先代の永宗えいそうの気性は激しく、明敏だが残虐さを持ち合わせていた。彼は皇太子の頃に教育係を務めていた劉信リウシンという宦官を重用し、次第に劉信の一派が朝廷の中でも力を持つようになっていった。


 劉信は今では、皇帝に対し遊興を勧めた奸臣のように言われることが多い。永宗は確かに奢侈に溺れ、血腥い遊びを好んだ。劉信が作った享楽用の宮殿、そこに用意された大きな舞台で獅子を使った雑技を見るのが特に好きだったらしい。火を潜るようなよくある芸では飽き足らず、獅子を数人で追い立てて殺し、さらに獅子に罪人を殺させて楽しんだという。

 それのどこまでが真実かは分からないが、そういう噂が流れても不思議ではなかった。


 劉信はそんな永宗に巧みに取り入り、閣臣たちに疎まれた。しかし劉信を中心とした宦官の勢力はとどまるところを知らず、閣臣たちの派閥が何度劉信を弾劾する文を上奏しても握り潰されてしまった。

 専横に耐えかね、自ら辞職を願い出る者も後を絶たなかったという。劉信を弾劾した御史が獄に繋がれ、獄中でも壁に血で弾劾文を書いて息絶えたという有名な話もあった。


 また、閣臣派であり弾劾文を起草した吏部の役人である張軒ヂャンシュエンも偽の罪を着せられて投獄された。大逆を疑われて処刑されかけたが、それを助けた者がいる。

 それが、史官修撰の李浩文だった。



「永宗も劉信殿も、今では悪し様に言われるばかりのようです」

 劉信は結局、永宗の崩御とともに失脚した。以前は自分がしていたように偽の叛逆の罪を着せられて処刑が決まったのだ。閣臣たちは快哉を叫び、処刑で市中を引き回された際は庶民からも石を投げられ、まるで宴のようだった。


 茶杯を揺らす浩文ハオウェンは、結局飲まずに杯を置いた。仁武副使の青年の表情は変わらない。


「――ですが、悪い面ばかりではありません。誰しもそうです。永宗が宦官を重用したのは、前代で朝臣たちが私腹を肥やして専横を極めたから。奢侈に溺れた部分ばかりが言われますが、永宗や劉信殿が医療に関して非常に大きな成果を上げたことは取り沙汰されない。それは不公平ではありませんか」

 言ってから、文浩は自嘲気味に笑った。


「もちろん、あなたには非難する権利があるでしょう。芝人しじんが、その――」

 言い淀んだ先を、青年が無表情に引き取った。

「実験にされたという噂ならば、本当です。そもそも芝人になるには身体の一部を切り落とされなければならない。非道な行いです」

 ずいぶんと他人事のようだった。だがそうしなければ耐えられないのかもしれないと、浩文は思う。


「……申し訳ないです」

「謝る必要はありません」

 素っ気なく言う。それが不機嫌のせいではなく、元来そういう物言いなのだと浩文は分かり始めていた。


「……副使殿の気分を害することを承知で言いますが」

 浩文は卓の上で指を組み合わせた。


「実際、民にとって永宗や劉信殿が芝人に対してやったことは有益でした。官立医院に行ったことがある役人ならば、永宗の非道から恩恵を受けていると知るべきですし、無視してはならない。何も考えずに劉信殿を悪だと叫ぶようでは意味がありません。悪の一部を無自覚に利用していながら、一方的に責めるのは善と言えますか」


 青年は初めて不快げに眉を寄せた。

「李殿の言うことはある面で正しいのでしょう。しかし、ずいぶん厳しいことをおっしゃる」

 彼の顔に浮かぶのが、不快ではなく困惑であるとようやく気づいた。


「厳しい、ですか」

「はい。あなたの物言いは、ただ永宗と劉信殿を庇っているようにしか聞こえない」

「それは副使殿の意見ですか」

 青年は迷うように視線を揺らした。

「……そういう考えが普通では」

 浩文は微かに笑った。


「普通、か。芝人であるあなたはどうです。何の罪悪感も覚えずに医療を受ける者に何も思わないのですか」

「それは――」

 いいえ、と力無い否定の声が聞こえた。


「思っては、いるんでしょう。医者など近づきたくもない」

 ですが、と言った。

「だからといって憎みはしません。役に立てて嬉しいとは言いませんが、例えば……平伏して礼を言われても妙な心地がするだけだ」

 青年はどこか茫洋とした目をした。

「芝人をそんな風に利用することを決めたのが永宗ならば、私が恨むべきは永宗だ。そもそも芝人は罪人なので、酷い目に遭う理由があると言われれば否定できない」


 浩文は笑みを湛えたまま浅く頷く。

「恨む、恨まないはあなたの自由ですから、それで良いでしょう。でも私は、永宗や劉信殿の恩恵を受けながらそれに無自覚である人は罪深いと思います。無自覚な上、自分を善として永宗や劉信殿を悪だと言う、そんな人は多い」

 私もそうです、と浩文は呟いた。

「きっと無自覚に非道なことに与している。私は、何が道であるのか分からなくなりました。自分が潔白であると、胸を張って言えなくなりました」

 


 永宗が崩御し、劉信が処刑されて二年、劉信一派の官は続々と粛清されている。諦めて処罰を受ける者もいれば、保身に足掻く者もいた。

 そんな中、李浩文は劉信一派の官吏として名が挙がったのだ。


「副使殿はよくご存じでしょう。私を劉信殿の一派として糾弾したのは、張軒です」

 処刑されかけたところを浩文に助けられた張軒だ。彼が浩文の非道を主張すると、その証拠は次々挙がった。


「私は、李殿と張軒殿は親しい友であったと聞きましたが」

 その言葉に浩文は屈託なく頷いた。

「ええ、そうです。張軒はそう思っていないかもしれませんが、私は彼を友人だと思う。真面目な人です」

「張殿に裏切られたということか?」

「いいえ」

 明瞭な否定に、青年は怪訝な顔をした。

「ですが、李殿は彼を助けたはずだ。なのに彼は、あなたを糾弾している」


 張軒が処刑から救われた経緯を知る者は、誰しも不思議がった。あるいは、裏切りなどよくあることだと噂した。朝廷は人の顔をした魔物が跋扈する場所なのだから。


 浩文は糾弾を受け入れて謹慎した。次いで先日、現皇帝に対する大逆の罪を疑われた。浩文は詩人でもあるが、彼の詩集の中に、劉信を支持し現皇帝を厭う意が見受けられる――と半ばこじつけのような訴えが上がったのだ。


 浩文はいずれにも申し開きをしなかった。詩歌の句を曲解して大逆だと騒ぎ立てる者に現皇帝はまともに取り合ったりはしなかったが、浩文が申し開きをしないのでは無駄な憶測を招く。他に処断すべき劉信一派の官は多く、浩文のことは後回しにされたが、謹慎三日目でようやく仁武司に命が下った。



「陛下はおそらく、李殿を処罰するつもりはありません」

 青年の言葉に、浩文は曖昧に笑む。

「大逆を犯した罪人なのに、ですか」

「申し開きをなされば良い」

 浩文は凪いだ目で青年を見つめた。


「さっき言った通りです。私は、自分が潔白だと信じられなくなりました」

「それで黙ると? 大逆は死罪なのをお分かりか」

 浩文はゆっくりと笑みを消した。

「もちろん」


 四阿に柔らかな風が吹き込む。波紋の広がる池を眺め、浩文は囁くように言った。

「どうせいくらも猶予は無いのだし、話しても良いかもしれません」

 無罪を訴えるにはあまりに静かな声だった。猶予は無い、という言葉に青年は眉をひそめた。


「副使殿、私の罪を聞いてくださいますか」

 その言葉に、青年は表情を失くした。

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