溟海の士

陽子

 良い景色でしょう、と柔らかな笑みで招き入れられ、青年は困惑に眉をひそめた。


 池の畔、張り出すように四阿があった。周りに巡らせた欄干越しに池を覗くことができ、淡く庭木の翠に色づいた水面が小波立っている。広くはないが丹精された美しい庭だった。


「暇なので庭木の世話しかすることがありません。上手くやっているのではないかと、自分でも思います」

 自慢げに言う男はリー浩文ハオウェン、元は従六品で史書の編述を行う史官修撰を務めた者だった。二十六歳で国試を主席で合格した秀才であり、間違っても庭木の世話をするような立場ではない。――以前までならば。


 どこか怯えるように四阿に足を踏み入れた青年は、浩文に対し戸惑ったような視線を向けた。


「修撰殿……私は」

「そう呼ばれると困りますね」

 浩文は苦笑を浮かべた。確かに彼はもう官席を剥奪されている。青年は少し逡巡し、「李浩文殿」と言い直した。

「私は……」

 青年は名乗ろうとして言葉に詰まる。名乗るべき名が無かった。それを知ってか知らずか、浩文は「お座りください」と四阿の椅子を示す。


「大したもてなしもできず申し訳ないですが、こちらの方が人の目を気にせずに済む。家の前をご覧になりましたか。兵がずらりと並んで……逃げると思われているのでしょうね」

 軽い口調に青年は押し黙ったまま頷いた。それが誤解を与えると気づき、慌ててかぶりを振る。


「逃げると思っているわけでは、なく……」

「構いません。ところで、私はどうお呼びすれば?」

 青年は、迷うように目を伏せた。端正な風貌が暗く翳る。

「私は、仁武じんぶの……副使です」

 浩文はゆっくりと目を瞬いた。


 仁武司――皇帝直属の部隊から人が来るとは聞いていたが、それが副使だとは思っていなかったのだ。副使とは長官である仁武使の補佐であり、位は確か従三品――浩文より遥か上だった。


 仁武司は探事司たんじしとも呼ばれ、官吏から庶民にまで広く恐れられていた。人々が罪を犯さないかと監視の目を光らせ、官吏を監察するはずの台察からも縛られず、陛下に反する者を容赦なく捕らえて罰する皇帝の狗だと、畏怖と憎悪を込めて噂されている。

 その評判と目の前のまだ若い青年が結びつかず、浩文は曖昧に首を傾げた。


「これは、失礼をしました。副使殿を四阿に通すとはとんだご無礼を」

「いえ、私は副使を拝命しておりますが、――どう言えばいいか」

 口籠る彼に、浩文はふとある話を思い出した。


「もしやあなたが、仁武司にいる芝人しじんの?」

 青年は微かに驚いたような顔をして浩文を見る。

「ご存じなのか」

「噂程度です。まさか実在するとは……」


 冗談のつもりで言ったので、素朴な驚きが口をついて出た。青年は微苦笑して浩文を見据える。

「ええ……副使に任じられたのは、芝人だからです。実際は下っ端と変わらない。どうか構わないでいただきたい」

 心なしか姿勢を正してしまった浩文は、それを聞いて照れ笑いを浮かべた。


「これでも史官ですので、芝人の記録はいくつか存じております。――お若いように見えますが、私より年上だったりしますか」

「どうでしょうか。私が芝人になったのは十年前のことです。二十五の時に」

 見た目は確かに二十代半ばだ。しかし実年齢は自分より三つも年上なのだ、と浩文は心の内で嘆じた。

 二十五の若さで芝人になる――それは、悲劇だったろうと思う。



 芝人というのは、この国独自の存在だった。いつからある風習なのかは記録が紛失したせいで分からない。あるいは、普通の史官では知ることができないのかもしれない。

 ――ただ最初は、医術の一種だったと伝わっている。


 霊芝れいし、というものがこの国にはある。見た目は肉の塊に似て、しかし自ら動いて緩やかに増殖する。生き物か植物か判然としない奇妙なものだったが、それは国のあちこちに存在した。

 珍しいものだが、見つけても何に使えるわけでもない。毒ではないが食べても不味く、飢饉でもない限り食糧にすることもなかった。


 それをいつからか、人体に繋ぐようになった。腕を失った兵卒の身体に霊芝の塊を繋ぐ。すると断面から霊芝は人体に根を張り、やがて腕の形に変わる。上手くいけば義肢代わりとなり、一時はこの処置が負傷兵を救済するものだと大流行した。


 だが、霊芝はやがて繋がった人の身体に深く、深く根づいてゆく。徐々に宿主の自我を奪い、最終的にその人間は巨大な霊芝に成り代わるのだ。


 それが分かって、霊芝を義肢として繋ぐことは禁じられた。人の尊厳を奪うものだと批判され、霊芝を身体に繋がれた『芝人』という存在は激減する。

 それを復活させたのは現皇帝の三代前――康宗だった。


 霊芝には、失われた身体の一部を復元する以外にも大きな効能があった。簡単に言えば、一時的な不死だ。


 大量の霊芝を身体に繋いだ芝人は、簡単には死ななくなる。身体のどこかを傷つけられても根を張った霊芝がすぐに補うからだ。また大きな傷を負ってそれを補うと、霊芝を繋いだ歳の見た目まで若返るらしい。首を刎ねられぬ限りは死なないと、康宗の代の医官はそう言った。

 康宗はだから、霊芝を利用して不老不死を目指した。密命を受けて医官は罪人で試行を重ねた。ただ、不死を得るために必要な量の霊芝を繋げば、人によっては施術後すぐに霊芝に変わってしまう。そこの案配が難しく、結局は「体質による」という結論が出た。

 康宗は自身が霊芝になる危険を冒してまで不老不死を手に入れるほどの熱意は無く、霊芝を用いた不老不死の研究は立ち消えになる。


 康宗の次代は霊芝に興味を示さなかったが、さらに次代の永宗は研究を復活させた。ただそれは不老不死のためではなかった。


 永宗は罪人に霊芝を繋げ、上手く不死を獲得した芝人を集めて様々なことに用いた。最たるものは医療の生体実験で、簡単には死なない彼らを新薬や外科手術の実験台にしたという。それは噂に過ぎないが、永宗の代で飛躍的に医療技術が進歩したのは事実だ。


 二年前に即位した現皇帝は永宗を厭い、芝人を作ることはないのだという。永宗の代で作られた芝人たちはほとんどがすでに霊芝に変わるか首を刎ねられたというが、幾人か生き残った者がいるとされた。その一人が仁武司にいる――そういう噂があった。



 浩文は感慨と痛ましさを込めて目の前の青年を見た。

「私は噂程度でしか存じませんが……その若さで、労しいことです」

 青年は微かに口角を上げた。


「そうおっしゃる方は珍しい」

「そうでしょうか」

「罪人風情が、と見られることが多いです」

 確かに、永宗の代に芝人になったのなら罪人だったのだろう。しかし、目の前の彼はとても極悪人には見えなかった。


「私は一介の史官でした。ですから、芝人のことは文字の上でしか知りません。ただ……むごいことだと思います」

「ますます珍しい」

 とうとう青年は、はっきり笑みを浮かべた。

「不老不死を羨む者は多いです」

「ですが」

 浩文は躊躇いがちに言った。


「芝人の不死は一時的なものでしょう。まして老いて見えないということは、それだけ大きな怪我を負ったということです」

 違いますかと問うと、彼はそっと目を伏せた。


「そう……かもしれない。憶えていません」

「そんな」

「本当です。体が欠けると記憶も欠ける。なぜかは知りませんが。――ですから私は、ずっと若輩者のままだ。どうして自分が罪人だったのかも忘れてしまった」

 自嘲するように言う。浩文はその声の空虚さに言葉を失った。


「ですが陛下には感謝しています。さすがに、いつまでも医院に囚われるのは辛い」

 彼は、浩文を静かに見つめた。

「陛下は道の分かった方だ。こんな人間にも救いを残してくださった。――あなたにも、きっと」

 今度は、浩文が自嘲の笑みを浮かべた。


「副使殿は、私を断罪にいらしたのではなかったのですか」

 青年は皮肉に取り合わなかった。

「もちろんあなたを殺すこともできる。しかし私は、あなたに罪があると思えなかった」


 なぜ申し開きをしないのですという問いに、文浩は曖昧に微笑んで俯いた。

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