第18話 しあわせの隠れ場所
「しっかし、驚きですよね~」
僕は疲れ切っていた。
「パイよ。
俺もこんなのは初めてだよ」
ともさんもまた疲れ切っていた。
だがその時、疲れ切った人は病院の中にまだあと三人もいたのだ。
犬印の腹帯と言えば、安産を祈願するアイテムの一つである。
だが、腹帯に犬印と言うのはウイスキーにB&Wのテリア以上に突拍子もない感じがする。
どうやら犬は多産でお産が軽いと信じられたきた経緯から発想したトレードマークらしい。
要するに世間様では昔から、犬は安産と言う通説が流布していたわけだ。
だが獣医師として言わせて貰えるならば、犬の帝王切開はそれほど珍しい手術ではないよ?
確かに犬らしい体型をした大型犬や雑種犬については、難産の症例にあまり遭遇しない印象がある。
けれども最近ちまたで良く見かけるようになってきた小型犬はどうだろう。
小型犬の中でも体重が三キロを切るようなトイタイプの犬種には、難産が多いかもしれないね。
そんな気がするよ?
「この間ともさんが切った、鈴木さんちのガイアなんて楽なもんでしたね」
鈴木さんちのガイアは雌なのに見事なおっさん顔のチワワだ。
体重は二キロを下回る。
そのガイアが子供を産むという。
犬の妊娠期間は63日前後と言われている
正常分娩であれば予定日が大きく前後することはあまりない。
犬は妊娠から分娩までのスケジュールが、人と違って割と手堅いのだ。
ガイアは妊娠55日目頃には、元々小さな体に何か詰め物でもしたような体型になった。
手足の付いたボンレスハムならさもあらんっていう見かけだ。
レントゲンを撮るまでもなく難産が予想されたからね。
ともさんは出産予定日前後に帝王切開を行う予定を入れたんだ。
飼い主の鈴木ご夫妻は自然分娩を目指してやる気満々だったけどさ。
ともさんと僕は粛々と準備を進めたものだよ。
「もしもーし!
健やかにおやすみ中、わるいな。
俺だパイ。
これから帝切だ。
予定通りガイアだよ。
すまんが、すぐ来てくれ」
ガイアの妊娠64日目早朝にともさんから電話が入った。
僕は眠い目をこすりながらすぐに病院に駆け付けたものさ。
帝王切開の手術自体はあっという間に終わった。
麻酔をかけてから手術にかかるまでの時間と、手術後に犬舎に運び込むまでの時間を合わせた方が遥かに長かった。
映画で言えば手術時間はインターミッションほどの長さで終わった。
準備と後片付けが手術を挟んだ本編と言う感じだ。
人間の子宮は単一子宮と言ってラ・フランスを逆さにしたような形をしている。
通常はその中に一つ、胎児を収める仕様になっている。
犬の子宮は双角子宮と言って音叉のようなY字形をしている。
Yの左右両方の腕を子宮角と言う。
子宮角の中に左二頭右三頭みたいな調子で複数の胎児が格納される。
ガイアの胎児は事前のレントゲンで確認済みの通り一頭だった。
仔犬は右の子宮角に納まっていた。
元々身体が小さく唯でさえ難産になり易いチワワである。
そのチワワの胎児が一頭だけとなると、往々にして栄養が行き届きすぎて過大仔になる。
となれば帝王切開は元より必定だった。
「ササッと切ってポイっと取り出してピピっと閉じる。
ガイアは簡単で助かりましたね」
「だな」
今回の帝王切開は大型のブルドッグだった。
有難いことに明け方の手術ではなかった。
難産に苦しむブルドッグの母犬は、午後の診療の最中に担ぎ込まれたのだった。
「もうレオンハルトのことは諦めました」
山下さんが肩を落として暗い声でぼそぼそとお嘆きになる。
「まあ、なんです。
そんなこともありますよ。
うちの病院でもレオンハルトが初めてというわけじゃありませんよ?」
ともさんが山下さんを慰めている。
山下さんは中学校の数学の先生だ。
見た目はちょっときつめだけど、猫が大好きな心の優しいお姉さんだ。
レオンハルトはそのお姉さんが溺愛しているアメリカンショートヘアーだ。
アメリカンショートヘアーのような血統書付きの猫は室内飼いが普通だ。
事故や伝染病が怖いので雑種の猫だって外には出さない方が無難だけどね。
猫の嫌いな人がご近所にいてトラブルの原因になる可能性だってあるしさ。
それにだよ。
ご近所にるいさんちのにゃん太みたいな猫が居ようものなら大変なことになる。
にゃん太が番を張っているような地域だったら、外猫は怪我が絶えないことだろう。
経験的にそう思う。
https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938/episodes/16817330652436350969
昭和のこのご時勢だ。
さすがに三味線の皮にされることは無いだろう。
だけど珍しい血統書付きの猫なら、誘拐されることはあるんじゃないかな。
そんな訳でレオンハルトもお約束通り、最初は家の中で大人しく暮らすお坊ちゃんだった。
「あの時、うっかり外に出してしまったのがそもそもの間違いでした」
「それも良くあることですよ?」
山下さんはご両親がお仕事の関係でドイツにいらっしゃるとかで、大きな家に一人でお住まいだ。
庭も広いのでつい芝生でレオンハルトを遊ばせたのが運の尽きだった。
「レオンはいつも寂しそうに外を見ていましたの。
去勢の手術も無事に終わったことだしと・・・。
少しくらい外で遊ばせてあげたいな。
なんて私、思ってしまったのです。
公理に反する仏心でした」
悲嘆に暮れる数学者のお姉さんはそう仰る。
「外には出ても庭だけと言う猫も多いですからね。
リード付きで遊ばせてるお家もあります。
山下さんは運が悪かったんですよ」
あなたが悪いわけではありませんよと、ともさんがことさらに明るい声を使う。
初めての外遊びに大はしゃぎだったレオンハルトも、しばらく一緒に遊んだ後で素直に家の中に入ったのだという。
「その日を境に・・・なのです。
外の空気が余程気に入ったのでしょう。
レオンは隙あらば外に出ていくようになりました。
私は何とか止めたかったのですが・・・。
不良息子です」
「それもまた良く聞く話ですね。
俗に、外遊びを憶えた猫が帰宅するのは食べて寝る時だけなんて言いますから」
アメリカンショートヘアーは身体が大きい。
特にレオンハルトは筋肉質で、五キロを軽く超える立派な体格だった。
コツをつかめば玄関の扉や掃き出し窓程度なら簡単に開けるだろう。
「田山先生が仰る通りでした。
レオンはだんだん家を空ける時間が長くなりました。
ある夕のことです。
ついにレオンが帰ってきませんでした。
暗い中、捜しに出たのですがその夜はとうとう見つからず仕舞いでした。
次の日の朝になってもレオンは帰ってこなくて・・・。
私、心配で心配で、仕事も手につかなくて。
授業もおろそかになってしまいました。
・・・教師失格です」
山下さんは辛そうに微笑む。
「学校から帰って今度は明るいうちに、ご近所を探し回りました。
そうしたら・・・」
「佐々木さんのお宅にいたと」
今まで一言もなかった佐々木さんが頭を下げる。
「最初はどこの猫ちゃんかしらと思っていました」
佐々木さんは五十がらみのおっとりした感じのご婦人だ。
「野良猫ちゃんにしては綺麗だし人懐っこいし。
ミルクを上げても初めのうちは口を付けませんでしたのよ。
お上品な猫ちゃんって思いました」
「いつしかレオンハルトは佐々木さんのお宅に入り浸るようになったということですね」
ともさんがやれやれという口調で溜息をつく。
「あの日、とても恥ずかしかったのですが、私。
もうすぐ暗くなっちゃうって・・・。
レオンの名前を呼びながら必死になって探し回っていたんですよ。
そうしたら佐々木さんのお宅のお庭に・・・」
山下さんもやれやれという口調だが、哀しげな溜息をついた。
「うちの庭にはベンチが置いてあるのです。
レオンちゃんは・・・その日初めて猫ちゃんがレオンハルトっていうお名前と言うことを知ったのですけどね。
レオンちゃんは青いペンキを塗った木のベンチが余程気に入ったようで、そこが定位置になっていましたの」
「私、レオンを見つけて目が合って・・・。
驚いてしまって。
すぐに佐々木さんにお声がけしました」
結局のところそうしたことが何度も繰り返されて今日に至ったということだった。
「・・・それで、レオンハルトの移籍というお話になったのですね。
それでは・・・」
ともさんが新しく作るカルテの準備を始めた矢先、いきなり状況の開始となった。
難産に苦しむブルドックが担ぎ込まれたのだった。
「すんません。
ウチのウインストンが産気付いちまって。
仔犬の足は見えてるんだけどそれ以上出てこれないんだ」
こう言っては何だがブルドッグみたいな顔をした中年男性が慌てふためいて病院に飛び込んできたのだ。
飼い主は自分と似た犬を飼うと言うが『確かに』と思った。
中年男性はその太い腕に20キロを超えるブルドッグを抱えていた。
再びこう言ってはなんだが、チワワのガイア以上におっさん臭い顔をしたブルドックだった。
それからはおめでたい修羅場が展開した。
ともさんはすぐさま難産に苦しむ母犬に麻酔の導入を行った。
続けて流れるような動作で寸刻の遅滞もなく、予め滅菌してあった器械を使って帝王切開に取り掛かった。
なんでもかかりつけの病院が休診だったらしい。
慌てて電話帳を調べ、藁にも縋る思いでとも動物病院に連れてきたと言うことだった。
電話をする暇もあらばこそだったのだろう。
これは本物の緊急事態だった。
飼い主さんの名前を聞くはおろか、犬のプロファイルなど不明なままで手術は始まった。
申し訳なかったが、フリーズした山下さんと佐々木さんは状況から置き去りになった。
急診のそれも待ったなしの緊急手術がいきなり始まったのだ。
僕でさえともさんの采配に従うので精一杯なのだ。
お二人が事の推移についていけるわけがなかった。
実際に犬の体にメスが入り、帝切が始まるまで10分もかからなかったろう。
僕が気管への挿管を手早く済ませ、麻酔時に確保した静脈に点滴を始めた時にはもう切皮が終わっていた。
奥から大量のタオルを抱えて戻った頃、骨盤腔を通れず足だけ出ていた子犬が取り出された。
ともさんの超速の手術手技だった。
「どうです?」
僕はタオルを広げて取り出された子犬を受け取る。
「胎盤は外れてなかった。
行けるかもしれん」
僕は受け取った仔犬の背中をタオルで擦った。
胎盤を通じて仔犬にも麻酔前投薬や麻酔の影響が出ているのだ。
ましてこの仔は分娩の遅延だ。
口吻が紫色になって仮死状態の様に見える。
背中を擦って覚醒と自発呼吸を促さなければならない。
「済みません。
飼い主の方!
こちらにおいでください。
人手が足りません」
手術室のドアを足で開け、僕は飼い主の中年男性を呼んだ。
「今、僕がやっているように子犬の背中をタオルで擦ってやってください。
鳴き始めたら自発呼吸がはじまった証拠です。
それから臍の緒を糸で縛りハサミで胎盤を切り離します」
仔犬は胎盤と臍の緒で繋がったまま生まれてくる。
胎盤は胎児の身体の一部だからね。
帝切の時は仔犬の自発呼吸が始まったら切り離すことになる。
普通分娩の時は臍の緒は母犬が嚙み切る。
母犬はその後、胎盤を食べてしまうこともある。
中年男性は少し戸惑ってはいたが強く頷くと、タオルで受けた二番目の仔犬の背中を擦り始めた。
そうこうするうちに三番目の仔犬が取り出された。
僕は一番目の仔犬を擦りながら三番目を受け取った。
二頭同時に背中を擦る。
一番目はまだ鳴かない。
そうこうするうちに中年男性が擦る二番目が鳴き声を上げる。
「四頭目です。
お願いします」
ともさんの声がかかる。
中年男性はタオルごと鳴き始めた二番目の仔犬をベンチに置き急いで四番目を受け取る。
僕の手の内にある一番目はまだ鳴かない。
二番目も口は動いているが鳴くところまではいかない。
「パイよ。
五頭目が上がるぞ」
限界だった。
僕には産声を上げ始めた仔犬の臍の緒を切る余裕も無い。
「すみません。
山下さん、佐々木さん手伝いをお願いできませんか~?」
ともさんがにこやかな声でお二人を呼ぶ。
お二人は帰るタイミングを逃してしまい、まだ診察室にいらっしゃったのだ。
佐々木さんの初動は早かった。
子育ての御経験があるのだろう。
「分かりました、田山先生。
お手伝いいたします。
タオルで仔犬の背中を擦れば良いのですね?」
「お手数を掛けて申し訳ありませんがお願いします。
加納先生がやり方をお教えします」
五番目が佐々木さんの広げるタオルに置かれた。
僕は佐々木さんに要領を説明しながら手の内の二頭を擦り続ける。
六番目が取り上げられる直前に二番目がようやく産声を上げた。
だが僕の一番目と中年男性の四番目は今だ沈黙している。
「ごめんなさい。
山下さんもお願いできますか」
僕は山下さんにお声がけをする。
山下さんは少し顔色を白くしながら頷いた。
手にはもう広げたタオルを持っていらっしゃる。
状況を観察し続けていたのだろう。
さすが理系女子。
改めてご説明しなくても六番目の蘇生に入ってくださる。
そうこうするうちに七番目が取り上げられそれは僕が引き受ける。
だがまだ一番目は鳴きださない。
佐々木さんの五番目が鳴き出した直後に八番目が取り上げられる。
佐々木さんはそのまま八番目の蘇生に入る。
こんな調子で九番目は中年男性、十番目は僕が引き受ける。
元気よく鳴いている仔犬たちの臍の緒は未だ胎盤が繋がったままだ。
大柄なブルドッグだった。
それでも十頭も胎児が居たなんて驚きだ。
山下さんの六番目は小さな仔でなかなか蘇生しなかったが、最後には彼女の献身と努力が実を結んだ。
結局僕が預かった一番目の蘇生が最後だった。
弱々しかったが一番目が産声を上げた時にはほっとした。
もうその時には母犬の閉腹縫合も終わり麻酔も切られて他の九頭は母犬のお乳にむしゃぶりついていたからね。
後回しになっていた仔犬たちの胎盤は、ともさんが切り離してくれた。
山下さんちのレオンハルトは無事佐々木さんちに移籍した。
レオンハルトは大昔から佐々木家の猫だったかのように暮らしているらしい。
ベンチの上で過ごすことが多いけれど、家の中でも我が物顔の振る舞いだという。
ところでレオンハルトの名前はレオンに改められた。
山下さんもレオンと呼んでいたのでハルトをとっても猫的には差支えないだろう。
なんでも数学者のレオンハルト・オイラーから貰った名前だったという。
中学校の数学の先生である山下さんらしいネーミングだ。
ちなみに今、山下さんちには犬がいる。
山下さんが蘇生を請け負って無事任務を果たした六番目だ。
一番小柄な仔で産声を上げるまでかなり時間がかかった。
山下さんの奮闘がなければ死んでいただろう。
あの日レオンハルトの移籍手続きで山下さんが病院に来ていなければ、このご縁も無かったわけだ。
「猫派の私がまさか犬を飼うことになるとは夢にも思いませんでした。
それもブルドックですからね。
でもこの仔は私が取り上げたも同然の仔ですわ」
山下さんはすっかり大きくなった六番目を見て愛おしそうな笑みを浮かべる。
ピエタのマリア様のようにありがたい顔(かんばせ)ではある。
六番目の飼い主はブルドッグそっくりだったが山下さんはどうだろう。
少なくとも今のところ山下さんは、自分に似た犬を飼う飼い主にはまったく当てはまらない。
長く一緒にいても山下さんがブルドック化することは万が一にも無いだろう。
山下さんを犬に例えるなら優雅なアフガンハウンドと言う感じか。
・・・ちよっとボクサーが頭に浮かんだ。
嫌な想像だ。
ちなみに六番目はアランと名付けられた。
今度はアラン・チューリングから貰ったそうだ。
アランはすっかり大きくなって華奢な山下さんを引き摺って病院にやってくる。
話しは変わるが、佐々木さんちでもレオンの室内飼いはできなかった。
面白いことにレオンは時々山下さんちに遊びに来るらしい。
そうしてまだ仔犬だったアランと知り合い、今では大の仲良しになったそうな。
縁というものは本当に分からないものだ。
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