第17話 シェルブールの雨傘
今日ママンが死んだ。
ママンは十年ほど前に千葉の山奥から拾われてきた雌犬だ。
保護された時は授乳中で六頭の子犬が一緒だった。
だからママンと名付けられた。
一応は首輪をしていたが鑑札も狂犬病の注射済票も付けていない。
名前や飼い主の情報は何も分からない。
子犬たちは直ぐに引き取り先が見つかりママンは避妊手術を施された。
出産歴があったようで推定年齢は当時で二~三歳と言う見立てだった。
フィラリアの感染があったが当時の外犬としては珍しくもなかったろうか。
ただ子犬ごと山奥に捨てられていたという事実を考えると、元の飼い主に可愛がられていたという訳ではないだろう。
事実そのことが原因だったのか。
ママンは里親となった新しい飼い主に、豊かな感情を面にして懐くことは無かった。
もしかすると虐待を受けるようなことがあったのだろうか。
ママンにはどこか根源的な人間不信があったような気がする。
そしてそれは、新しい飼い主一家の愛情をもってしても、生涯晴れることはなかったのかもしれない。
ママンは新しい飼い主の転勤で千葉から武蔵山にやって来た。
ママンのプロフィールは初めてとも動物病院に連れてこられた時の稟告で知ったことだ。
新しい飼い主一家は僕の目から見ても、ママンをとても大切にしていたように思う。
フィラリアの治療もしっかり受けさせて、その後は予防も万全だった。
伝染病の混合ワクチンも毎年注射して栄養は少し過多気味だったろう。
毛の艶は申し分なく、朝晩の散歩とブラッシングも欠かさなかった。
とも動物病院に通うようになってからも下痢ひとつせずに今日まで生きてきた。
新しい飼い主一家は初め、ママンの室内飼いを試みたがこれは失敗した。
ママンは部屋の隅でお地蔵さんの様に固まり水も餌も受け付けず排泄もできなくなった。
やむを得ず庭に小屋を設け天候の状況に応じて玄関に入れた。
ママンが飼い主一家との家庭生活に関われるのは玄関先までだった。
それが生涯変わらなかったママンと人との距離を象徴していたかもの知れない。
ママンはそんな自分がそれでも新しい飼い主一家に大切にされていたことを理解していたろうか。
そうであったら良いのにと心の底から思う。
ママンは人に対して吠えたり歯をむいたりと、攻撃的な行動を取ったことはない。
だが同時に人に対する関心も愛想もない。
食住への感謝のつもりか。
家の人には日に一度か二度尻尾を軽く揺らすと言う。
「それがママンの愛情表現なのではないですか?」
そう僕は飼い主に尋ねたことがある。
だが飼い主一家のお母さんがそれは違うと言う。
違うことを知っていると寂しそうに微笑まれた。
「どうしてそうだと言い切れるのですか?
見た目の喜怒哀楽が分かりにくい犬なんてそこらに幾らでもいます。
特に日本犬なんかでは普通のことだと思いますよ?」
ピヨピヨエプロンを付けたお母さんがちょっと悲しげに口を開く。
「下の子が小学生の時です。
車で館山まで海水浴に行ったことがあります。
夫が犬も一緒に泊まれるペンションを見つけたのです。
久里浜から金谷までフェリーで行けば、武蔵山から館山は思いの他近いんですよ」
そう言えば僕も小学校の頃臨海学校で館山まで行った時には東京湾フェリーを使ったことを思い出した。
近々、川崎と木更津を繋ぐ海底トンネルを掘り始めるらしい。
完成には10年くらいかかるようだが、トンネルができれば将来は館山もぐっと近くなるのだろう。
「金谷から館山までは少し走りますでしょ。
その途中でママンに異変が起きました。
車の窓から外を見ていて何かを見つけたのでしょうね。
いきなり吠え始めたんです。
尻尾なんか千切れんばかりにブンブン張って。
あんなに嬉しそうで生き生きしたママンを見たのは後にも先にもあの時だけです。
ママンにそんな内面が息づいていたなんて。
本当にびっくりしました。
だから私たち家族は・・・本当はママンが豊かな感情を持っている犬だということを知っているんです」
「その時ママンは何を見つけたのでしょう?」
正直、僕も驚いた。
病院で接するママンの姿からはとても想像できないからだ。
「分かりません。
子供達が騒ぎ出して夫も慌てて路肩に車をとめたのですが・・・。
子供達がママンを車の外に連れ出した時にはすっかり元のママンに戻っていました」
ママンはその時何を、あるいはもしかしたら誰を目にしたのだろう。
ママンは千葉の山奥から拾われてきた犬だと言う。
するとママンは元は金谷から館山の辺りで暮らしていたのだろうか。
保護された時は子連れで酷い有様だったと言う。
それを考えれば決して幸せな生活じゃなかったろうに。
それでも捨てられる前に暮らしていた場所には、ママンにとって忘れられない嬉しい思い出でもあったのだろうか。
今日ママンが死んだ。
だがママンの心が死んだのはもう十年も前のことなのかもしれない。
思い出だけを胸にして生きる。
そんな犬もいるのだろうか。
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