死神を待ち侘びる

小豆沢さくた

死神を待ち侘びる

 目の前に、死神がいた。


 永らく凍りついていた感情が、胸の中で熱を持ち、うねり始める。歓喜――興奮――いやこれは、期待、という名前だったか。


 過去に一度、この死神を見たことがある。


 雨が降っていた。傘も持たず、ずぶ濡れで歩いていたその少女は、弱々しい声でニャアニャアと鳴く死神を胸に抱き上げた。死神が死神であることを知るよしもなく。

 この世に私ほど、死神に会いたいと願っていた存在は、ない。心の底から、少女が羨ましかった。妬ましかった。

 だから私は、死神を抱く少女を追った。死神の代わりに少女一家を皆殺しにすれば、私が死神と出会えるはずだった。

 すべてを終えた時にはすでに、死神の黒い尾の影すら消えていた。その深い絶望を言い表す言葉は、永い永い人生の中で、ついぞ見つけられずにいる。


 死神は私を見つめ、わずかに髭を動かした。


「ここにいましたか。不老不死の罰を受けた男――天界からも冥界からも追放され、行き場をなくしたあなたは」


 不老不死になった理由など、とうに忘れた。唯一の救いは、忘れる能力を失わなかったことだ。


「あの時はまだ、あなたは人間の姿をしていましたね」


 死神は私を覚えていた。

 張り裂けんばかりに、期待が膨れ上がる。


 これ以上老いない恐怖に気づくまで、十年の歳月を要した。心身ともに盛りを過ぎた、醜い中年男のまま永遠の時を過ごさねばならない現実は、ゆっくりと私を追い詰めた。

 動物も植物も、生き物はすべて老いて、死んでいく。どんなに手を尽くしても、滅び、消えてしまう。絶対に覆らない事実である。

 時代も、変わる。

 いつまでも変わらないのは、私だけ。

 私は必ず、たった一人で残らねばならなかった。


 何をしても、自分の命を断つことは叶わない。

 ある時は、首を吊った。呼吸が止まり、これで死ねると本当に嬉しかった。だが、劣化した吊り紐が切れ、地面に体を叩きつけられた時は、果てしない絶望感に打ちのめされた。

 またある時は、刃物で自分の腹を引っ掻き回した。気を失いそうなほどの痛さは、死が近づいていることを実感させてくれた。体から引きずり出した臓物が泳ぐ血の海に浸り、これなら絶対に死ねると確信した。

 気づくと、腹は完全に元通りになっていた。傷跡ひとつ残っていない。

 どんな猛毒も効かない。食事を摂ることは早い段階でやめた。一滴の水すら摂らずとも、私は死なない。


 数えることも諦めた年月の経過を、私はただ、息を殺してやり過ごしていた。

 死にたかった。

 だから、私の生に終止符を打ってくれる死神を、ずっとずっと待ち侘びていたのだ。


 さあ早く、私の命を終わらせてくれ。死神としての使命を全うしろ。さあ、さあ――


 しかし、死神は言った。


「あなたの命を終わらせることは、死神にもできない。あなたは、命を奪いすぎた。この死神よりも、ずっと多く」


 私が奪った命の数――もう遥か昔のこと、記憶は定かではない。


「あなたが奪った命が生きるはずだった時間、その命が新たな命を産み、生きるはずだった時間、新たな命がさらに新たな命を産み、また生きるはずだった時間――そうして永遠に続くはずの時間を、あなたは今、償うために過ごしています。不老不死の罰は、天界と冥界が初めて意見を一致させた事案です。一介の死神には、どうすることもできません」


 膨らんだ期待が一気に萎んだ。


 ああ、生き続ける絶対の孤独を抱えた私に、死の安寧は未来永劫訪れぬか。

 希望は完全に潰え、再びただ呼吸するだけの存在に戻るしかないのか。

 ならばもう、どこへでも行って、好きなだけ私以外の命を終わらせるがいい、死神よ。


 死神は目を伏せ、淡々と言葉を紡ぐ。


「死神に会いたいと願ったのも、一度ならず再び相まみえたのも、この世で唯一、あなただけです。死神と出会った少女は、あなたに殺されることが運命で決まっていた。死神に会うとは、そういうことです」


 と、死神は、三角の耳を震わせた。


「死神は、命を終わらせる代償に、永遠の孤独を生き続けなければならない」


 死なせる死神と、死ねない私。


 まったくの正反対なのに――同じ孤独を、抱えているというのか。


 居住まいを正す死神から、ちりん、と鈴の音が聞こえた。

 覚えている。この鈴は、少女が死神に巻いた首輪についていたものだ。


「あれからどれほどの年月が経過したか、おわかりですか」


 時の流れなど、私には意味のないものだ。


 何をしても、どうやっても断てない命ならば――

 私は人里離れた山奥に篭り、ひたすら穴を掘った。深く深く、どんな動物も見つけられない完全な穴を。

 私は、地上から消えた。

 年月を経れば、この世の誰しもが私という存在を忘れるだろう。忘れられるとは、すなわち死んだも同然だ。

 しかし、いつの頃だろうか。燦然たる陽光を、静寂なる宵闇を、温かく通り過ぎる風を、冷たく叩きつける雨を感じるようになったのは。


 まさか、私はもう二度と、地上に出ることはないはずなのに。


 恐る恐る目を開けると――


 目の前に、死神がいたのだ。


「あなたの掘った穴に種子が寄せ集まって芽吹き、一本の大木となって、あなたの生命を糧に成長し続けているのです。いつの世も、絶対に枯れず倒れず――不変の象徴として、あなたが奪いきれなかった命の子孫たちが、この大木を祀っています」


 死神は髭を揺らした。


「不変の源が、世界の滅亡を望み不老不死の罰を受けた男であることも知らずに。可怪しいと思いませんか」


 可怪しいとはどういう感情だったか、私はもう思い出せない。


「過去を知るよしみで、ひとつ教えて差し上げましょう。もうすぐこの世界は終わります。人間たちは勝手に殺し合うので、あまり死神の仕事は残っていません。あなたは罰のおかげで、かつて願った世界の終わりを目の当たりにする。実に本望でしょう」


 ちりん、と鈴が鳴る。


「最後の一人がいなくなるまで、死神は死神です。しかし人間がすべて死ねば、死神の存在理由もなくなります。そのときはまた、ここへ来ましょう。二度も死神に会って生き延びた、あなたに会うために」


 ちりん――


 再び死神を待ち侘びることになった私の耳に、小さな鈴の余韻が、いつまでも残った。

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