第3話.奇襲

 ぽつぽつと降っていた雨は勢いを強めていく。

 湿地にできた水溜まりの水面。無数の雨粒が降り注ぎ、水面に波紋を次々と残していく。


 濁った水がさらに濁り、嵐が到来した海原のように激しい波が巻き起きていた。大嵐に見舞われた大海をかき混ぜるように、獣の大きな脚が海底を踏みしめる。


 荒れた呼吸を繰り返しながらグレイは泥濘を走り抜ける。 

 降雨の影響により人間の探索に支障がでていたが、一度彼らの痕跡を見つければ、フィールド環境はグレイにとって追い風となった。

 

 グレイの姿と足音。

 降りしきる雨と立ち込めた濃霧によって、目視で確認することは困難を極めるだろう。


 身を潜めやすいフィールド環境である一方、戦闘が始まった時、人間同士での連携は非常に難しい。特に攻撃の要の1つである遠距離攻撃は難しくなる。

 少し離れれば味方の位置さえ、咄嗟に判断することができない視界の悪さだ。下手に撃てば、味方に誤射する危険性もある。


 今のグレイにとっては好都合だ。 

 毛に纏わりつくような泥濘から足を引き抜く時に起こる大きな足音も、雨音が掻き消してくれる。今のグレイはまさに霧に溶け込んだ目に見えない存在。背後から迫る追跡者のことなど、人間は知りようがない。


 グレイは湿地帯を素早く、そして慎重に進んでいく。

 湿地帯と聞けばジメジメとして殺風景な光景をイメージするが、アブラナ湿地帯の生態系は多様性に富んでいる。

 グレイの巨体が隠れるほど草丈のある藪や毒々しい色をした花。地面に目を向ければ、羽根の生えた蛇が泥の上を泳ぎ回り、それに驚いた一つ目の黒い鳥が飛び立った。サッカーボール大の棘の生えた球体はオナモミの実のような見た目をしているが、棘の一本一本が揺れ動いており、そこら中を飛び回っている発光虫や小さな昆虫を捕えている。


 どれも現実の世界では見かけることのない奇妙な生物である。どれだけの種類が存在しているのかはグレイには分からない。


 現に、グレイは見たことがない植物を見つける。

 腐りかけてグズグズになった枇杷の実が団子状に結合したような見た目の植物。

 グレイが横を通り過ぎようとした時、いきなり実が裂けて煙のようなものを吐いた。


 強い臭気が吐き出されたことで、人間の臭いが見えなくなるほど視界が曇る。

 一瞬、グレイは焦るが、臭いはすぐに拡散して消えた。

 こういうことがよくあるから、このゲームは恐ろしい。これが爆発音でも鳴らすような胡桃だったら位置バレだった。


 足跡と臭いを見失うこともなく、追跡は順調に進んでいた。

 時々、足を止めて体毛で風を感じる。今は自分が風上だ。臭いは薄いが見失うほどではない。


(ようやく追いつけた。足跡に水が溜まっていない。近くにいるな……)


 グレイは静かに息を吐き出した。

 洞窟がある山岳を大きく迂回するようなルートは、普通のプレイヤーならまず選ばないようなルートだ。血気盛んなプレイヤーなら退屈して、この手の隠密行動はとらないだろう。ある種の我慢強さと慎重さが要求されるのが隠密行動であり、高度な集団統制が必要になる、誰か一人でも疎かにすれば、それだけで敵に見つかってしまう。それだけ今回の敵は統制がとれた集団——グレイたちと同じくパーティーを組んだ相手なのだろう。


 だが、尻尾は掴めた。

 一度見つけてしまえば人狼の嗅覚から逃れることはできない。


( 全く……ここに来て、負けるだなんて冗談じゃない。ここで負ければ、こっちの予定がパーだ)


 全戦全勝。

 今日一日で行った試合は数知れないが、ただの一度も負けることはなかった。午前から午後、そして現在に至るまで食事とトイレ休憩を除けばずっと戦い続けてきた。夜中に差し掛かり、時間的にもこの試合がラストマッチになる。このまま全勝のまま一日を終えられると踏んでいたが、予想外に索敵に手間取ってしまった。


 もし負けてしまえば連勝記録が途絶えてしまう。

 それでは困るのだ。


 グレイは今日一日の成果をもって仲間の一人にあるお願いをするつもりだ。全戦全勝という単純明快な成果ならば、ある種の説得力をもって説き伏せることができるだろう。それなのに最後の最後で負けてしまえば——


(——おっと……集中しろグレイ。ここまで来てつまらないミスなんてするんじゃないぞ)


 目の前のことに集中しろとグレイは自分に言い聞かせる。

 今後の試合展開を左右するような重要な局面に差し掛かっているのだ。注意散漫になるのはよろしくない。

 

 グレイが行おうとするのは敵の情報収集と消耗を狙った威力偵察である。


 人狼という化物を一言で表すのなら爆発力のあるアタッカーである。

 全化物の中でトップクラスの速力を持ち、視覚や音に囚われない鋭敏な嗅覚による索敵と牙と爪による高火力を持ち合わせた種族。偵察と攻撃に長けており、そのポテンシャルはずば抜けて高い。


 特に、不利だと悟って人間たちが逃げ出した時の追撃は大の得意である。

 もたもたと移動している間に人間の姿を見失うこともなく、臭いを辿りながら離れた敵に追いつける。撤退の最中、足音や痕跡を隠すために魔法を使用することはあっても、臭いを消すことは非常に難しい。


 人狼の索敵力は某攻略サイトによればAという評価だ。

 ゲーム開始こそ、臭いを消した人間を見つけることこそ大変だが、そこは足の速さを活かして索敵を行うことでカバーできる。


 ゲーム中盤にでもなって、わずかでも敵が傷を負ってしまえば、人狼の追跡を惑わすことは困難だ。出血によって発生する血の臭いを隠すことは難しく、撤退する最中に回復呪文を唱えるか、ポーションを使って出血を抑える必要がある。


 だが、その回復に手間取ってしまえば人狼が背後から猛スピードで追撃されて止めを刺されてしまうだろう。


 一方、移動と索敵に強い反面、体力は平均的。

 目立った耐性や甲殻といったものを有していない人狼は非常に打たれ弱い。火力を集中されれば、あっという間にHPは溶けて殺されてしまう。


 だからこそ、常に動き回ったり障害物に身を隠しながら移動することで、天敵である魔術や弓矢による遠距離攻撃の狙いを付けさせず、剣や斧といった近接武器と適度な距離を取る立ち回りが求められる。


 今は降雨と濃霧によって、その心配はない。

 もしこのまま完全に不意をついて攻撃することが叶ったならば、一人は殺るやれかもしれない。


 不意をついての攻撃にはダメージボーナスが乗る。

 防御力の薄いメイジや聖職者に奇襲を成功させることができれば、そのまま死亡状態にまで持っていくことも可能だ。いうまでもなく、単純に戦力ダウンが狙うことができるため早めに1人削れるのは大きい。前半の遅れを取り戻し、今後の試合展開を有利に運ぶことができるはずだ。


 グレイは足跡に溜まった雨水の量をチェックした。

 人間の体重がかかって窪んだ泥の部分には半分程度までしか水が溜まっていなかった。水の溜まり加減から考えれば、距離はそう離れてはいないだろう。標的との距離感を推し量ったグレイは、ゆっくりと走る速度を緩めた。走るのは止め、早歩きになる。


 人間たちとの距離が着実に縮まっているためだ。

 ここから音を出すような真似は厳禁。

 向こうはグレイが忍び寄っているのを知らない。折角、背後から敵の集団を捉えたというのに、不用意に音を立てて、チャンスを不意にするような真似はしたくない。


 周囲に目を凝らし、嗅覚モードから通常の視界に交互に切り替えながら対戦相手の姿を探す。


 もう少し距離を縮めれば目視できる距離まで近づけるだろう。ただグレイが目視できる距離まで近づいたということは、向こうもグレイを視認できるということだ。そうなった時、奇襲が決まるかはスピード勝負になる。


 奇襲が成功しようとしまいと存在が知れ渡った瞬間から戦闘が始まる。

 そうなればグレイは防戦一方になるだろう。

 真っ当に戦えば、十二人相手に攻撃を仕掛けるような隙はない。


 ただそれでも構わないとグレイは思う。

 最悪、敵の情報さえ持ち帰れればいいのだ。奇襲の成功によらず、あとは出来限り相手の数と編成を調べて撤退。情報を持ち帰って仲間と対策を講じる。それができるだけでもかなり勝率は変わってくるだろう。


 周囲に目を走らせながらグレイは考える。

 相変わらず霧は晴れないまま、先が見通せない重厚な霧のカーテンを作っていた。

 湿地帯に障害物は少ないものの、霧に姿を溶け込ませるように移動することで被弾を避けることは可能だろう。


 この場で戦闘になっても集団相手に、ある程度は立ち回ることができるはずだ。

 攻撃に転じることは叶わなくても、回避に専念しつつ敵の姿を目視で確認することぐらいはできるはず――。


(もう少しで中盤か……ノウマンさんの召喚も終わったころかな?)


 グレイは仲間の姿を脳裏に思い浮かべた。

 死人のプレイヤーであるノウマンは最深部で自分の眷族となるゾンビを召喚している。中盤に入った今ならば十分に数を揃えられた頃だ。


 仮に、ここで自分が何かヘマをしても洞窟に残してきた仲間が控えている。自分は無理をせず、霧の向こう側にいるであろう敵の情報収集に専念するだけでいい。

 死亡してゲームから退場する以外であれば挽回は効く。

 死なないようにだけ気をつけ、深追いしなければいいだけの話だ。


 ただ——とグレイは思い直す。

 あわよくば何人かに手傷を負わせて、時間を稼ぎたい。戦いになれば牽制のために矢や魔術を飛ばさざるを得ず、MPやアイテムの消費に繋がる。防戦一方でも敵を消耗させることは決して無駄ではない。愚者も死人もスロースターターな種族。仲間のためにも頑張らなくてはいけない。


 グレイの体重を受けて、脚がズプズプと泥の中に沈み込む。

 ジッとしていれば、どこまでも足が沈み込んでいきそうだった。そうなる前に足を引き抜いて、深い場所まで埋まらないように足を動かす。グチャグチャと泥を掻き分ける音は決して小さくない。

 

(この音ばかりは消すことはできないか……。まっ、この雨がいい感じに音を消してくれて——)


 不意にグレイは足を止めた。

 雨音に混じってノイズような微かな音が聞こえたかのような気がしたのだ。

 泥を跳ね上げていたグレイの足が止まり、泥と水を搔き分ける音が消えた。ポツポツという雨粒が湿地を叩く音だけが聞こえる。


 耳に聞こえてくる音を吟味するように意識を集中する。

 湿地全体に降り注ぐ雨音。

 水面を打ち鳴らす雨粒の音に混じって、ジジジというノイズ音が聞こえた。


——なんだろう? 


 疑問に思っている間も、その音は徐々に大きくなり、気のせいだとは思えないほど大きくなっていく。いや、大きくなっているのではない、これはまるで音源が近づいて——


 その瞬間、グレイは咄嗟に横に飛び退いた。

 激しい動きによる音の発生など考慮しない瞬発的な動き。


 水と泥を跳ね上げて、隣の地面に直地。「ジャポンッ!!」という泥しぶきの音が辺りに響いた直後、自分がいた場所に眩い閃光が発生した。

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トワイライトダークネス ふたぁぐん @futagun

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