締めくくると魔術は失敗して八十アーキが奪われるという。呪文を間違えたのだから当然だ。まあ、初心者だけでなく、有事の際に冷静さを失った魔術師がやりがちなことではある。

 しかし、ここに怖ろしい禁忌がある。

 わたしの師匠はこれを『ゼロの詠唱』と呼んでいた。

 最後の嘆願で『零』で締めくくると、奇蹟が起こらないだけではなく、魔術師に対して竹篦しっぺ返しともいうべき精霊の強い怒りが向けられるのだ』



 零の詠唱。

 僕はその言葉に高揚していた。これは初めて聞く言葉だ。いや、こんな簡単な禁忌を今まで知らなかったというのは、おそらく一般に対して秘匿されている事柄なのだろう。

 かつて姉が森の小屋で唱えた基本的な呪文でいえば、冒頭の『とおとおの命の火の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え』の部分が『祈り』であり、最後の『十の命のお力をハラとしていまここに顕現させ給え』の部分が『嘆願』だ。

 この部分の呪文を『』に変更すると零の詠唱になる。なんと簡単なことか。

 しかし、精霊の怒りとは、具体的に何が起こるのか。ありがたいことにデュロッドがその先で説明をしてくれていた。

『例えば三十以下のアーキを用いた呪文であれば、零の詠唱による竹篦返しはたかが知れている。炎系の呪文では服の一部が激しく燃える。水系であれば突然ずぶ濡れになる。雷系であれば全身が痺れるといった程度で、危険ではあるが命を落とすようなものではない。ただ、百を超えると、確実に命を危険に晒すものになるというのが我々の間の共通認識である。詳しい例を出せないのは大きな呪文で『零の詠唱』を試みる者がいないためだ。訓練を積んできた経験豊富な魔術師をわざと危険に晒すわけにはいかない』

 零の詠唱に関してはその程度しか書かれていなかった。

 僕は知りたくてたまらなかった。『零の詠唱』はきっといまの魔術師達の間でも知られているだろう。それでいて一般には知らせないという暗黙の取り決めが彼等の口をつぐませているのだ。世のことわりの一端を垣間見て、それを秘するというのはどんな気持ちだろう。

 やっぱり僕は魔術師になりたかった。

 

 

 年末、姉が三年ぶりに帰ってきた。

 都にいる魔術師の多くが周辺の地方から来ており、やはり年末の休みには多くが故郷へ帰る。しかし、全員が都からいなくなると緊急災害時に対応できなくなるため、必ず何人かは残る必要があるそうだ。

「駆け出しはその役目が押しつけられるのよ」とぼやく姉に、以前のような誇らしげな表情はなかった。色々と大変なのだろう。

 僕が近くの村で小さな診療所を構えていると言うと、姉はそれを見たいと言ったので、馬車を出して案内することにした。

 診療所と言っても古い家を譲り受けて改装しただけだ。衝立や薬棚、診察用の椅子や寝台も全て普通の家具である。

 それでも姉はひとしきり見た後で「すごいじゃない」と声を弾ませて言った。僕は苦笑するしかなかった。

 診療所の机で持ってきた昼食を食べた。

 僕は村での診察の様子を散々聞かれた後で姉に聞いてみた。

「ねえ『零の詠唱』って知ってるだろ」

 僕は内心の興奮を表に出さないようにさりげなく言ったつもりだった。

 姉の表情は変わらず、大きく口を開けてパンにかじりついた。

「どこでそんな言葉知ったの?」

「デュロッドの本で読んだ」

「ああ『魔術師ノ心得』か。市場に滅多に出回らないんだけどね。あんたはまだ魔術のこと調べてるの? 物好きねえ」

 姉が小さなトマトを頬張って窓の方を見た。その動きから何か言うのだと分かる。僕は返事を待った。

「あるわよ。零詠唱。学校で習ったけど、いまの今まで忘れていたぐらいよ」

「危険なんだろ? 魔術師の間で話題にならないの?」

「魔術師は人々の役にたつと信じて自分の命を削ってるの。呪文をわざと間違えるなんて罰当たりもいいとこでしょ。そうする理由がない。あり得ないわ」

 なるほど。

 より突っ込んだ話が聞けなかったのは残念だったけど、誇り高き魔術師の間では論外だということを知ることができた。それはそれで満足すべき結果だった。

 

 

 年が明けるとすぐに姉は都へ戻っていった。診療所が始まるのはまだ少し先だったけど、僕はやりたいことがあったので一足早く戻ることにした。

 

 

 窓から昼の穏やかな外光が差し込む。机の上の燭台は消してある。暖炉では小さく火が燃えている。

 子供の頃に使っていた古い魔術教本を開き、念のため、初級用の火の呪文をもう一度指でなぞって黙読する。かつて、暗記のために何度も開いた頁だ。自分が魔術師になって火や水を自在に操る未来を信じて疑わなかった。

 唱えるのは数年ぶりだ。最後の詠唱もこの火の呪文だった。先生の前で小さな火を出すのに呪文を五回唱えて、魔術師の道を諦めるように言われた。

 それ以来だ。

 手のひらをあわせる。印を作る。

「五つ。五つの命を火の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え。火の精霊の灯ありがたし、火の精霊のご加護ありがたし、火の精霊の怒りなおありがたし」

 唱えているうちに昔の感覚を思い出す。腕や脚の内側を何かが通り抜けるような感触。

「我の感謝を聞き入れ給え。願いは祈り。祈りは言葉」

 そして、ここだ。

ゼロの命のお力をハラとしていまここに顕現させ給え」

 詠唱を終えた瞬間、周りに白い光が差したように思った。次の瞬間、左腕に鋭い痛みが広がった。

 衝撃に思わずうめき声を上げる。しかし、それ以上の驚きを、自分の手のひらの間に生じたものから受けた。

 丸い火球。丁度、握った拳ぐらいの大きさのそれが静かに燃え盛っていた。あの日姉が出したものよりもかなり小振りだけれども、しっかりと燃え続けている。

 僕は慌てて暖炉にその火を放り込んだ。

 しばらく呆然としていたが、次第に左腕の痛みがひどくなってきた。

 見ると、肘から手首辺りまでの体毛が焦げて、皮膚が少し膨らみかけている。明らかに火傷を負っていた。

 僕は台所の隅にある水瓶に腕を突っ込んだ。火傷の具合を頭の中で整理する。全治二週間といったところか。跡は残りそうだが、診療や生活に支障はないだろう。

 夜食を食べながら僕は自分の行った実験について考えていた。

 零の詠唱による精霊の怒りはあった。それは呪文のアーキの大きさに比例するらしい。デュロッドの言うとおりだ。それを確かめずにはいられなかったのだ。

 初心者向けの五瑛アーキの呪文だからこそ、この程度の火傷で済んだのだろう。

 寝る前に、先ほどの火球を出す呪文を再度唱えてみた。零ではなく、通常の詠唱で。

 火が出るまでにやはり五回必要で、昔のように今にも消えそうな小さな火が出た。

 それと引き換えに僕の人生から二十五アーキが失われた。最初の零もあわせたら三十ということになるのか。

 しかし、この結果に満足していた。

 一般には知られていない魔術の現象に触れることができたのだ。

 そこから、僕はますます古い魔術書を集めるようになっていった。他に零の詠唱について書いてあるものを探したが、残念ながら見つけることはできなかった。

 

 

 春が過ぎて日差しが少しずつ勢いを増していく頃に、姉の遺体を引き取りに都まで来いという手紙が届いた。ひと月以内に行かなければ都で埋葬するそうだ。

 父は体調を崩していたので、僕は一人、荷馬車で都へ向かった。

 姉は都の近郊の山間部で建設工事に携わっていた。魔術師は大きな岩を砕いたり崖を崩したりと、工事の補助を行うらしい。

 そこで事故に巻き込まれたのだと、素っ気ない文面で説明がされていた。

 初めて訪れる都は低い山々に囲まれた広い平原にあった。壁に囲まれた町の真ん中に城のような高い建物が聳えている。その周囲の建物も立派なものばかりだったが、真ん中の美しい白い建築物が圧倒的だった。

 立派な門は立派な門扉で閉ざされていた。

 目つきの怖ろしい門番に手紙を見せると「お通り下さい。役場はこのまままっすぐ行ったところにある煉瓦造りの大きな建物です。そこでこの手紙を見せて下さい」と恭しい態度で通行を許された。

 言われた通りに滑らかな石畳の上を進む。道は広く、たくさんの人々が行き交っている。両側に立派な石造りの建物が並ぶ。商店が多いようだ。そして道沿いにずらりと並ぶ屋台では山積みのパン、炎で炙られた大きな肉の塊、色とりどりの果物、野菜などの食べ物だけではなく、なんと帽子や杖まで屋台で売っている。都とはそういう所なのだ。僕は自分の馬車がとてもみすぼらしく思えてきた。

 門柱に大きな看板が下がっていたので役場の建物はすぐに分かった。門兵に手紙を見せると「右の、あの赤い屋根の小さな建物へ行ってください」とこれも丁寧な口調で言われた。

 役場の建物は城かと思うほど立派な建物だったが、赤い屋根の建物は僕の村の共同倉庫くらいの大きさだった。

 荷馬車を降りて五段しかない階段を上がって玄関の扉を開ける。

 薄暗い。やけに冷える。人のいないホール。二階へと向かう階段と左右に伸びる廊下。

 そして、強烈なこうの匂い。死体安置所か、と気付く。

 右の廊下から台車を押した若い男が現れた。声を掛けると男が止まって僕を見た。

 台車に乗っているのは大きな氷だ。

 僕は近寄って手紙を見せた。男が大きく頷いて「氷を置いてくるので、ここでお待ちを」と左の廊下へ進んで一番手前の部屋に姿を消した。

 すぐに戻ってくるとほぼ無表情でここを管理している者だと自己紹介をした。無意味だと思ったが僕も名乗る。

「こちらへ」

 と階段を上がる管理人について二階へ。『軽微』『中度』『大』と書かれた小さな札がかかっている扉を通り過ぎて右側の棟の一番奥の部屋へと案内される。「ここです」

 下がっている札には『特殊』と書かれていた。

「各部屋に下がっている札は何を表しているのですか」

 彼が表情を変えずに「遺体の、損壊の度合です」と言った。

「なるほど」と僕は隣の扉を見る。

「他は分かりますが、特殊とは?」

「それらに当てはまらないものです」

 彼が扉を開け、中に入る。

 僕も後に続いた。

 

 

 透明な塊が部屋の真ん中にあった。一抱え以上ある。大きい。

 水晶、というのが一番近いだろう。しかし、そうではない。水晶は中に人を閉じ込めたりはしない。

 塊の向こう側に窓があり、光が壁や天井に反射して美しかった。青みがかった塊の中で、姉は身じろぎもせず目を開いていた。服は、作業服だろうか、やや野暮ったいが丈夫そうな檜皮ひわだ色の生地の上下。

「なるほど、特殊だ」

 僕はそう呟いた。

「一体、姉に何が起こったのですか?」

 僕の問いに管理人が首を振った。

「わたしにも詳細は分かりません……こんな状況は初めて見ます」

 そう言われて、そうですかと素直にうなずけるものではない。

「ただ、現場の作業員達は口々に呪いではないかと言っています。いまのところそれが結論になりそうです」

 なんだそりゃ。と言おうと思ったが止めた。そんな僕をどう思ったかわからないが、管理人は勝手に話し出した。

「お姉さんが派遣されたのは、ある貴族の別荘の建設でした。崖を見下ろす所に愛妾のための屋敷を作りたいということで、都議会から大至急の工事が命じられたのです」

「何でそんなものを公の機関が急がせるんだろう」

「貴族の寄付はこの都の重要な財源ですから、逆らえないのです。それが無茶な注文であってもです。山奥の崖は浅い横穴があり、その中に古い祠があったのですが、工事の為に撤去されました。祀られていたのは先住民の神でしたから、もう誰もそれがどういうものか知る術はありませんが、いままで何度か取り壊しが試みられ、その度に事故が起こって頓挫したという噂がありました。それを気にする工夫こうふ達も多く、そうでなくても現場が危険な場所で怪我人も続出です。結果として魔術師達の負担が大きくなっていたのです。疲れが溜まってくると魔術師の呪文はどうしても失敗しがちです。それこそいつもはうまくいっている百アーキの呪文が一度で発動しないと、魔術師はさらに五日分の寿命を差し出さなきゃいけない。そんなことで不満が溜まっていきました」

 僕は信じられなかった。都で魔術師が建築に携わるというのは、橋を架けたり、大きな病院を建てたりと、市井の人々のためという大義があって、それに貢献するのだと思っていた。

「あなたのお姉さんは、その状況に対して、役所に抗議をしていました。もちろん、若い魔術師の文句など聞き入れられるわけもなかったのですが……しかし、今回の事故が起こったために、工事は延期となりました。工夫達は祟りがあるのだから、延期ではなく中止にすべきだと言い出してますし、魔術師達は一様に口を閉ざして何があったのかを語ろうとしません。資材を崖の上に運ぶ通路を確保するために岸壁の一部を破壊する必要があったと。それが、古い祠のあった洞穴も崩すことになるので、工夫達が嫌がっており後回しになっていたとのことです。そんな現場でお姉さんが呪文を唱え、崖は計画通りに壊すことができたのですが、お姉さんの姿はこのようなことになりました。まあ、これはあくまでわたしの考えなのですが、あなたのお姉さんはわざと呪文を間違えたのではないかと。不測の事態が起こる間違え方というのがあるのです。魔術師達はそれを知っていて、祟りということにしてしまえと思っているのではないかと……」

「……それは『零の詠唱』ですか?」

 僕が言うと管理人は意外そうな顔をした。

「ご存じでしたか……おそらくはそれかと」

 色々と言いたいこと、訊きたいことはある。でも、それが何になるわけでもない。

 僕は「姉の体を馬車に乗せたいのですが」とだけ言った。

 

 

 姉の体を台車で馬車まで運んでもらい、荷台に乗せた。これが本物の水晶であれば二人でも無理だろう。しかし、結晶は余程軽いのか、二人で楽に持ち上げることができた。管理人が結晶に傷がつかないようにどこからか藁を持ってきて荷台に敷いてくれた。

 安定はしているものの、振動で倒れたり割れたりしないよう、ゆっくりと馬を進め、村へ向かった。

 道中、僕の頭に浮かんで離れない疑念があった。

 姉は仲間の為を思って、自分が犠牲になるような道を選んだのだろうか。

 だとすれば、それはしょうがない。正義感の強い姉ならやりかねない。

 その方法として『零の詠唱』を使ったらしい。

 問題はそこだ。

 僕が零の詠唱について訊ねたとき、姉は忘れていたと言った。それは本当だろうか。既にあの時点で姉が決意をしていたということは十分に考えられる。

 しかし、もし本当に忘れていたとしたら……僕の質問が姉にこの方法を選ばせるきっかけになったのではないだろうか。

 子供の頃には十アーキの時間を。今回は残りの時間全てを僕が姉から奪ったことになるのではないか。

 僕が零の詠唱のことを訊ねなくても、結果が大きく変わることはなかったかもしれない。

 でも、僕が背中を押したかもしれないのだ。

 


 村まで戻った頃には日が沈もうとしていた。夕暮れの麦畑は幼い頃から何度も姉と見た。

 二人で見るのはこれが最後になる。

 結晶に当たる夕日が姉の体を橙に染める。

 まるで祝福されているようだった。

 

 

 エイフォンという魔術師が書いた古い本『幻の呪文』には幾つか『詠唱が不可能』とされる呪文が載っている。

 通常、魔術書に書かれている呪文は、少なくとも一度は誰かがそれを使って効果を確認しているはずなので、詠唱ができないというのはおかしい。

 エイフォンはその辺りを何も説明していない。

 姉を包んでいる結晶が土の精霊の力に関するものだということは予想ができる。

 恐らく百アーキ以上の呪文を使い、土の精霊の怒りに触れたからだ。

 エイフォンの魔術書にあったのは「精霊禍の打ち消しに関する長い呪文」という説明だ。

『土の精霊による怒りの顕現は術師の石像化、結晶化などがある』と書かれている。その後に続く。

『術師の身体が残っているのであれば、ここから魔術師を救い出すための呪文は存在する。ただ、この詠唱を成功させることができるような第一級の魔術師はそう多くない。というか、わたしにも無理かもしれないし、そもそも試すつもりはない。この詠唱を成功させるということは、それを唱えた魔術師を確実に失うことを意味する。もちろん、他の呪文と同様、失敗した場合は何も得るものはない。優秀な魔術師を失うだけだ。そうまでして精霊禍を祓う意味はないとわたしは思う』

 土以外に水と火の精霊の怒りから魔術師を救い出す呪文も書かれていた。

 それはとても興味深いものだった。誰がどのようにこの呪文を確立したのか。それが成立するに至った過程が知りたかった。エイフォンよりも古い魔術師の本を探せば、その辺りの記述があるかもしれない。

 そんなことを思いつつ僕は土の精霊禍を打ち破るための呪文を、数頁に渡って延々と目で追い、指でなぞった。

 もちろん、うかつに口に出すことはできない。

 冒頭の祈りが終わった時点で、アーキの消費が確定してしまうというのであれば、この詠唱を「夢中になってうっかり口ずさんでしまう」というのは許されない。

 呪文を覚えようとしていると、昔の苦労を思い出す。呪文への理解度が高いほど、成功しやすいという。それを信じて必死に覚えて、言葉の一つ一つ、文章としての意味を懸命に考えたものだ。その時の感覚が戻ってくるのを感じる。そもそも、これだけの長い呪文、生半可な理解で覚えられるわけがない。

 

 

 診療所は午前中だけ診察時間として、午後は呪文を覚えることに集中した。

 

 

 半年かかった。

 頭の中で呪文をそらんじても、確実に最後まで迷いなくいけるようになった。さらにひと月かけて勘違いによる覚え間違いがないか一人で一文ずつ再確認をした。

 人に聞いてもらうわけにはいかないというのが難しいところだ。

 

 

 その日は朝から酷く冷えこんだ。

 僕は数日前から家に帰っており、父親と過ごしていた。

 父に別れを告げる。見慣れた家の何度も修理を繰り返した窓。やや軋みの大きくなった戸。手入れされなくなった花壇を見た。父が家の中に戻るのを見届けてから馬車を出す。

 あの日冷たい雨に降られた森へ向かう。

 古い猟師の小屋は壊され、別の場所に新しく建てられたと聞いていた。森の木々だけを見て診療所のある村へと向かう。

 道中、頭の中で呪文を繰り返す。

 もう間違えることはなかった。

 

 

 戻った僕は家の掃除をして、体を拭き、手紙を書いた。

 結晶は寝室の隅に麻布を被せて置いてあった。

 覆いを取り除く。青白い透明な塊の中の姉はずっと目を開いたままだ。

 手紙はベッドの上に置いた。

 やり残したことはない。

 大きく深呼吸をする。

 結晶の前で印を組む。

 目を閉じ、長い呪文の詠唱を始める。

「寿限無。寿限無の命を土の精霊フラに。畏れ慎み奉奠ほうてんいたします。我に力を分け与え給え」

 最初の祈りを唱えると足元が白く光った。もう、これで引き返すことはできない。

 寿限無詠唱。

 エイフォンが書き記した『詠唱が不可能』とされる呪文はいずれも寿限無から始まっていた。

 自分のアーキ全てを引き換えに、という呪文であり、精霊への要求の難易度を上げることができるが、その分、失敗する可能性も大きくなる。

「後光あり。その影は長く、かいなは月の裏を撫でる。憂いに震えながら彼方の蓬莱を待つ」

 呪文に集中していると、次第に気分が高揚してくる。体の内側に何かが走る感触が、いつもよりとても強い。

「彼は誰そ。我は誰そ。汝は誰そ。その魂が真の名を得るまで言祝ぎ伝えよ」

 普通に考えれば僕がこんな強力な呪文を唱えたところで、成功するはずがない。

 しかし、この間、自分で唱えた零の詠唱で僕はあることに気付いてしまった。

「干上がった湖の砂の数を教えよ。山に散る葉の数を知らせよ。夜空に瞬く星の数を伝えよ」

 僕の腕に火傷が現れたが、一度の詠唱で火球が現れた。そして、姉の体が結晶に覆われたとき、崖は崩れたという。

 いや、姉はもともと優秀な魔術師だから、呪文が成功したのは必然かもしれないが、僕が一度で呪文を成功させることができるはずがない。そこには何か理由がある。

 つまり『零の詠唱』は自分が精霊の怒りを受けるのと引き換えに、呪文を成功させる方法なのではないか。一部の魔術師はそれを知っているから、はっきりと記さず、かといってそれを歴史から葬ることもせず、曖昧な形でもよいから寿限無という一見唱えることが不可能と思われる呪文を残しているのではないか。

 それを思いついてしまった僕がやることは一つだった。

 詠唱は続く。

 頭の中で何度も繰り返した呪文を、緊張のあまり間違えるのではないかとも思ったが、おもしろいように言葉を続けることができた。

 そして、いよいよ最後の『嘆願』が近づいてきた。

「火の精霊のともしびありがたし、火の精霊のご加護ありがたし、火の精霊の怒りなおありがたし。我の感謝を聞き入れ給え。願いは祈り。祈りは言葉」

 ああ、そうだ。呪文とはまさに祈りなんだ。

 僕は目を開けた。

ゼロの命のお力をハラとしていまここに顕現させ給え」

 

 

 彼女は目を覚ました。

 木の床に伏していた。

 顔を上げる。

 狭い家の中。

 どこだろうここは。

 不安が大きく膨らむ。

 足元には水晶のような美しい欠片が散らばっていた。

 そして目の前には押しつぶされた肉の塊があった。原型をとどめていないが、おおよその形状から人だろうかと思う。そんな光景に安心できる要素は一つもない。

 人はよほど強い力で潰されたようだった。しかし、奇妙なことに床は殆どきれいなままだ。

 部屋に他の人の気配はない。

 そこでようやく気付く。

 自分が何者なのか、思い出せないことに。

 呼吸が乱れる。

 喉が渇いている。

 ひどく空腹であることも感じた。

 ゆっくりと立ち上がる。膝も肘も肩も首も痛い。

 ベッドがある。体は疲れ切っている。そこで休みたいという誘惑。しかし、この不安の中では無理だ。

 ベッドの上に紙片が置かれているのが見えた。

 なにやら書かれている。

 手紙か、と思う。

 手紙という概念が自分の中にあることに気付く。

 彼女はそれを手に取った。

 自分は『精霊の禍』という現象から戻ったということの説明が書かれていた。精霊の禍から戻った者は、しばらく記憶の混乱があるらしいが、いずれ戻るから心配することはない。

 何となく言っていることがわかる。

 隣の部屋のテーブルの上に食事があるとも書いてある。

 そして、自分が魔術師であること、都で働いていたことが書いてあった。その上で、この診療所を継いで欲しいと。

 これを書いた者の姿が、なんとなく浮かんでくる。

 自分は彼を知っている。

 少しずつ、記憶が戻ってくるのを感じた。

 

 最後に一際大きな文字が書いてあった。

 

『姉さん、僕にもできたよ!』

 

 その笑顔を、彼女は思い出した。

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寿限無詠唱 赤井五郎 @Red56

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