ある沼の河童伝説
霜桜 雪奈
河童伝説
千葉県のある沼には、河童伝説がある。
沼に沿って作られた遊歩道を歩きながら、そんな話を思い出す。
晴れた十月の空は穏やかで、頬を撫でる風が心地良い。朝早くということもあり、他に歩いている人はいない。
遊歩道の沼側に柵などは無く、軽い傾斜と
こんな汚い沼に入ろうなんて思う人はいないだろうけど。
「……けてっ……助けてっ!」
不意に、どこからか悲痛な叫びが聞こえてきた。声に混じって、バシャバシャという音が聞こえる。沼の方を見れば、水面が激しく揺れている。
人が溺れているようだ。それに気づいて、僕は沼を見回した。
風で揺れ動く葦が邪魔で視界が悪いが、岸から少し離れたところで溺れる女性を見つけた。
「大丈夫ですか!」
大丈夫なわけがあるか。そう思いつつも、僕は声をかけながら駆け寄る。
傾斜を降りて、葦をかき分ける。葦や他に生えている植物で、手に切り傷ができる。だが、そんなことは気にしていられない。
視界が開け、岸の端に着く。女性の溺れている位置は、岸から数百メートルは離れているだろう。
泳いで助けられるだろうか。かつては水泳を習っていたが、それも今では十数年前の話。
ましてや、女性一人を抱えて泳げるだろうか。だが、やってみなければわからない。
「待っていてください! すぐ、助けますから!」
いざ沼に飛び込もうとした時、ふと思い止まる。
いや、今は119番通報をするのが懸命だ。このまま飛び込んで彼女を助けることができなかった場合、ただ被害者を増やすだけだ。
僕は飛び込むことをやめて、ポケットからスマホを取り出す。
飛び込むことが怖くなったわけではない。ただ本能が、その方が良いと決断したに過ぎない。
緊急通報から119番を手早く押す。
耳元でコール音が鳴る。
その瞬間に、水音が止まった。
まさか、手遅れだった?
飛び込んでいた方がよかった、などと後悔しながら、彼女のいた方向に目をやる。
彼女の姿を見た僕は、ぞっとした。
彼女は、もう足掻くのをやめていた。口から上だけを水面に出して、こっちをじっと見つめている。
こちらを見る目は常人の目ではなく、生気を感じることのできない、死んだ魚のそれと同じだった。
「飛び込めばよかったのに」
『それ』は、恨めしそうに呟いた。
その声はまるで、耳元で囁かれたかのように聞こえた。
それはすぐに水中に潜ってしまい、二度と浮かんでくることはなかった。
電話口の向こうから、『火事ですか、救急ですか』という声が聞こえてきた。
ある沼の河童伝説 霜桜 雪奈 @Nix-0420
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます