02(後編) 冷えたビール、最期
「あのですね、あなたは亡くなっているんです」
「何故? 俺はそうは思わない」
「あなたがそう思わなくても、えー」
ミキは、足元に落ちている水道料金のハガキをチラ見した。
―—
「臼木さん、とお読みしたらいいんですかね」
「……」
「臼木さん。あなたはもう死んでいるんです。ご自分でも、それが分かっているでしょう?」
「全くそうは思わない」
「えっ」
ミキは部屋の中を見回した。今後の経済と投資に関する書籍、自己啓発の本、スマホの充電ケーブル、箱買いされたビール、大事に保管されているウイスキーの瓶、恐らくそれらを割る為の炭酸飲料、きらきら輝くグラス、無造作に置かれた爪切り、猫の形のティッシュケース。
雑然とした、「誰かが生活していた」部屋。
家主が数日帰っていない、うっすら放っておかれた部屋。
ミキはおずおずと言った。
「あの、お腹空いたでしょう?」
「別に、空かない」
「ああ、そう、そうなんですよ」
ミキはびしりと臼木を指した。
「ほら、それがおかしくありませんか? 何日もお腹が空かないってことが、あなたが既に亡くなっているという何よりの証拠かと。だってほら、生きてたらお腹すくじゃないですか。ね? ほら、あんな唐揚げのいい匂いしてるのに」
「腹が三日間減らない事なんて、よくある」
臼木はとんでもなく面倒な質問に答えるような声で答えた。
「それに休日なんて、クッキーを一枚食べたりコンビニのサラダを一皿食べて終わる事なんてザラだ」
「でももう何日もそうでしょう?」
臼木はぷいと目をそらすと、言った。
「何日間ぼーっとしてたかなんて覚えていない」
お腹がすいていないか、という点では崩せない。きっと彼自身が言うように、生前から食に無頓着な方だったのだろう。
よく観察してみると、台所に自炊の形跡はあまり無い。あるのはクラッカーにチョコレート、ピーナッツ。酒のつまみなのだろう。
別のところから説得するしかない。ミキは考えの方向を改めた。
「あの、眠くだってなりませんか? 人間は生きてたら眠くなるものですから。じゃあほら、眠くないというのは生きていないということになるでしょう?」
「眠くないなんてザラだ。それに、毎日ぼーっとしていたから体力なんて消耗しない」
「そのほら、体力を消耗しないってこと自体もね、おかしいと思いませんか?」
「俺はよくここでぼーっとしている。街を眺めていたら一日が終わる事なんて珍しくない」
「……くぅっ」
ほぞを噛むとはこのことか。ミキは苦し紛れに言葉を続けた。
「あのっ、でもほら、そんな風に街をじろじろ見てて、でも他の人から目を向けられなくないですか? 何故だと思います? それはね、あなたがもう皆さんに見えないから」
「人々から目線を向けられないなんて、俺にとっては日常茶飯事だ」
臼木はバッサリと言い捨てた。
「うぅっ」
ミキは次の言葉を探した。だが、脳は鉛のように重く、次の弁論の糸口はどこを探しても捻りだそうとしても出てこなかった。
正直に言えば、ミキは霊媒師になってからまだ二年目である。初期の頃より仕事に慣れたとはいえ、想定外の事態には経験が追い付いていない。
こんな風に、食事、睡眠、他人との関り、あらゆる点において死んだ事実を否定されたことなどなかった。
ミキの脳内にある選択肢は、狭まりつつあった。冷たい手で心臓を撫でられるような悪寒が迫る。
”強制退去”である。
説得ができる段階ではなくなった霊に対して行う術だ。
霊媒師に伝わる術を用いて、迷える魂を死者の国の穴へ引きずり込み、この世から消し去る。
それは到底、死を受け入れての安らかな旅立ちではない。だが、そうしなければならない事例に立ち会ったことが今までに二回あった。
とはいえ。
強制退去の術をセンパイが使った時の事を思い出すと、ミキは今でも全身が凍える。
目を閉じれば、深い穴に引きずり込まれていく人間が地面に爪を立てて抵抗する音、声、晴らせなかった恨みに汚れた表情がありありと思い出される。焼き付いて離れない。
『やりたくないって思わないんですか、センパイ』
ミキが震える声で問うと、センパイは答えた。
『迷っている暇を作らない。それが大事だよ』
「あぁあーあたし、本当にこの仕事向いてない」
嫌悪感と徒労感が溢れ、ミキは思わず、臼木が目の前に入る事を忘れ、ぼやいた。
―—適性診断なんて、絶対でまかせだ。
――何が、霊媒師としての素質がある、だ。
こめかみから頬へ、じっとりと汗が垂れる。
何のために霊媒師なんてやっているんだろう。やってもやっても、無力さを噛み締めて一日を終わる事しかできないのに。
俯くミキの頭上から、臼木がぽつりと言葉を零した。
「向いてない職業なんて、いくらでもある。俺だって苦労してつかみ取った最初の就職先で失敗してこのザマだ」
ミキは顔をあげた。
「え、そうなんですか?」
「……こうやって街をずっと見てるとな、きらきらした奴らばっかりじゃない。むしろ、泥臭そうなやつの方が多い。昔から俺はココで、そんな転んで泥まみれの奴を見下ろして、酒を飲んで安心してたんだ。俺は泥まみれになんかならない、って。……でも俺はダメだった。会社に入って早々、この俺がこんなミスをするのかって事が何度もあって、責任をとるって言い訳して会社を逃げた」
臼木は窓のサッシに身体を凭れさせた。夏の夕陽が彼の額に濃い朱色の影を落とす。
「失敗して、家に引きこもって毎日ここで街を見下ろしていく内に、ちょっと分かった。泥まみれの連中は……つまり、泥がついても立ち上がって毎日生きてるってことなんだ。泥がつくの自体をいやがってた俺なんかより、あいつらの方がずっと―—強い。でも俺は、次の失敗が恐くてずっとここから動けずにいる」
臼木は頷いた。
「だから、そうだな。さっき俺は死んでなんかいないって言ったけど……改めて、生きているのか死んでいるのかって聞かれたら、その答えは、分からない、だな」
「……」
「そんな顔するなよ。ほら、酒ならいくらでも付き合うから。なんかさ、あんたの愚痴だって聞くぞ」
臼木は無造作に、部屋の一角のビールの箱を指した。ぶっきらぼうな顔だが、声だけは優しかった。きっと生きている時からそういうトコロのある男だったのだろう。
なんてことだ。
ミキは自分が情けなくて、笑いがこみあげてきた。感情のまま、ため息交じりに天井を仰ぎへらへらと笑う。霊を慰め、手助けするはずの自分が、逆に霊に慰められてしまった。こんな霊媒師、やっぱり居ちゃいけない。
「ああ、そうか」
ふと、臼木が声をあげた。その薄暗い目に、ひとつ。スポットライトで照らされているように、ぽつりと光が灯る。
「そうか。そういえばそうか」
「どうしたんですか?」
「こんなに暑くてだるくってやってられない日が続いてるのに、俺、ビールを飲もうって気が起きなかった」
臼木はしみじみと自分の両手を見つめた。
「ああ俺、死んだんだなぁ」
臼木はミキの方をちらりと見る。
「一緒に飲もうって言ったけど、ごめん。俺、行かなきゃ」
「あ、…い、いいんです」
ミキは、ぽつりと言った。
「そういう仕事ですから」
「そうか、ありがとう」
透けていく。臼木の身体が、空気に溶けていく。ただ一瞥、窓の外を名残惜しそうに眺めてから、すぅと消えた。
がらがら、と引き戸が開く音が聞こえた。階下の中華料理店に客が入ったのだろう。
不意に油モノの匂いが強くなった気がして、ミキの腹がグゥと鳴った。
彼が見下ろしていた夕陽色の街は、かわらない日常の流れの中にある。
ミキは臼木が座っていた場所に静かに頭を下げると、そっと部屋を辞した。
まっすぐ家に帰ろうと思っていたが、ちょっとコンビニに寄る事にした。お酒は飲めないので、ノンアルコールビールを買った。
本当に大変な一日だった。
早く家に帰ろう、そして風呂に入ろう。
そして彼の言うビールの何がそんなにいいのかよく分からないけれど――今日はこれを飲みながらいつものミステリードラマを観よう。そんな気分だった。
唐揚げ、冷えたビール、呆気ない最期 二八 鯉市(にはち りいち) @mentanpin-ippatutsumo
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