第19話 野獣死すべし

 「全くふざけた話だとは思いませんか」

「パイよ。

お前さんの言う通りだよ」

その日、僕とともさんは怒っていた。

僕たちはあるご婦人の理不尽に腹を立て、善良な兄妹に同情していたのだ。


 「先生。

あかつき公園で震えているこの子を拾ったんですけど・・・」

診察台の前で困り顔なのは、背のひょろ長い大学生くらいの年恰好の青年だ。

真面目で大人しそうな印象の青年が迷い犬を持ち込んだのだ。

「えーっと。

段田さんですね」

ともさんがカルテを作りながら段田さん相手に稟告の聴取を行っている。

 診察台の上では今までに見たことのないほどみすぼらしい犬が震えている。

皮膚病を患っているのは一目瞭然だった。

毛が抜けて瘡蓋(かさぶた)だらけの、おそらくはマルチーズと思しき小型犬だ。

全身が痒いのだろう。

震えながらも頻りと身体を掻き続け、剥がれた瘡蓋が診察台の上にポロポロ落ちる。

 

 段田さんは学校帰りにこの犬を見つけたのだという。

余りに哀れな様子だったので、そのまま見過ごすことができなかったらしい。

気弱そうな感じの青年だがそれがそのまま素だとするとどうだろう。

世間に対する押しが弱い分、優しさの成分が多い人なのだろうか。

 「加納センセ。

皮膚にできた痂皮の搔き取り検査をしちゃって」

僕はともさんの指示を受けて顕微鏡用のプレパラートを作った。

プレパラートに載せるサンプルは瘡蓋だらけの皮膚から掻き取る。

作成したプレパラートを顕微鏡で観ると視野にモゾモゾ動く丸まっちい虫がたくさん見える。

ともさんと僕の暗黙の予想通りセンコウヒゼンダニだった。

「センコウヒゼンダニの確認ができました」

ともさんが『だよね』と言う顔をする。

「いまこの子の皮膚から標本を作って検査をしてみました。

するとセンコウヒゼンダニという顕微鏡を使わないと見えないような小さなダニの寄生が確認できました。

センコウヒゼンダニによる皮膚病は俗に疥癬とも呼ばれています。

この子には既に発病している他所の犬や猫から移ったのでしょう。

拾った犬では確かめようもないですが、タヌキなど野生の動物からも感染することがあります」

段田さんは困惑した表情を浮かべる。

「・・・この病気は、皮膚病は治してやることができるのでしょうか」

「従来は治療が難しい病気だったのですが最近新しい治療法が出てきました。

まだ確立した方法ではないのですが、アメリカでは有効と言う結果が報告されています。

豚や牛のお腹の虫や疥癬に使われ始めた薬なんですけどね。

この薬は犬にも良く効くようです」

イベルメクチンのことだとピンときた。

まだ日本では発売されていない。

そこで研究用と言う名目を立て、多くの御同輩達がハワイでのバカンスついでに買って来る。

つい先日ともさんも、ハワイ帰りの友達から一本分けてもらった。

 新薬はフィラリアの予防薬としても有望で、一月に一回の投薬で感染子虫を殺滅できるらしい。

だが副作用の情報もたんまりあるので、使用にはかなり注意が必要そうだった。


 「コマルは随分と綺麗になりましたねー」

あの日、診察台の上で震えていた皮膚病の犬はもういない。

みすぼらしかったマルチーズはまるで見違えるように美しい犬に変貌を遂げた。

「おかげさまで」

ハゲチョロ犬はコマルと名付けられ段田家の皆さんに可愛がられていた。

 最初の内はおどおどびくびくしていたコマルだった。

だが段田家に慣れてしまえば、たちまち陽気で愛嬌のある犬になった。

 嬉しいことがあるとクルクルとコマのように回りだすのでコマルと名付けられた。

“小さいコマのようなマルチーズ”というフレーズから、エキスを抽出してコマルに決めたという。

段田さんの中学生になる妹さんの命名らしい。

 新薬の効果は絶大で時間はある程度かかったがほぼ三カ月でコマルもマルチーズらしい容姿を取り戻した。

瘡蓋は完全になくなり身体の痒みも消えた。

だんだん毛も生え揃ってきた。

妹さんが一生懸命世話をしているからだろう。

元々のコマルが持つ美しさが表面に現れつつあるような感じだ。


 「・・・段田先輩」

「・・・るいちゃん」

一瞬、その場の空気が凍り付いたかのような。

そんな気がするのは何故だろう。

僕がことるいさんについては完全な部外者目線だからだろうか。

 ともさんがコマルの診察をしている最中のこと。

いつものように、るいさんが「こんにちわー」と満面の笑みをたたえて病院を訪れた。

るいさんの声に反応したのだろう。

段田さんが振り返った瞬間にるいさんの表情が強張った。

それを見たともさんの片眉が上がるのを見逃す僕ではない。

 るいさんと段田さんはどうやら知り合いのように思える。

るいさんの「先輩」という一言から、段田さんがるいさんの高校?大学?の先輩であることは容易に想像できた。

 二人は過去に相手を良く知っていた仲である。

それは確かだろう。

段田さんがるいさんをちゃん付けで呼んでいるところ見ると、二人はそれ相応に親しかったのだろう。

 だが、るいさんの様子から察するに、二人の過去に何か良からぬ記憶が埋まっているのは明らかだ。

文学脳を駆使せずともテレビドラマレベルの知見でこの程度の推測はできる。

と、すると何か良からぬ記憶とはなんだろう?

気になら無いと言えば嘘になる。

ありていに申し上げれば修羅場勃発の予感がピリリと伝わってきた。


 「父がアップルパイを焼きましたのでお裾分けです。

皆さんで召し上がってくださいな」

るいさんはともさんを見ない。

段田さんも見ない。

何故か、わざわざ僕の所へやってきて小さなバスケットを手渡す。

そして一瞬。

るいさんの視線が僕の目を捉える。

すると彼女は、どう表現したら良いか分からない複雑な感情を、目力に乗せて僕に飛ばしてきた。

 僕にはそんなるいさんの意図が全く分からない。

僕はと言えば常日頃、るいさんにはスキッパーよりも一段軽い扱いを受けている。

だから正直な所、ビーム兵器のような彼女の視線にはたじろぐしかない。

 るいさんは謎の一射を目から放つと、挨拶もそこそこに踵を返して風の様に走り去る。

るいさんを迎えに出たスキッパーが、同じ場所で向きを変えてそのまま彼女を見送る。

それほどまでに彼女の挙動は素早かった。

 スキッパーはその場所に暫し佇み、首だけこちらに向けて僕をチラ見する。

それからともさんと段田さんに目を転じ、何やら悟ったかのようにやれやれと首を振った。

スキッパーはことの事情を素早く分析して既に結論に至ったようだ。

僕には何のことやらさっぱりなのにだよ?

げに恐るべきはスキッパー。

 

 人様のプライベートに関わるとろくでもないことになるのは身に染みて知っている。

好奇心は猫をも殺すのだ。

九つも命がある猫だって殺しちゃうのだ。

だから好奇心も時と場合によりにけりだ。

 教訓は積み重ねてきた経験で何度も証明され、僕の中では既に定理となっている。

だから僕は段田さんとともさんとるいさんの邂逅についての詮索は一切しなかった。

するつもりはなかった。

後にるいさんにちょっと恨み言を言われもしたけどね。

そこは拙いながらも所持している自分なりの人生訓から申し上げるなら、この先も譲れないところだ。

 僕はこのことに関連した現象について、いっさい見て見ぬふりを決め込んだ。

あのともさんが僕抜きで深酒をすることもあった。

行く先を告げずにどこかへふらりと出掛け、急診に往生することもあった。

だが僕はともさんの常ならぬ行動について一切尋ねることはしなかった。

 ともさんもそんな僕の心情を知ってか知らずか。

色々大変が終わるまではこのことには触れなかった。

色々大変とは真に色々な大変だった。

それぞれがバラバラなようで繋がっているそんな色々大変だった。


 「だーかーらー、あたしは自分の犬を返してちょーだいって言ってるだけよ?

どこかおかしいところはある?」

ケバイ化粧とど派手な色彩の衣装をまとったおばはんが柳眉を逆立てる。

たなびくパフュームは最早香りと言うより臭気の暴力に近い。

スキッパーもくしゃみで僕の意見に同意を表明している。

ちょっとどころかかなり怖い。

僕の細やかなる人生では、ついぞお目に係ることの無かったタイプの女の人だ。

 

 「そう仰られても・・・。

段田さんは公園に捨てられていた犬を拾っただけですし」

さすがのともさんも気圧されている。

「失礼しちゃうわね。

捨てたんじゃないわよ。

セーラは家の庭からいなくなったの!」

 診察室には顔色の悪い段田さんとコマルを抱きしめて涙ぐんでいる中学生くらいの女の子もいる。

二人はともさんの後ろに、まるで隠れるような体で身を縮めている。

 女の子は段田さんの妹さんだ。

彼女はコマルの世話を一手に引き受け、愛情を注いできた姉役さんだ。

今日、コマルをマルチーズ界の表舞台に復帰させた立役者でもある。

そんな妹さんの腕の中でコマルが小刻みに震えている。

まるであの日のみすぼらしい捨て犬の様に。

今この部屋で怯えていないのはド派手婦人とスキッパーだけだったろう。


 「段田さんが当院へ初めてコマルをお連れになった時は酷い皮膚病でした。

段田さんはそんなコマルに治療を受けさせました。

お家では妹さんが良く面倒を見て下さって、やっとここまで回復したんです」

ともさんが難しい顔をする。

「あたしはそんなこと頼んだ覚えはないわねぇ。

確かにセーラは皮膚病だったけどね。

そちらさんが病気を治したので、セーラはもうあたしの犬じゃないとでも言うつもりなの?」

「そ、そうは仰いますが・・・見捨てられていたコマルはそれなりの費用をかけて治療したし・・・妹が一生懸命世話してここまでにしたんです。

コマルを治療している間にだって・・・。

ポ、ポスターを作ったり・・・と、届けを出して本当の飼い主さんを探したんです」

段田さんが勇気を振り絞るという感じで抗議の声を上げた。

声は震えているし、顔色は青ざめているのに額には変な汗をかいている。

「あたしをどんな人間だと思ってるの?

あたしはセーラを捨てたりなんかしてない!

なによ。

お金が欲しいの。

あんた、あたしが頼んでもない治療しといてお金を取ろうって言うの。

犬を盗んでおいて、お金までふんだくろうっていうわけ?

それにあんたの飼い主探しの話なんてあたしは全然知らないわよ。

ちょっと、寄こしなさいよ!

セーラ、こっちに来なさい!」

我慢の限界と言う怒気を発しながらド派手婦人がツカツカっと妹さんに近付きコマルを奪い取ろうとする。

だがセーラの心の真実はコマルの心の中にあった。

いつも陽気で愛嬌の塊のようなコマルが、いきなりド派手婦人に咬みついたのだ。

「痛っ。

何するのこの恩知らずのバカ犬が。

もうあんたなんか知らない。

どいつのこいつもあたしを馬鹿にしやがって。

もういい。

そんなバカ犬はあんたたちにくれてやる!」

 ド派手婦人は烈火のごとく怒りまくり、疾風怒濤のごとく立ち去った。

後に残された僕たちは、難を逃れてホッとするより、茫然自失という体で言葉もない。

ただ、なぜかスキッパーだけは続けてくしゃみをした後、同情に堪えぬという顔つきでド派手婦人を見送った。

 それはどうにも不思議なことだ。

スキッパーは小走りで立ち去るド派手婦人を玄関まで見送った。

そしてそのまま戻ってくると、なぜかコマルに向かい𠮟りつけるように何度か吠えたのだ。

スキッパーは今だ芒洋と佇む人間たちを蔑むように一瞥すると、そのまま奥に引っ込んでしまった。


 修羅場の後日談はすこぶる後味が悪い。

色々大変の真相が詳(つまび)らかになったのだ。

 数日後のこと。

あのド派手婦人が菓子折りを持って病院を訪れた。

スキッパーばかりは愛想よく出迎えに出たが、ともさんと僕の間には当然、緊張が走った。

今度はどんな難癖を付けに来たのだろう。

ともさんと僕は、半ば怯えも混ざった疑心暗鬼に捕らわれたのだ。

だがは僕らは肩透かしを食い、大きな自責の念に駆られることとなった。

 そのご婦人は、相変わらず化粧は濃いしド派手な装いではあった。

けれども先日とは打って変わって、口ぶりは至極穏当だった。

今日の様子は戦闘モードとは程遠く、パフュームもスキッパーの鼻を刺激するほどではない。

 

 「今日は先日の非礼をお詫びにまいりました」

ご婦人は丁寧かつ落ち着いた口調で切り出した。

ともさんと僕は、筋道立てた彼女のお話を傾聴した。

すると、セーラが突然いなくなった。

そのことが、どうやら本当のことだったらしいことに二人して得心がいった。

 セーラは他の病院で疥癬の診断を受け何度も治療を受けていた。

セーラが居なくなった当日も庭で薬浴の予定だったという。

セーラはこの薬浴が大嫌いで毎回酷く手こずったらしい。

その日も薬浴の準備をしていて、少し目を離した隙に姿を消したのだという。

 ご婦人はあちらこちら随分探し回って役所や警察にも届けを出したらしい。

段田さんが張ったと言うポスターにはお気付きに成らなかった。

「あたしが届けを出した時のセーラの写真なんですけど。

皮膚病になる前の、まだ綺麗な頃の写真だったのがいけなかったのかもしれません」

彼女は溜息をつく。

「セーラのことはもう諦めます。

あのお嬢ちゃんにうんと愛されてるようですしね。

田山先生にはセーラが大変良くしていただきました。

改めてお礼を申し上げます」

 深々と頭を下げてご婦人は帰って行かれた。

彼女がお持ちになった菓子折りの中には、寸志と書かれた封筒とお礼の手紙が入っていた。

ともさんと僕は何とも表現しようのない自責の念に駆られ、お志はそのまま盲導犬の募金箱に入れた。


 「人を見かけで判断しちゃいけませんね。

お話を聞いてどうすりゃ良かったんだって思っちゃいましたよ」

スキッパーが『おまえは何も分かっちゃいない、不出来な小僧だからな』と侮蔑の眼差しを向けてくる。

「パイよ。

お前さんの言う通りだな。

この世に薬浴が好きな犬なんていないからな。

コマル・・・セーラも度重なる薬浴で、すっかり嫌気が差してたんだろうね。

臭いし多分しみるだろうし、逃げ出したくなるほど飼い主が嫌われちまうのも無理はないさ」

「もし、セーラが最初からうちに来ていたら・・・」

「考えても詮無いがな。

コマルはまだセーラのまんまだったかもな」

「あの人、セーラのことを可愛がっていたんでしょうね」

「おそらくな。

疥癬が治り元の姿に戻ったコマルを見かけて、それがセーラだって直ぐに分かったらしいからな。

・・・セーラのことは電話で石井先生に確認したよ」

石井先生とはセーラの元々の主治医の先生だ。

「あのご婦人もお気の毒でしたね」

「まあな。

セーラは彼女を嫌ったままだったからな。

あの場合セーラと妹さんのことを思えば、ご婦人・・・元の飼い主が寛容な人で助かったよ。

もっと揉めてもおかしくないケースだったとは思う。

俺らは当然不介入だが、今よりもっと気欝なことになってたに違いない。

どのみちやり切れんことに変わりはないが。

・・・犬に嫌われるには良い手段だよ。

薬浴は」

「それでも皮膚病になったセーラーが飼い主に嫌われて。

それで捨てられたんじゃなくて本当に良かったです。

そのまま誰にも相手にされず野垂れ死ぬなんてことにもならなくて良かったです。

新旧の飼い主が病気の犬を一生懸命治そうとしたことが、仇になってしまったわけですからね。

性善説を信じたい僕の気持ちとしては、徳俵で辛うじて“残った”って感じですかね」

「パイの性善説に対する希望的観測は、土俵際ギリギリで持ちこたえてるってか?

皮膚病が治ったところを見計らって『返して寄越せ』なんて言い出す輩もいそうだからな」

「コマルは前の名前がセーラですからね。

元の飼い主がミンチン先生みたいな恥知らずな欲張りだっておかしくはありません。

実際はミンチン先生の人柄とは似ても似つかない優しい方でしたけどね」

「それそれ。

しかし我らが小公女たるコマルは元の飼い主を冷血非道なミンチン先生と思い込んだままだろうな。

コマルにとってクリスフォード氏に当たるのは妹さんかい?

セーラ改めコマルは病気も治って幸せになった訳だが・・・。

元々の飼い主の心情を思えば切ない話だよ」

「段々さんの妹さんが優しい娘さんで良かったですよ。

段田さんみたいな人達がいて下さると、僕の徳俵も当分は安泰ってもんです」

僕が段田さんの名前を出すとともさんの顔が微妙な感じで引きつった。

すわ、三角関係の勃発か?

イエス様。

ちょっとワクワクしてしまった僕を、どうぞお許し下さい。


 「・・・段田さんとるいさんは知り合いだった」

それは僕も知っている。

あの時の二人の様子を思い出せば何か訳ありと言うことは一目瞭然だったからね。

だから敢えてそのことには一切触れず今日の今日まで黙っていたんですよっと。

それで?

「段田さんてな高校の頃のるいさんの先輩で・・・実は元カレだそうだ」

ほうほう。

「それは何とも縁は異なもの無粋なもの」

「パイよ。

お前さん面白がってるだろ?」

ぎくぅ。

「め、滅相もない」

「・・・まあいい。

それでな、ひと悶着あったらしい」

どうせ高校生の色恋沙汰なんぞ児戯にも等しいもんだよ?

己の来し方を振り返ってみれば痛々しくもそう思っちまう。

「たかが高校生の好いたの好かれたなんぞは可愛いもんでしょ。

ひと悶着なんていっても、どうなんです?」

「いやいや警察沙汰になったっていうからひと悶着って言う表現は甘いのかもしれん。

ほら、パイよ。

お前さん高校生の頃ルーシーちゃんがらみでえらい目に合ってるだろ?

話そうかどうか迷ってたんだけどな。

隠し通すのもどうかと思ってな」

不意打ちだった。

忘れようと思って、実際すっかり忘れていた事件が脳裏に蘇る。

柄にもなく心臓の動悸が激しくなるのを感じた。

確かに僕は男女のひと悶着で、かつて死にかけたことがある。

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112/episodes/16817330655544631095

「まあ、るいさんが通ってたのはお勉強第一の進学校だったしな。

るいさんはたかが恋愛感情で安全弁がぶっ飛んで暴走するような質じゃない。

過ごしている環境もそんな祝祭的快楽主義を許すような空気はなかったってことだ。

まあ、男子と女子が付き合うと言ってもな。

それにうつつを抜かしていられるほど高校生活は暇じゃない。

それは俺らの頃と変わらんさ。

そのことが大前提な。

段田さんって人はまずは俺らが見たまんまの人柄らしい。

当時も健全な男女交際ってやつで終始した。

交際って言っても、下校の際に駅まで一緒に歩いたり、たまに喫茶店に寄るくらいのもんだ。

休日は予備校があったりと忙しいし、手紙のやり取りが王道っていう高校生にはありきたりな恋路だな。

だがな、運命の女神は余程退屈して、暇を持て余してたんだろうな。

善良な高校生の健全交際に、ちょっと悪戯を仕掛けた。

二人が程々の仲良しになった頃のことだ。

段田さんにちょっかいを出した同級生がいたらしい。

その女子は、なんでもるいさんのクラブの先輩でさ。

ちょっとしたポジション争いでるいさんに負けたらしいのな。

意趣返しだったのか。

鬱憤晴らしの意地悪だったのか。

それともその女子がたまたま段田さんを好きになったのか。

今となっちゃ真相は藪の中だがな。

自分の越し方を振り返れば、高校生なんざ考えなしの行き当たりばったりな小動物だよ。

正直、明日のことなんか真面目に考えちゃいない。

パイだってそうだったろ?

だからだろうな。

段田さん、まんまと血迷って、その女子にフラっと揺れちまった。

でもね、るいさんはそのあたり、情けも容赦もなく潔癖だからさ。

段々さんの迷いに気付くと、平手打ちを一発くれて、はいさよならだよ」

「・・・るいさんなかなかやりますね」

普段は天然風だが、るいさんの洞察力と行動力を侮れないことは僕も知っている。

「るいさんのご両親って離婚してるだろ。

るいさんは大切に思っていた人が居るのに、仁義も切らずに心変わりをする。

まして両者を天秤に掛けるなんて絶対許せないって言うんだよ。

お母さんの時も中学生だったるいさんの拒否感が強すぎて、お父さんも離婚を選ばざるをえなかったらしい。

最初はるいさんを片親にしないようにって、マスターも頑張ったらしいけどね。

るいさんはお母さんを、頭のてっぺんから爪先まで全否定だよ。

るいさんはそれっきりお母さんとは会わず仕舞い。

手紙は読まずに破り捨てるし電話にも出ないらしい。

この先のこと、葬式にも行くつもりはないとさ。

のこのこ私の目の前に現れようものなら問答無用でグーパンだって言って笑ってたよ」

「るいさんにはそんな過去があったんですね。

ですけどるいさんは、平手打ち一発で段田さんを振ったんでしょ?

ひと悶着でおまけに警察沙汰ってどいうことです?」

僕の動悸は止まらない。

「段田さんもよせば良いのに、気の迷いだった、魔が差した、本当に大切なのはあなただけ、だなんてね。

お母さんが使ったのとそっくり同じ、浮気者の常套句を並べ立ててるいさんに許してもらおうとしたらしいんだよ」

「誠意の欠片もない弁解でるいさんを懐柔しようとしたわけですか。

だけどるいさんは頑なだった」

「そりゃそうさ。

段田さんの並べ立てるお母さんそっくりな弁解でるいさんはプッツン切れた。

るいさんは一番最初に『ごめんなさい』という言葉を聞きたいだけだったんだよ。

お母さんも段田さんも許してもらいたいという気持ちばかりだったってさ。

悪いことをしたと本当に思ってるのならどうして一番最初に『ごめんなさない』じゃないんだってね。

段田さんはるいさんの心の内なんか知らないからね。

ちょっとした軽い痴話喧嘩くらいに考えてたんじゃないか」

「たかが高校生の小僧と嬢ちゃんが痴話喧嘩ですか?」

口では混ぜっ返してみたものの、そんなんじゃないことは分かってる。

僕の心拍はさらに増す。

「非が自分にあることが分かってても、段田さんはどうしても諦められ無かったんだろうな。

校内や放課後、休日までるいさんに付きまとうようになった」

そらきた。

やっぱりだ。

動悸が極限に達し、心臓が口から飛び出そうになる。

「・・・それ、ストーキングって言うんです。

付きまといをやらかすストーカーは、場合によっては対象を殺してしまうような異常者ですよ?」

耳の内に早鐘の打つ心臓の鼓動が聞こえ、眩暈と共に唾液がたくさん出て掌が汗でびっしょりになった。

「パイよ。

悪かったなこんな話しして。

やめようか」

「いえ。

話してください。

るいさんはご無事だったようだし、段田のクソ野郎も今は普通に見えました。

モヤモヤした気持ちのままでは僕の自律神経がもちません」

「・・・ある日段田さんから逃げようとするるいさんが、足を滑らせて駅の階段から転がり落ちた。

運よくなのか、運悪くなのか、目撃者が多数いた。

階段の下で蹲るるいさんに助けの手が差し伸ばされて救急車も呼ばれた。

同時に駅前交番に知らせた人が居て段田さんは傷害の現行犯で逮捕された。

故意に突き飛ばされたわけではないとるいさんも分かっている。

だが目撃者にはそうは見えなかったんだろうな。

るいさんの怪我は大したことなかった。

るいさんは警察の事情聴取で、段田さんが故意に彼女を突き飛ばしたわけではないと証言した。

段田さんにるいさんを傷つけようとする意図はなかったと、彼女は出来る限り彼をかばいもした。

お別れした高校生カップルのちょっとした行き違いだってね。

るいさんは被害届を出さなかったし、警察もその線で納得した。

それでそれでことが済めば良かったんだろうがな。

学校に知れた。

段田さんがるいさんにつきまとっていたのは校内でも有名だったらしい。

事態を重く見た学校側は段田さんを停学処分にした」

「そんなのあたりまえでしょ。

停学なんて甘いです。

鑑別所にぶち込んで家裁で少年審判を受けさせりゃ良かったんですよ。

一つ間違えればるいさんはストーカーのクソ野郎に殺されていたかもしれないんですよ」

「パイよ。

段田さんはルーシーちゃんを襲った森要とは違う。

ちょっと思い入れの激しいただの哀れな男子高校生だっただけなんだよ。

るいさんにつきまとったのも復縁を迫る言うよりはちゃんと話をして謝りたかっただけなんだろう。

るいさんも言ってたよ。

ちゃんと話を聞いて。

ちゃんと罵倒して。

ちゃんと引導を渡せばよかったってね。

るいさん曰く。

『浮気なんて一回もしてないか、何回もしてるかのどちらかしかないでしょ。

魔が刺したなんてふざけたことを平気で言える人は、これ迄もこれからも、何回でも魔が刺す人です。

最初の最初にごめんなさいって言いたいのならそれは聞いてあげます。

だけど、ただ聞くだけですよ?

ごめんなさいを聞いたら、私は笑顔でサヨナラって言います』

だとさ」

あの日、るいさんが僕に放ったビーム兵器のような視線の意味がようやく分かった気がする。

るいさんはともさんから僕が高校時代に被った、ストーカー絡みの難事のことを聞いていたのだろう。

「るいさんは全然悪くないですよ?

段田のクソ野郎はその後・・・」

「るいさんは全然悪くない。

それはそうだ。

だが段田さんは停学の後、高校を自主退学した。

・・・お話はこれまでとっぴんぱらりのぷう」

ともさんはストーカー話をおとぎ話の体で閉めた。

段田のクソ野郎は自分の行いを恥じたんだろうね。

森要とは次元が違うが、それでも僕の中では許し難いという気持ちが強く残る。

「段田のクソ野郎があのうらなりテイストの風体でストーカーだったとは。

本当にセーラの飼い主さんと言い、段田のクソ野郎と言い、人は見かけによりませんね。

僕の徳俵はもう持ちそうにありませんよ」

ともさんが少し悲し気な目をして顎を摩った。

「そんなパイに追い打ちをかけるようですまんがな。

段田さんは実は迷い犬の届けも出してないしポスターも作らなかったそうだ。

『妹があまりにコマルを可愛がるものだからつい』って謝ってたよ」

僕には最早言葉もなかった。

ストーカーは大ウソつきでもあったわけだ。

 

 こうして色々大変は決着した。

相互に絡まるごちゃごちゃも解きほぐされて、僕以外の人間にとっては整理整頓された結末を迎えたのだろう。

だけどだよ。

この後も病院にやって来るに違いない段田のクソ野郎とコマルに、僕はどんな顔をして応対すれば良いのだろう。

僕にはもう徳俵は無くなっちまったようなもんだぜ。


『汚れつちまつた悲しみに

いたいたしくも怖気づき

汚れつちまつた悲しみに

なすところもなく日は暮れる』*中原中也“汚れつちまつた悲しみに”より


ってのが今の僕の正直なところだね。








 

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とも動物病院の日常~日々是好日~ 岡田旬 @Starrynight1958

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