下
張軒が投獄された時、獄吏を通じて送られてきた彼からの手紙に、
「張軒は獄から助けを求めていました。このまま放っておけば処刑されてしまう。罪の無い友を見捨てるのは道に悖る――それで私は、劉信殿を訪ねました」
友の助命を乞いに行ったのだ。それは浩文にとって危ない橋を渡る賭けだった。
「劉信殿と私は同郷です。だからか、劉信殿は私を見込んでくださったようです。頻繁に屋敷に誘われていましたし、あの時も歓迎してくださった」
曖昧な言い方だったが、つまり劉信は自分の派閥に浩文を引き入れようとしていたのだ。国試を主席で合格した、言わば宦官とは正反対の彼を派閥に引き入れることで、朝臣の間にも権力を広げようとしていた。
「劉信殿はあっさり張軒を無罪にして釈放なさいました。友を見捨てないとは道の分かった男よ――と褒めてくださった。ならばこの借りも忘れはしないだろう、と」
劉信に借りを作ってしまった。嵌められたのは分かっていたが、張軒を見捨てられなかった。これで良かったのだと浩文は思った。
「何が正しかったのでしょう。張軒を見捨てるのが道理でしたか。恩を返さぬのが道理でしたか」
浩文は独白するように言い、溜息をついた。
「私は、他の者と同じように劉信殿を表だって非難できませんでした。張軒は一度獄に入れられたのに、なおも劉信殿の専横を非難し続けた。それの尻拭いをするのは私です。彼を投獄しないでくれと、何度頼んだか覚えていません。劉信殿への借りは返せないままでした」
「それは……借りと呼べますか」
「しかし、劉信殿の言うことにも一理ありました。朝臣たちは劉信殿の功を無視して責めるばかりだと。先帝の御世に専横を極めて見放されただけなのに宦官を憎むのは筋が通らないと……そういうところも確かにあったと思います。そう思うと、ますます非難できなくなった。自分に疚しいところは無いと思っておりましたが、それを疑ってしまった」
青年は浩文の話にただ眉をひそめている。
「張軒は私に疑念を抱くようになりました。なぜ劉信殿の所業を許すのかと問われました。なぜ一緒に糾弾しないのかと責められました。私は――劉信殿への借りを忘れることができなかった」
浩文は初めて顔を歪めた。
「自分の身に疚しいところが無いのかと張軒を詰ってしまった。劉信殿にも功がある、それを無視して責めるのは道理が通らぬと――。もちろん、劉信殿には功もあったが罪もある。しかしそれは朝臣も変わらないでしょう」
そう言ったら絶縁されました、と浩文は小さく笑む。どこか寂しげだった。
「私はどこかに道があると信じておりました。ただ一つ、歩むべき正しい道があるはずだと。しかしそんなものは無かった。派閥争いに与しないという道は、張軒を助けた時に絶たれていた。気づけば身動きが取れなくなっていました」
劉信は浩文を自分の派閥に属したのだと思い、様々に恩恵を与えた。それでますますどうしようもなくなった。
「頑なに拒みましたが、だからといって自分が潔白だとは思えません。劉信殿を糾弾するだけの強さがあれば良かったが、恩恵を受けておいて責めることはどうしてもできなかったのです。それは傍から見れば劉信殿の派閥に入ったようにしか見えなかったでしょう」
道とはなんでしょう、と虚脱したように浩文は言った。
「義を――道を守りたかった。そうできると信じていました。でも誰に対しても義を通せば、憎まれるようです。気づいても、私はすでに自分が善だと思えなくなっていました。不思議なことです。私は自分が善いと思ったことをやってきたつもりだったのに」
いつの間にか歪んでしまった。
青年は微かに、痛ましいものを見るように浩文を見つめた。
「――張軒殿はあなたを糾弾した時、あなたが何を考えていたのか分からないとおっしゃった。ただ劉信を庇うばかりだったと。あなたは……昔は義を知る友だったが、今は変わってしまったと」
「それは正しいです。だから私はあの糾弾を受け入れました」
しばし沈黙が落ちて、やがて青年は嘆息した。
「ならば私は陛下にそう伝える。……ですが、大逆に関しては違うでしょう。詩歌の意を曲げられただけで、あなたにその意図は無いはずだ」
試すような視線に、浩文は俯いた。
「本当にそうでしょうか。私は真実、陛下に叛逆しようとしていたのかも」
「――は?」
「他人の内実を知ることはできません。結局、その人の行動で推し量るしかないのです」
浩文は顔を上げた。茶杯に添えた手が震えている。
「副使殿、少し想像なさってみてください」
浩文の柔らかな笑みが溶けるように消えてゆく。
「私は友を助けて、道を失い官席も剥奪され、今では罪人とされました。それで何も思わないほど、私は情の無い人間でしょうか」
青年は絶句して浩文を見つめた。浩文の表情に、抑えきれなくなった激情が一瞬浮かぶ。
「申し開きをせよとあなたはおっしゃる。ですが、大逆の罪が消えたとしても、私はもう何が善なのか分かりません。何をしても、誰かに責められているような気がする。怖いのです」
「それは――」
言葉を探す青年に対し、浩文はふと肩の力を抜いた。
「それに、私の言葉など全て偽りかもしれません。私は本当に劉信殿の庇護を受け、詩に叛逆の意を込めたのかもしれませんよ。そのことは、誰も、私自身も否定できない」
そんなことはありえないと、青年はどうしても反駁できなかった。
浩文は茶杯を持ってその液面を覗く。
「朝廷はまるで海のようだ」
「……海、ですか」
「広くて暗い混沌です。私はそこに道を探したが、見つかるわけが無かった。それで足掻けるほど強くもなかった。それだけのことです」
「もう一度探せば良い」
青年の言葉に、浩文は泣き笑いのような顔をした。
「副使殿にとって、道とはなんですか」
「陛下です」
迷いの無い声音に、浩文は何度か頷いた。
「そうですか。……私も、そう思うことができれば良かった。あなたがそれを見失わないように祈っています」
「李殿」
青年はそれ以上言葉が続かず、ただ焦るように拳を握った。
「――李殿、まだ罪状が決まったわけではない。何も調べず断罪することは無い、だから」
私の罪は、と浩文は囁くように言った。
「これから決まります。私の行いから、誰かが罪を作るでしょう」
茶杯を傾ける浩文を、青年は止められなかった。魅入られたように動けず、浩文が杯の中身を飲むのをただ眺めた。
重たい音を立て、浩文が卓にうつ伏せる。力が抜けた指から杯が滑り、卓から転げて地面に落ちる。
零れた液体が卓に広がっていた。琥珀色の液体はゆっくりと円を広げ、卓についた青年の指先を濡らす。
青年はしばらく茫然と立ち尽くし、我に返って人を呼んだ。浩文の家の周りに詰めていた兵卒がなだれ込み、静かだった庭が途端に騒がしくなる。力を失った浩文の身体は泥人形に似ていた。毒を吐かせろ、と誰かの怒号が響く。
青年は周囲の喧騒に取り残された。
――なぜ、と思う。彼の苦悩が理解できないわけではない。でもそれは、死を覚悟するほどのことなのか。
兵の中にも、なぜだと囁き合う声があった。
「死薬を賜ったのか?」
「でも李浩文の大逆は偽りだと――」
「だが毒を飲んでる。本当に大逆を企てていたんじゃないか」
「罪を暴かれるのを恐れて刑に処される前に自ら毒を呷ったんだろう」
「毒で死ぬ方がいっそ楽だ」
青年はただ目を見開いた。止めようもなく、勝手な憶測が広がっていく。
「副使」
傍らに来た仁武司の部下が、青年に抑えた声で告げた。
「李浩文の家の中から、こんなものが」
彼が持っているのは反故になった紙の束だった。史官らしい流麗な字で書かれている内容を流し読みし、青年はふと瞠目する。それは詩の考案と――さらに、現皇帝に対するはっきりとした誹謗の文句だった。
「李浩文はやはり、大逆を犯したのでしょうか」
青年は咄嗟に兵から見えないよう紙を折り畳んだ。混乱して色を失い、そして不意に浩文の言葉の意味を理解した。
――私の行いから、誰かが罪を作るでしょう。
目に見える言動や文字からしか、他人の思惑は推し量れない。浩文が何を思ってこの紙を残したのか分からないし、彼が残したものではないのかもしれなかった。
しかしどう思っていたにせよ、証拠が見つかった以上は彼に
「副使、どうなさいます」
繰り返し問われ、青年はようやく答えた。
「……李浩文は、劉信に与して国政を乱し、陛下に対する大逆を犯した罪人だった。そう、報告を」
畏まりましたと言って部下は立ち去った。
青年はしばらく庭の喧騒を見つめていた。懸命に浩文の助命を行おうとしている者たちに諦観が漂い始めている。
何か、肚の底に凝るものがあった。浩文を罪人だと決めた。――決めてしまったのだという思いが残る。仕方がない、証拠も証言もあると思いながら、それは全て浩文を外から見たものに過ぎないのだと責める声が自分の内にある。
しかし、自分の従うべきは法であり皇帝陛下だ。何も悔いることは無いと青年は思い、ふと浩文の言葉を思い出した。
――あなたがそれを見失わないように祈っています。
あの言葉が痛烈な皮肉だったのか、あるいは真に祈っていたのか、もう分からない。だが、自分が皇帝という道を見失った時にどうなるのか、不意に恐ろしくなった。
青年は四阿に背を向ける。
助からないだろうという低い騒めきが、背後から追いかけるように聞こえてきた。
溟海の士 陽子 @1110
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