第6話 満天の星空のもとで<完>

 冬は白く深く冷え込んだ.午後九時過ぎ、修はいつものように父を誘って散歩へと出かけた.夜の散歩は、疲労によって修治を熟睡させために必要な日々の習慣となった.日中に駅前ををにぎわせていた店々が閉まった頃、修は修治に厚手のコートを着せて荻窪の街を歩いた.しかしこんな散歩の後でも、夜半にまた眼を覚まし「仕事に行く」という父にはしばしば悩まされたが.


 修の予備校の仕事は何とかつながったようだった.「生徒たちが田辺先生の授業は楽しいと言っていました.来年度もぜひお願いします」.予備校の人事部の職員は、一階の事務のカウンター前で修を呼びとめると握手を求めてきた.「頑張ります.生徒たちのためにも」、そう言って修は両手で強く握り返した.

 その時、かたわらを通り過ぎた生徒の一人が修の肩を軽くたたくと、「おさむさん、さよなら!」と言ったなり、恥ずかしそうにして一目散にロビーから外へ駆け出して行った.カウンターの奥にいた職員たちもいっせいに笑い出した.修も臆することなく笑った.面映おもはゆいような、だがこの不思議な幸福の余韻に、修は浸った.


 修は修治を銀行の裏の駐車場まで連れて行った.この辺まで来ると父は疲労をうったえ片手を上げた.これは認知症の父が覚えた息子へのサインであった.修は持ってきた折りたたみ椅子を拡げ、修治を座らせた.

 修治は悲しげな眼差しで夜空を眺めていた.修は父親の唇の痙攣けいれんがいつもより激しいのに気づいた.

 凍てつく大気の中、天の造形は無数の白いあかりを散りばめた.東京は以前に比べると、確かに空気はきれいになった.南の空のシリウスはひときは白く輝いた.

「お父さんは体が暖かいんだ」と、修治は修のコートの袖をつかみながら、思い出すように言った.

 修は小さい頃から次の話を修治に何度も聞かされた.大洗にいた頃の幼い修治が怖くて眠れないというと、修治の父(修の祖父)は息子を布団に招き入れた.遠くからは、時おり岸をたたく波の音がかすかに聞こえた.それは船べりで波を返すかいの音にも似ていた.そんな夢のような余韻にまどろみながら、枕元の電灯の黄色くにごった光のもと、骨ばった漁師の父の胸で寝たと、修治から修は聞いた記憶があったのだ(もっとも今の修治は、居間に飾ってある秋の大洗旅行の時に海辺で弟と並んで撮った写真には、すでに関心を示さなくなっていたが).

「すぐ風邪をひくんだ.しょっちゅう寝込むし、まだ小さいから心配なんだ 」

 修治の話は脈路もなく別の話題へと変わった.しかし修は、修治が語るその情景の中の人間が、今度は幼い頃の修自身の姿であることに思い至った.

 梅雨つゆ冷えのある日、熱を出した幼い修は、改築前の荻窪の自宅の木造の壁の部屋に寝かされていた.夜のあかりが、今ほど白くきらめかず、板壁の陰影も濃く深い、そんな時代だった.氷枕の冷たさを耳元に快く感じながら、裸電球の黄色いほむらの残影が、閉じたまぶたの中にしばらく 漂っていた.熱の下がった息子の顔をのぞき込む父の笑顔の、その輪郭のかげりと淡黄たんこうとの彩度とが、今の修には、二度と戻ることのない幼い日の幸せの色合いのように思えた.

 修は中腰になって、父の両肩にそっと両のてのひらをのせた.修治の体が震えているのがわかった.夜の空虚な駐車場の平面に、昼間の自動車を画するはずの白い線がぼんやり浮かんだ.銀行の建物の裏の駐車場は、周囲の夜の光からはさえぎられていた.

「死ぬのは怖いな」.そう父は言った.

 修は夜空を見上げた.光のくずが帯状に天空を流れていた.修はあの光が地球に届くのに一体どれくらいの気の遠くなるような年月がかかるのかと思った.

 修は眼をつむった.心が深い闇の中に吸い込まれていくかのようであった.そして静かに考えた.いつか病院で「お母さん」と夜中につぶやいて死んでいった老人のことを、また思い出した.その同じ病院で、苦痛にもだえ息絶えた名前さえ知らない男性の記憶が、今も修の脳裏をかすめていった.そしてこの父とも、いずれ永訣の日が訪れるであろう.でもそんな悲しみを諦念として未来に予見しながら、では人は何のために生き、老いて、病を得て、そしてなぜ死ぬのか.

 すべては死をもって終わる.人間にはこれ以上のことは言えない.結局は永遠の時間の流れの中では、人の一生の営みなど、何の意味もない一瞬のかがやきにすぎないのであろうか.

 しかし修は、父の真剣な灰色の瞳を見ながら思った.いや、もしかしたら魂とは存在するのではないのか.父は肉体的な機能は失われつつあるが、それでも何かを伝えようとする意志は確かに存在している.ただ、その意志の意味するところを伝達するはずの肉体的な機能が、父は損なわれているだけなのではないのだろうか.

 しかし、ではその意志とは一体何であろうか.単なる電気信号ではないと、修は信じたかった.

「大丈夫だよお父さん、天国はきっとあるし、おじいちゃんにも、またみんなにも必ず会えるよ.そしてみんなでもう一度昔のことを、楽しく話そうよ……」

 修治は干からびた頬に無邪気な笑みを浮かべた.親子は笑いながら、冬の夜に満ちた冷気の中、顔じゅうに白い息をくゆらせた.

 星々の間に線分を引きながら、いったい何世代の人々が、物語を語り伝えたのであろう.そしていったい幾人の父と子が、地上での僅かな時間の一瞬を星宿せいしゅくの中に思い出としたのであろう.そんな感慨と感動が修の胸を熱くさせた.

「さあ、そろそろ帰ろうか」と、修は折りたたみ椅子に座った父に顔を寄せた.父と息子は、恋人のように腕を組んで静かな夜の荻窪の街を闊歩かっぽしていた.

 帰り道、修治は「お前は俺の弟か?」と尋ねた.「息子だよ」と修は微笑んだ.修治は納得いかないという顔をした.「俺は結婚していないから子供はいない」と片手を顔の前で振り、修治は唇をとがらせた.

 

 玄関の外では、意外にも母が待っていた.その時、母はほんとうに小さく見えた.

「修は優しい子だね.ありがとう. でもこれからは私も協力させてね」

 その母の言葉に驚いて、修は顔を上げた.

「実はね、私とお父さん、若い時の駆け落ちだったの.修は知らなかったでしょう.みんなに反対されてね」

 玄関の電灯の下で、母の顔は輪郭がかげりがちであったが、確かに少女のように微笑んでいた.

 『なるほど、だから大洗の実家は、弟の真司叔父さんが継いでいるわけだ』と、修は幼い頃からの疑問が今になって解けた.

 そして母の澄江は、修治の引き出しから見つけたという色あせた大学ノートを、修に見せた.

 その大学ノートの日付は、修治が病院で認知症を告げられる一年ほど前から始まっていた.「澄江の風邪が長引いているのは心配だ」「澄江の痛風が早く治ってほしい」.

 最初は素朴な言葉の連なりだった.日記や文章などまともに書いたことのない父の精一杯の言葉だった.しかし次第に文章は後日に向かうほど感情が増し、若者の歯がゆい恋文のような稚拙ちせつささえ感じられた.「ほんとうは澄江がいなかったら私は何もできない人間なんだ」、「わがまま言ってすまない」、「謝る勇気がどうしても出なくって」「ほんとうの気持ちを今書いておきたい」、「感謝」、「ありがとう」、「かんしゃ」、「どういたしまして」,

 「頭がおかしくなってきた」、「何だかわからない……」、「ここはどこだ」、

哀れをとどめたのは、妻を思いやるはずの文面が、日数の経過とともに次第に活字の輪郭と意味を失い、幼児の書く意味不明な絵模様のようにゆがんでいったことだ.大学ノートは半分以上の余白ページを残して終わっていた. 

  修治はもしかしたら、自分の脳機能が障害によって失われていくのを気付いていたのかもしれない.完全に失われるその前に、気持ちを文面にとどめようとしたのかもしれなかった.父の世代の人間が、感情を妻の面前で披瀝ひれきするなど困難であったに違いない.だから実は最初から、妻がこのノートを見ることを最後の望みとして、父は夫として妻を思いやれなかった過去に許しを求めたかったに相違ない.

 大学ノートを見終えて顔を上げた修に母は言った.

「今までが駄目でも、これからきっとよくして見せるわ.お父さんがこうなった今、こそこれが家族に優しさを取り戻す最後の機会なんだと、お母さんは思うの.お父さんに対して今でもわだかまりはあるわ.でも憎しみを言っているだけでは何も生まれないはずよ」

 そう言って母は泣いているように、修には思われた.でも母は、夫の気持ちを引き受けることを妻の最後の使命とする覚悟だったのだ.だから父のノートの残りのページは、これからは母が決意だった.

「家族の優しさを取り戻すことは、私が人間を取り戻すことよ……」

 母の声は震えていた.母の言葉に悲壮な琴線きんせんの響きを感じた.でも修は、その母の気持ちに無理があるというのなら、その余白は、今度は自分が引き受けようと思った.『家族』という、こんなくすぐったい言葉を、修も信じてみたかった.そして、それがたとえどんなに嘘であってもいいから…….

「そういえば、お母さんの部屋に写真が飾ってあるあの韓流スターは、日本人のことを『家族』と呼んでいるわね」

 母はそう言って、突然あの韓流スターの話題を持ち出して、泣きそうになった今の感情を悟られないように微笑んだ.

 澄江は夫を介抱し家の中へ招いた.「ありがとう」という父の声が奥から聞こえた.でも老夫婦の足どりは覚束おぼつかなく、父も母も両膝が横に湾曲していた.

 『家族……か』.修は自嘲した.この世の中では、そんな言葉に苦しめられている人たちがいることも、修は知っていた.「家族」という言葉の意味を、決して一括ひとくくりにしてはいけないと思う.「家族」という毒牙どくがに蚕食された人々が、いやしえない悔恨かいこんの中に生きていることも、修は知っている.でも修は、その気持ちを振り払うことにした.修の場合には、今の現実を引き合いにして、自身の弱さの言い訳にしてはいけないと思ったからだ.修は、「家族」というこの言葉に、決して絶望しないと心に誓った.

 『明日、伯母に電話してみよう』と、修は思った.母が父の手を引いていたことを、きっと伯母に話そうと思った.病院で修をなじった伯母の顔に、今度は笑顔がこぼれるのを見てみたかった.そしていつの日か、母と伯母が親しく語る姿を、父に見せたかった.

 修はもう一度満天の星空を見つめた.この星空を、今晩の修と同じ思いで見つめた人たちが、きっと遠い過去にもいたはずだ.そうだ、今この同じ時間にさえ、世界の遠い何処どこかに、同じ感慨に満たされてこの星空を眺めている人たちがいるに違いない.そして、この同じ幸せを、今度はもし遠い未来の誰かとさえも分かち合えるなら….

 この感動と幸福を、この星空のもとで誰かが受け取り、その思いを優しさといたわりに変えて、また他の誰かが幸せになれるなら、取るに足りない生死の因果なんぞに、何の説明などいるだろうか.

 みんな一緒に生きて行くのだ、この星空のもとでは誰もが幸せになる資格があるのだ.そしてこの星空のもとでは、家族のように誰もが支え合いつながっているのだ.

 夜の彼方に中央線快速列車の汽笛が駆け抜けて行った.まぶたの奥に、明日授業を受けるはずの生徒たちの姿が浮かんだ.『授業の予習でもするか』と、修は心の中に心地よい負荷を感じた.<完>





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残笑 宮沢賢二郎 @miyazawakenjiro

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