第1話ー鈴蘭
ぴよぴよ、ぴぴぴ。
その日は小鳥の鳴く音で、精霊は目覚めました。精霊は少し浅い洞穴の中から出てくると、山の向こうに太陽が、暗闇の中から顔を見せ始めていることに気が付きました。
精霊は、大きく欠伸をしました。堀の外にある、まるで赤ずきんの童話に出てくるような花畑の中を、音を立てながら進みます。
しかし、寝ぼけ眼は景色をはっきりとは移してくれません。精霊は足元にあった切り株に気付かずに、脚をぶつけてしまいました。
「っ〜!!」
精霊はしゃがみこんでぶつけたところを押さえました。声にならない叫び声を出しながら、しばらく蹲ります。
少し経つと、痛みが引いてきたのか、精霊は鼻をすすりながら再び歩き始めました。
精霊が向かった場所は、透き通った水の流れる川でした。水底まで見えるほどに綺麗な水は、精霊の顔を映し出します。そこには、プラチナブロンドの腰まである長い髪をした、男とも女とも取れない、中性的な美しい人の顔が写りました。エルフとは違って耳も尖ってはいないので、見た目だけなら本当に人間そっくりです。
精霊は水をすくって、顔を洗いました。葉が紅く色付いてきたこの時期の水は、少し前のものよりも、ずっと冷たく感じられます。精霊は顔を洗ってから、ふるふると顔を振りました。当然それだけで水滴が全て落とせるなんて都合のいいこと、起こるはずもありません。
そんなことは長年の経験で分かっていた精霊は、先程よりかはしっかりとした歩調で、元の場所へと戻っていきました。
精霊の一日は、実につまらないものでした。話す相手もいなければ、遊ぶものもありません。精霊には食事は必要ありませんから、何かを食べることもしません。
ですが、精霊はつまらないとは感じていませんでした。忙しい日を送ったことがない精霊には、つまらないということが分からなかったからです。
精霊はいつも、先程脚をぶつけた切り株に腰かけて、ゆったりと目を瞑っていました。そうして小鳥や小動物の鳴き声を、ただただ聞いているのでした。
ところが、この日はいつもとは違いました。森に人間の子どもが迷い込んできたのです。
「どうしたの?ぼく。迷っちゃったの?」
精霊はそう子どもに尋ねました。子どもは泣きべそをかきながら、くぐもった声で頷きます。
精霊はおや、と思いました。精霊の話す言語は、エスパニャーダと言って、エスパルラという国の言語です。しかしながら、今いる国はエジンドーラ。精霊の記憶が正しければ、公用語はエルドラーダのはずでした。
だというのに、この子どもは、精霊の話した言葉をどうやら理解したようでした。
しかし、不思議な点について追求するほど、精霊は人間に興味があるわけでもありませんでした。これまで関わってこなかったのですから、当然です。精霊は何事も無かったかのように、こう続けました。
「そう……森の外までなら送ってあげるよ。ついておいで」
精霊は人間には興味がありませんでしたが、倫理観として、困っている人間は助けなければならないというものがありました。森の中は善悪はどうあれ魔物が多くいますし、子ども一人で帰らせるよりも、送っていった方がずっと安全だと思ったのです。
ところが子どもは、首をふるふると横に振りました。
「しらないひとに、ついていってはいけないと、おかあさまはおっしゃっていたんです」
精霊はそこで、この子どもがどこかの貴族の子どもであることを悟りました。精霊は人間とは全くと言っていいほど会いませんが、長く生きているだけあって、知識はたくさんあります。エジンドーラに王族と貴族が存在することも、貴族は色々な外国語を教えこまれることも、精霊は知っていました。
そもそも、子どもの着ている服が、子どもの着る服とは思えないほどに豪華なものなのです。青色をベースにして金色で所々を飾るその服は、まさに貴族のものでした。
「人じゃないから、大丈夫。精霊は君たちの味方だから」
精霊は、一見的外れのようにも見える回答を子どもにしました。子どもはきょとんとして、鼻をすすりながら精霊の顔を見あげます。
「……せーれー?」
不思議そうな声を出した子どもに、精霊は一度頷きました。そしてそっと手を差し伸べます。
「ここは魔物も多いよ。襲われないうちに、ついておいで。僕がいるうちは近寄ってこないから」
子どもは、精霊の顔と手を交互にみて、そしてこくりと首を縦に振りました。おずおずと伸ばされた手は、精霊の人差し指を掴みます。精霊は思わず、笑みを零しました。
精霊は子どもの手を引いて、山を下っていきました。精霊の言う通り、魔物は近寄ることはおろか、姿すら見せません。子どもは精霊の顔を見上げました。
「せーれーさまは、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
子どもの質問に、精霊はうーん、と困ったような声を上げました。もう当分名前を呼ばれていなかったものですから、忘れてしまったのです。
「なんだったかな、花の名前だったことは覚えているんだけど」
精霊はそう言いました。子どもはうーん、と顎に手を当てて、何かを考え始めます。
「じゃあ、ミュゲ、というのはいかがでしょう?」
「……みゅげ?スズラン、かな」
「はい。何となく、そんな感じがするのです」
子どもには、光の当たり具合で、プラチナブロンドの髪が白色に見えたのでしょう。精霊は緑色のワンピースを身にまとっていましたから、余計にそう思えたのかもしれません。
精霊はにこりと微笑みました。
「いい名前だね。僕が貰ってもいいの?」
精霊の言葉に、子どもは満面の笑みで頷きました。先程まで泣き腫らして真っ赤になっていた頬も、笑顔と合わせてみると可愛らしく見えます。
「もちろんです!ミュゲ様という呼び名があった方が、わかりやすいでしょう?」
精霊は、少しきょとんとして、また柔らかい笑顔を浮かべました。
「そうだね。ありがとう」
「いえ!」
そうしてミュゲという名前を貰った精霊と子どもは、いつの間にやら森の出口まで来たようでした。精霊はそこで、子どもの手を離します。
「僕は森の外には出られないんだ。だから、ここでお別れ」
「あっ……そう、なん、ですね」
子どもは少し悲しそうな顔を見せました。ミュゲは子どもの頭を撫でてやります。
「もう迷っちゃダメだよ」
子どもは俯いて、そして、力強く、はい、と答えました。ミュゲはそこで、満足気に頷きます。
「あ、あの」
子どもは勢いよく顔を上げました。ミュゲは首を傾げます。
「ぼ、ぼくローダンっていいます。また、あいにいってもいいですか」
ローダンの申し出に、ミュゲは驚いた顔を見せました。今まで好んでミュゲに会いに来た人などいなかったからです。
ミュゲは少し悩みました。どのように関わればいいのか、ミュゲは知らないのです。ほんの数秒悩んだ後に、ミュゲは困り顔で微笑みました。
「魔物に襲われないように気をつけてきてね」
ミュゲの返答に、ローダンは満面の笑みを浮かべました。はい!と元気な返事をします。
こうして、ミュゲとローダンの不思議な関係は幕を開けたのでした。
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