『あの曲』
小田舵木
『あの曲』
部屋の中にビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビィ』が響き渡る。
印象的なイントロ。そこから展開していくAメロ。
私の眼の前には男が居て。うっとりとした顔で私を見つめるが。
なんだって、この場でこの曲を選んだんだろう?
コレはビル・エヴェンスの二歳の姪に向かって書かれた曲だ。
私が小娘だとでも言いたいのだろうか?
相手は年下。大して歳は離れていない。
「君と居ると本当に楽しいよ」彼はゆっくり目を
曲はちょうどインタープレイ。スコット・ラファロのベースが冴えてる。
「私も…」なんて雰囲気に任せて言ってはみたが。曲のせいで集中できない―
◆
私と『ワルツ・フォー・デビィ』には浅からぬ因縁がある。
事ある毎にこの曲が流れていたのだ。なんたって父のフェイバリット・ソングだったから。
でも。大抵は悲惨な状況下で流れていたっけな。
「それだから
「なんで選りに選って、あの女に手をだしたの?」彼女は恐慌状態だ。半ば叫ぶようにこの言葉を放っている。
「しょうがないだろ?向こうが誘ってきたんだよ?」彼はビルのピアノに合わせてハミングしていて。
「姪なのよ?あの
「20を超えれば―まあ、セックスにも興味が出てくるさ。だから僕が仕込んでやっただけ…」父は曲に合わせてドラムを叩く真似をしている。
「だからって…もう」母は半ば諦めた物言いをする。この男は精子を撒き散らしてないと、心の平静が保てない男なのだ。
「…お父さん。お母さん」リビングの後ろの方で彼女らの会話を聞いていた私は言葉を放つ。いい加減。このジャズのスタンダードナンバーを汚して欲しくなくて。
「杏子…聞いてたのかい?」父は何でもなさそうに言う。
「聞いてたわね。しっかし、優子に手をだすとは」優子は母の姪であり、私の従姉妹だ。
「ま、成り行きだな」
「避妊したわよね?まさか―」
「してるさ。流石にね」
「…はあ。まったく。『ワルツ・フォー・デビィ』が流れていると我が家にはロクな事がない」私は吐き捨てる。
「そうでもないさ」父は言う。
◆
私と父は血が継っていない。母の再婚相手なのだ。
ある日。母は父を嬉しそうな顔で連れてきた。
「この人が
「初めまして」私は挨拶をし。
「初めまして…綺麗なお嬢さん」それが父の第一声であり。
それから父と私と母の生活は始まったのだが。順風満帆なものではなかった。
なにせ、精子を撒き散らしてないと、精神の平衡を保てない父だ。
事あるごとに浮気をしたものだ。母は毎度怒ったものだが。
父はそれを何事もない、という風に受け流した。母は惚れてる弱みで何も言い返せなかった。
母が父を問い詰める現場では常に『ワルツ・フォー・デビィ』がBGMとして流れており。
私がその曲にある種のトラウマを持つようになるのには、大した時間はかからなかった。
◆
「君の事をよく知りたい…」男は私に迫ろうとしていて。
「…」私はそれを受け入れようとしているのだが。
オートリピートがかかったプレイヤーは『ワルツ・フォー・デビィ』を流し続けている。
ビルの優雅なピアノプレイが私の鼓膜を打つ。曲のフレーズは美しい。私だって好きな曲の一つだ。
だが。その曲には嫌な思い出が染み付きすぎているのだ。
◆
父の性欲は留まることを知らない。
相変わらずの浮気三昧の日々。母はみるみる痩せていって。その代わりに父はテカテカ輝き始める。
「なんで―選りに選ってあの男なのよ?」私は母に聞いた事がある。
「とっても優しかったから」母は言う。恥ずかしそうに。
「優しい?妻を裏切り続けるような男が?」
「あれでもね…良いところはあるのよ?」
「じゃなきゃモテはしないでしょうね」
「そう。あの人はいろんな女の人が寄ってくるだけの魅力があるの」母は言う。何処か自慢気に。
「魅力…ね。んなモノ家庭の父には必要ないわよ」私は吐き捨てる。いい加減落ち着いてほしいのだ。
「妻はいつまでも格好いい男を夫にしたい訳」母の物言いは少女だ。正直、気持ち悪い。
「…アンタもう、40も後半じゃないの」私は思わず突っ込む。余計な物言いだとは分かりながら。
「女は何時までも少女みたいなものよ」
「いい加減。落ち着きを持って欲しいわね。私の母なのよ、アンタは。あの男とも別れて欲しい」
「…別れるなんて」
「そうしないと、お母さん、いつか壊れる」
「壊れるなら本望…」
「ああ。我が家は」私は嘆息する。ロクな人間がいやしない。
◆
母は壊れた。父と再婚して3年後の事だった。当時の私は19で。実家を離れて東京の大学に通っていた。
「お母さんが―入院した」父は電話口で言う。
「どうせ。精神科でしょ?」私は問い返す。母は長らく精神の安定を失っていた。
「そうだねえ」そう言う彼の後ろでは、お馴染みの『ワルツ・フォー・デビィ』。
「そうだねえ…じゃないわよ!!アンタ!」私は怒ってはみるが。どうせ無駄な事は分かってる。
「僕のせいだとでも?」彼は悪気もなしにそう問うてきて。
「アンタのせいじゃないきゃ何なのよ?お母さん、アンタが浮気してくる度に痩せていってたじゃない!」
「僕の事を思うが故、ってかい。はは。重い愛に恵まれたもんだ」
「その重い愛を受け入れて結婚したのは何処の誰?」
「僕だね」
「なら。この機会に尻を落ち着ける事を知ったら?」
「考えてみるよ」
「よく検討してみて。んじゃあ」私は電話を切ると、スマホをベットにぶん投げて。
ああ。なんだってこんな事になるのか?
それもこれも。あの
私は母にも同情はできなかった。惚れた弱みであのジゴロにつきそい続けたあの阿呆。
◆
男は私の服を脱がす。私はそれを受け入れていたのだが―
ああ。もう駄目だ。この曲を聞き続けていたら嫌な思い出ばかりが去来する。
「ねえ。いい雰囲気なところ悪いけど」私は言う。
「…どうかした?」
「『ワルツ・フォー・デビィ』を流し続けるのは止めてほしい」
「ああ、この曲?」彼はこの曲のタイトルすら知らないらしい。
「うん。この曲」
「…よっぽど嫌いなんだね?済まない」男は平謝りしながらプレーヤーのところに走っていき。
「嫌な思い出が染み付き過ぎているの。曲自体には罪はないけど」
◆
『あの曲』 小田舵木 @odakajiki
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