第2話ー百合

 ぴよぴよ、ぴぴぴ。

 いつものようにミュゲは、小鳥の鳴き声とともに目を覚まします。

 空は雲がかっていて、太陽の光は薄ぼんやりとも見えません。

 今日は朝から、お客様がいらしていたようでした。くぁ、と欠伸をするミュゲのそばに、二足歩行の猫がゆらりとしっぽを揺らしながら駆け寄ってきます。その猫はウェディングドレスのように白く、きゅるんとした目にぽてぽてとした歩き方は、まさにこの世のものとは思えないほどの愛らしさを誇っていました。

 その猫はもちろんただの猫ではありません。ケット・シーと呼ばれる、エジンドーラの妖精です。


「よぉ、精霊さん」


 ケット・シーは片前足を上げて、ミュゲにそう言いました。声は容姿の可愛らしさには似合わずダミ声です。

 ミュゲはしゃがんで、ケット・シーの頭を撫でました。ケット・シーはよせや、と言いながらも、嬉しそうに喉を鳴らします。


「いらっしゃい。朝からなんて珍しいね」

「なに、ちょっくら暇だったもんでな。どうせお前さんも暇してるこったろうと思って顔を見に来てやったのさ」

「優しいねえ。何も出せるものは無いけど、まあゆっくりしていってね」


 ミュゲはそこでふと手を止めました。森がざわざわと、騒いでいる音が聞こえたのです。雲の色はあまりに暗く、今から雨が訪れることを知らせているようでもありました。


「雨が降りそうだね……」


 ミュゲは空を見上げて言いました。ケット・シーもつられたように空を見上げます。


「確かに、こりゃあ降るな。雷が落ちなきゃいいんだが」

「昨日はそんな様子なかったのにねえ。家族は大丈夫そう?」

「なあに、心配は要らねえよ。今あいつらはオレ抜きでどっかの国で楽しんでやがるさ」


 そう格好つけて言ったケット・シーでしたが、しばらくして溜息をつきながら肩を落としてしまいました。どうやら暇をしていたのはケット・シー自身だったようです。

 ミュゲは苦笑いをこぼしました。肩を落とすケット・シーの頭を、慰めるように撫でてやります。


「今日は泊まって行きなよ。君の言う通り、暇してたんだ」


 実際はそんなことはありませんでしたが、ミュゲはケット・シーを招き入れました。

 一見ただの洞窟のように見えるそこは、中身は案外穏やかな雰囲気で纏められておりました。仄かな橙色の明かりを灯すランタンが、茶色の木机の上に置かれています。こんな人間の使うようなものをどうやって調達したのか、とケット・シーが尋ねたところ、どうやら森に捨てられた物を勿体ないからと拾ってきたようでした。

 その他にも、木で作られた素朴な椅子に、素朴なベッド。白い布で作られたクッションや、木彫りのうさぎや犬が飾られています。

 そしてなんと言っても、ケット・シーの目を引いたのは、ケット・シーの五倍、六倍程の高さのある本棚でした。本棚の中にはエスパニャーダで綴られているだろう本がずらりと並べられています。

 ケット・シーは首が痛くなるほど上の方を見上げました。上の法には、ケット・シーでも簡単に持つことができそうな程の小さな本が並んでいます。ケット・シーにはそれが遠近法により小さく見えているのか、はたまた本当に小さいのかは分かりませんでした。


「何か気になる本でもあったの?」


 ミュゲはじっと本棚を見つめているケット・シーに声をかけました。ケット・シーは上の方を指さします。

 ミュゲは隅の方に手をかざしました。すると、そこにあった踏み台が、誰も手を触れていないというのに、動き始めるではありませんか。

 しかしその光景を見ても、ケット・シーは驚く様子はありませんでした。

 それはミュゲの能力でした。サイコキネシスと言って、物質を手を触れずとも動かせるのです。

 ミュゲはその才能を、嬉しいとも邪魔だとも思いませんでした。ただ生まれつき持つ才能を、当然のように使っていました。

 ミュゲは踏み台を足元に持ってくると、ケット・シーを抱き上げました。そのまま踏み台に乗って、持ち上げます。


「何か見たい本はありそう?」


 ミュゲが尋ねると、ケット・シーは一冊の絵本を手に取りました。このケット・シーには奥さんもいて、子どももいますから、絵本を選ぶことはミュゲにとっては少し驚くべきこととも言えました。しかしそんなことを顔に出すほど、ミュゲは表情豊かでもありません。

 ケット・シーを地面に下ろすと、ケット・シーはなんの断りもなくクッションの上にちょん、と座って、絵本を読み始めました。その姿はさながら幼子のようです。


「僕、少し外に出て森の様子を見てくるけど、ここに一人にしても平気?」


 ミュゲが欠伸をしつつ尋ねると、ケット・シーは何度も頷きました。どうやらもうすっかり絵本の世界に入り込んでしまった様子です。

 ミュゲはやや目を細めて、洞穴の外に出ました。先程よりも酷く暗く、また威圧感のある色になった雲は、何だか心の奥底の不安を燻ってくるようで落ち着きません。

 ミュゲは雨の降らないうちに、否、雨に降られたところで精霊なので風邪は引きませんが、いそいそと辺りの見回りを始めました。

 普段は騒がしい魔物や動物も、さすがに雨の匂いを感じ取ったのか、姿を見せません。ミュゲはほうっ、と息をついて、また天を眺めました。

 ミュゲは一通り森を見て回ると、再び洞穴へと戻りました。もう既に読み終えたらしいケット・シーは、絵本を机の上に置いて、クッションの上でくかー、といびきをかきながら眠っていました。

 ミュゲはタオルケットをケット・シーに掛けてやりました。ケット・シーも妖精なので風邪など引きませんが、なんとなく、掛けてやりたいと思ったからでした。

 ミュゲは絵本を元の場所に戻すと、外の様子に耳を立てました。水が地面に当たる音が聞こえたのです。

 雨が降ってきたか、とミュゲは肩を落としました。ミュゲは雨が嫌いでした。普段騒がしい音が、雨になると聞こえなくなるからでした。

 ミュゲはケット・シーの頭をそうっと撫でました。綺麗な毛並みを逆立てて、くすりと小さく笑います。

 しばらくすると、ごろごろと雷の音がなりました。さすがのミュゲも驚いて、びくりと肩を揺らします。次第に雨足は強くなっていきました。

 いくら精霊といえども、自然の原理には逆らえません。木々ですら折れそうな雨風の勢いに、ミュゲは不安げに外を見つめました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一輪の鈴蘭 干月 @conanodo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ