照射
柴原逸
照射
阿波の国に入ったと供の者から告げられた時、土御門(つちみかど)上皇の口元に浮かんだのは微笑だった。
度重なる流浪の悲しみを、そうして堪えておいでなのだと、周囲は当て推量をして涙ぐんだものであったが、実のところ、彼はただ喜ばしくて微笑んだのだった。
彼はかねてから「あはのくに」という言葉の響きを好ましく思っていた。そうでなければ、敵である幕府の提案を飲み、土佐から別の国に移ることを肯(うべな)ったりはしなかったであろう。
雲や苔といった、掴みどころのないものを好んだ彼にとって、淡い、夢現のあはひを連想させる阿波の国に身を置くというのは我ながら似つかわしいことに思われたのだ。
活力の化身のような後鳥羽院から、よくもまぁこんなに大人しい息子が生まれたものだと廷臣たちから呆れられるほど、土御門は温厚な性格で通っていた。
それも単に穏やかというよりは、多分に空想的な性質を帯びたものであったため、(少なくとも利害関係においては)実務家ぞろいの宮中において、暗君のレッテルを貼られるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そうした彼の性格の危うさを、後鳥羽院は予め見抜いていたのであろう。若干十六歳にして、土御門は譲位を強制される形で、上皇となったのである。
上皇という地位の唐名として、「虚(むなしき)舟(ふね)」という呼び名がある。日本にしか存在しない役職にわざわざ唐名を付ける意義はさておき、土御門ほど、この「虚舟」を体現した上皇もいなかったであろう。
彼はそも人生の出発点からして、実体から遊離した何かとして生きることを強いられていたのである。
例えば、彼の即位はくじによって決められたという逸話がある。彼の外祖父にあたる源通親(みちちか)が丁度政治を牛耳っていた時期でもあり、およそ真っ当なくじ引きではなかっただろう。何にせよ、一国の主を決めるのに相応しくない手続きが取られたのは間違いない。当時、土御門はわずか四歳。自我どころか記憶すら定かではない頃のことである。
その四年後、最大の後ろ盾であった通親が亡くなる。この時点で、自覚もなく担ぎ上げられた神輿は、降ろされることが決まっていたようなものだった。
一方、異母弟である順徳(じゅんとく)は才気煥発。父の気性を色濃く受け継ぎ、華やかなことを何より好んだ。曖昧な兄と比べると、一層その差は際立ち、後鳥羽の期待も全て順徳の方へと注がれることになっていった。土御門の代わりに順徳をと強く主張したのは他でもない、父後鳥羽その人だったのである。
そうした無情な仕打ちにも、土御門は諾々と従った。『増鏡』などは、内心わだかまるものがあったようにほのめかしているが、むしろ彼は不相応な肩の荷を下ろしてほっとしていたことだろう。
何故なら、彼の喜びはとうの昔に地上のそれを離れていたからだ。
華やかな宮廷の中にあって、隠者のように生きること。
その妙味を上皇となった土御門は味わえるだけ味わい尽くそうとしていた。
口さがない貴族たちから、陰では腑抜けた上皇などと呼ばれていることは知っていた。それさえも、彼は一種のアンニュイな快楽として受け入れていたのである。自虐は時として、甘い陶酔をもたらしてくれるものだからだ。
誰もが、彼の怒ったところなどついぞ見たことがないと口をそろえた。
それも当然だった。他者を否定し、対立すること。その時ほど、逆説的に自己が際立つ瞬間はない。個が浮き彫りになる状況は、彼にとって最も避けたいものだったのだ。
そうした性向は、彼が詠んだ和歌からもうかがい知ることが出来る。
新古今和歌集を編んだ父や、華々しい歌会を幾度も開いた弟とも異なり、土御門の和歌は一般にあまり知られているとは言い難い。
されど、まとまった数の作品を残しており、『土御門院御百首』や、配流後の歌を集めた『土御門院御集』といった私歌集がある。
その内でも『御百首』は、彼の、二十代前半の若書きにあたるが、それをあろうことか、当時の歌人を代表する藤原家隆、定家に送り付け、評価を頼んでさえいるのである。
しかも、あえて自分の名を伏せて正当な評価をつけてもらおうとしているところに、彼の世間知らずともいえる、純粋さが表れている。
無論、判者たちはその百首が若き院の手によるものだということを知っていただろう。その上で、あくまで何も気付かぬ体で、一体誰がこれほどまでの詠みぶりをと大仰な誉め言葉を寄せている様は、いっそ涙ぐましいほどである。
ただ、ふと気が緩んだのか、賛辞の羅列の中に、定家が本音を漏らしている箇所がある。
梅がかも たがためとてか 契るらん おなじのきばの 春の夕風
という歌に対して、
一事も難無し。但し普通の当世歌。
との評を書き残しているのである。問題はないが、ありふれた歌の範疇から脱していないと言うわけだ。
けれども、土御門がこれを読んで気に病んだものとも思えない。
彼が歌を詠んだのは、結局父や弟が熱中しているものに自分も一枚噛みたいという、一種の同化願望に過ぎなかった。
独自の歌境を模索する専門歌人らからすれば、それは物足りないものだったであろうが、彼には際立った自分を表現しようなどという野心は一切なかったのだ。
無我。無着。
時折御所で開かれる心経会(しんぎょうえ)などで、そうした言葉を耳にする度、彼の胸は怪しく高鳴った。
朝露が大気に溶けるように、自分という存在も世界へ流れ出してしまったなら、それはどんなに遥かで、安らかなことだろう。
そんなことを想像しては、一人美酒に酔ったように、うっそりと顔をほころばせていたのである。
それがいわゆる悟りからかけ離れたものであったことは、彼が十八人もの子女を儲けていることからもうかがい知られる。
当時の貴族にとって子を儲けることは義務のようなものだったとしても、多産であることに変わりない。その中には流罪後に儲けた子供も混じっていたと言われている。
だからといって、その事実は、彼が享楽的なだけの男であったということを意味するわけではない。
むしろ彼は肉体的な快楽の果てにある、没我の恍惚というものをひたすらに志向していたように思われる。
前述の百首の内に、
照射
ともしする は山のすゑに たつ鹿の なかぬ比(ころ)だに 露ぞこぼるゝ
という奇妙な題のついた歌がある。照射はともしと読み、夏の夜、山中で篝火を焚いて鹿をおびき寄せる狩りのことをさす。
土御門は幼いころ、そうした狩りの方法を聞かされて、あまりの恐ろしさに眠れなくなったことがあった。
燃え立つ光の中に、たった一人、浮かびだされ、こちらからは目が眩んで誰の姿も見て取ることはできない。世界からも切り離されたような完全なる孤独の瞬間である。
それが同時に最期の瞬間でもあるということが、身の毛もよだつほどの寂寥感となって、彼の繊細な想像力を痛めつけたのであった。
とはいえ、そのような恐怖も、上皇として暮らす内にすっかり忘れてしまっていた。明日の憂いは何もなく、女たちと交歓の内に溶け合っている日々は、彼に孤独を思い起こさせる暇さえ与えなかったからだ。
その全ての様相が一変したのは、承久の乱による後鳥羽院方の敗戦が決定したときからだった。
土御門は、院方が敗北したこと自体には驚かなかった。鎌倉方との戦力の差は歴然たるものがあり、万が一にも勝ち目があるとは思えなかったのだ。
そこが決して物事に主体的に関わることを求められてこなかった人間の冷静さであり、彼は戦に臨もうとする父を諫めてさえいた。彼が史実の上で自らの意見を主張した、最初で最後の瞬間であった。ただ、その諫言も結局は父の心証を害しただけで、何の抑制にもならなかったのだが。
戦後の処理は着々と進んでいった。後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流罪とするという通達があった。
ところが、土御門には一切の音沙汰がなかった。彼は言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。与り知ることの出来ない何かが、裏で進行しているかのような、そんな不安がよぎったのである。
ある夜、彼は夢を見た。彼は鹿になっていて、皓々たる篝火に照らされているのだ。炎の向こう側に潜んでいるのが誰なのかは、目が眩んで全く分からなかった。ただ、何者かに狙われている。それだけははっきりと直感された。助けを求めて声を上げてみても、鹿の姿では言葉にならない悲鳴が漏れるだけなのである。
翌日、彼の元に伝えられたのは、おとがめなしという幕府方からのお達しであった。後鳥羽の計画に一切加担しなかったばかりか、諫めるような発言をしていたという事実が、ここに来て効いてきたのだった。周囲はそれを聞き、ひとまず安堵した様子であった。良かったと大っぴらに口に出す者さえいた。
しかし、土御門には分かっていた。後鳥羽の皇統が都に残るということの意味が。
彼の存在はいずれ反幕府勢力の格好の旗頭となるであろうし、逆を言えば、幕府にとって最も邪魔な存在とも見なされるであろう。
何にせよ、射殺されるだけでは済まない、恐ろしい欲得の渦中に投げ込まれることになるのは必定と言えた。彼は逃げ出すようにして、自らを流刑に処したのである。
とはいえ、初めに土佐で過ごした二年間も心安らぐものとは言えなかった。まだ彼を狙う何者かが、どこからかじっと見ている。そんな強迫観念が付きまとい、悪夢にうなされる日々が続いた。
阿波へ移ることが決まったのも、日に日にやつれ衰えていく彼を見かねた家臣たちの、強い進言があったからに他ならない。
幕府は阿波の守護に要請し、整った御所を造らせるなど、厚遇をもって迎えさせた。
その甲斐もあってか、阿波にあって彼はようやく安定を取り戻したかに見えた。
ところが、今度は翻って、日中から心ここにあらずといった様子で呆然と座している姿が散見されるようになったのだった。
そんな時、彼の心は、自分でも知らず知らずの内に小さな丸木舟に乗って、海原を漂い出していたのである。
当然、彼の肉体とされるものが阿波の御所に未だ残されているという自覚はあった。されど、一方で、自身が遍在してあることを少しも不思議だとは感じなかった。
そもそも、これまでの旅路で涙や汗として流れ出ていった体液と、干からび、乾ききった肉体と、どちらが本体かということを考えた時、取り残されているだけの肉体を実とする理由は見当たらないではないか。
そんなことを思う彼からは既に、彼を彼たらしめる物は全て流れ出してしまっていたのかもしれない。
事実、小舟が漂うのは、彼が配流の途上で目にした津々浦々の海なのだった。もはや時間や空間といった概念は彼を阻む物ではなかった。つい先ほどまで太平洋に遊んでいたはずが、気付くと鳴門の海にいるということもしばしばあった。
そんな漂流を重ねるごとに、小舟を押し流す力は強くなり、彼の意思とは無関係に、いつしか舟は見知らぬ海へと進み始めた。それでも慌てふためくことがなかったのは、どこか懐かしい場所へと帰っていくような、妙な予感があったからだった。
その直感が形になったものか、舟の向かう先に大きな島影が現れてきた。
舟の上から眺めた限りでは、その島には焚き火の煙や庵の姿は見えず、それどころか海鳥の声すらしないのだ。
浜にも靄がかかっており、これ以上近づいていいものか、流石の彼も躊躇した。
すると、全くだしぬけに、その靄が姿を変えたかの如く、白装束の巡礼が二人、現れ出てきた。彼は胸騒ぎがして、よくよく目を凝らしてみた。身なりは違えど、それらの巡礼は間違いなく、彼の父と弟なのだった。
それぞれ別の島に流された彼らがどうして連れだって歩いているのかといった疑問はこの際どうでもよいことだった。生きて再びまみえることはあるまいと思っていた肉親の姿に、彼は思わず声を張り上げて叫んだ。
ところが、同様の歓喜の声が返ってくることはなかった。巡礼たちとは幾度か視線が交差したと思われたのに、どうやら彼の姿は二人の目には入っていないようなのだった。
その時になって彼はようやく気が付いた。
彼の体は、いつの間にか水の如く透き通り、舟の揺れに合わせてぶるぶると震えていたのである。
彼は自分の透き通る胸の内に、南海の魚がとりどりの鱗を閃かす様を確かに見た。
それを目にした彼は恐怖するどころか、むしろ心の底から安堵した。このような姿になってしまえば、もはやこの世の誰も、彼を見つけることは出来ないと分かったからだった。
ところへ、大波が舟を揺すった。その衝撃に、彼の姿は盛大な水音を立てて崩れた。
後には、水たまりを湛えた一艘の舟が、ゆらゆらと揺蕩(たゆた)っているばかりであった。
彼のような人物が、遺品をろくに残さなかったのは想像に難くない。それらしいものといえば、父母からの文を几帳面に取りまとめた、小さな箱があるだけだったそうである。
照射 柴原逸 @itu-sibahara
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