第5話 クリスマスの光に包まれて

 修は重い足どりで予備校の教室へと向かった.大学入試センター試験まであと一か月、十二月になった.窓外に眼を遣ると木々は葉をすっかり落とし、薄い土色の幹をさらし、骨のような枝を苦しそうに拡げていた.授業開始のチャイムが廊下に単調に響いた.修は両足を引きずるように歩いた.

 修が四月から担当していた『現代社会』の授業は、当初は生徒の数が百人近くはいたはずだ.しかし日を追う毎に、生徒たちの数は減っていった.生徒たちにとって、マイクを通して頭の上を漂う修の声は、鈍い音のかたまりとしてしか感じられなかったようだ.流麗ではない修の声は、文節の切れ目で時おり途絶えた.しかも修の言葉の発音は、言葉尻がいつも聞きづらかった.拍節感のない、音楽でいえばフレージング切れ目がはっきりしないのだ.生徒たちは、授業の展開の迫力ではなく、教室中を支配する倦怠感とその空気で、呼吸をするのさえ億劫に感じた.

 授業中に何度も溜め息をつく生徒、机に頭を抱えて眠りだす生徒.修が毎回授業へ行く度に、生徒は一人、また一人と枝を落ちる枯れ葉のように減っていくのがわかった.しまいには授業中に堂々と教室を横切り、ドアから退出する生徒まで現れ始めた.

 もっとも修にもその原因がわからないでもなかった.修は心を他人に開け放つのが下手であった.感情が自尊心の枠をはみ出ることはなかったのだ.それがゆえに、生徒たちも修を警戒してしまい、お互いに身動きが取れない状態になってしまっていたのだ.双方のその緊張感は、生徒たちを著しく疲労させる結果となった.授業時間とはこの閉塞感との戦いとなり、修も授業後の講師室では、心中に濡れた雑巾のようなじっとりとした疲労感を感じた.

 昨年度末に職員から宣告された解雇予告も当然だと、修は思った.『これ以上、予備校に迷惑をかけるわけにはいかない……』.ようやく殊勝な気持になれたとも思ったが、修は自分のこの世界における立ち位置を見失いそうであった.『でも、とにかく今は授業をするしかないな』.眼前の生徒たちの虚ろな表情を見ながら、折れそうになる心を制して、懸命に気力を奮い立たせた.

「去年のセンター試験ではセクハラについて聞かれた」

 修はセンター試験の過去問題を生徒に参照させながら、当初の予定どおりセクシュアル・ハラスメントに関する問題を授業でとりあげた.生徒たちは面倒臭そうに問題冊子を開いた.

「セクハラは〈対価型セクハラ〉と〈環境型セクハラ〉とに分かれる.〈対価型〉というのは例えば職場で『給料を上げてやる』なんて利益をちらつかせその代償としてセクハラをすることだ.そしてこの利益云々以外のセクハラは〈環境型〉と思えばいいんだ」

 修は教卓の上の問題冊子に眼を落とした.例のごとく教室の雰囲気は重く、気詰まりで、修は生徒たちの顔は見ないで授業を進めた.

「だから去年の問題の選択肢のなかにある〈③性的なジョークは職場の雰囲気を円滑にするので許されるべきだ〉なんていうのは、典型的な〈環境型セクハラ〉だね.もちろんこれを正解に選んではいけない」

 修が顔をあげた時、前から三番目に座っていた女の生徒と眼が合った.その生徒は修に反抗的な視線を投げつけると、鋭利にその顔をそらした.

「それから、例えば結婚していない女性に『結婚はまだか』とか『嫁の貰い手がいなくなるぞ』なんて言うのも、〈環境型〉の代表例だね」

 修はここで生徒たちの笑いを取るつもりであったが、教室は却って息苦しくなった.ある女の生徒は呆れたような顔をして溜め息をついた.ある男の生徒は周囲の生徒たちの表情を確認した後、ずるそうな笑みを浮かべ教師を見た.この生徒の態度は修を苛立たせた.授業終了までにはまだ三十分以上もあった.この教室の空気の梗塞状態はいかんともし難いものがあった.『溜め息をつきたいのはこっちの方だ』、と修は思った.

 その時、この息苦しい空気の流れに堪えかねたためなのか、「先生……」と一番前に座っていた女子生徒が、仕方がないといった表情で声をあげた.

「では、女が男にするのもセクハラになりますか」と質問した.授業への積極的な姿勢というより、その声の響きにはあきらめに近いものがあった.しかし、その生徒はいく分頬が紅潮していた.

「もちろん.ただセクハラは一般には権力関係のあるところ、つまり上下関係のあるところで起きるものを指す.女の上司、男の部下という関係は日本ではまだ少ないので、いわゆる〈逆セクハラ〉の例はあまり聞かないね.ただ、アメリカではけっこう多いらしいよ」

 修は教室全体を見渡しながら続けた.質問した女子生徒につられてか、残りの生徒たちもこの話題には多少興味を持ったようであった.

「問題なのは、セクハラをしている人がセクハラをしているという意識がないということなんだ.そして突然、相手からセクハラだと指摘されてまごつくことになる」

 修は問題冊子をうっちゃったまま、教卓から少し離れた.静まりかえった教室に、空調の音が無機的な振動音を、一瞬響かせた.

「でもそんな時には、セクハラをする方も、される方も、両者ともすでに心が離れ切っているもんなんだ.またセクハラを受けている人は我慢をしていることが多いしね.結局はお互いがきちんと理解できていないまま、時間だけが経過してしまったということなんだ」

 その時、修は今の自分の言葉に、心が電流に打たれたのを感じた.『お互いがきちんと理解できていないまま、時間だけが経過して……』.眼前の、五十人はいると思われる生徒たちの顔が、一瞬静止画のようにぼやけた.修は生徒たちには言葉を続け何かを話していたが、修の心の中には代わって、初夏に父が入院した病棟での光景が浮かんでいた.

 離婚したいと涙ながらにテレビにうったえた初老の妻、『どんどん心が離れていき』、それは修の両親の夫婦関係でもあった.『黙っていたら相手は何も気づかず』、『離婚すると突然言われて』、さまざまな言葉と光景が修の頭の中を旋回した.『一生独身ね!』と病棟の廊下で修に叫んだ伯母、『あんなじじい、早く死んでしまえ』と息子に悪態をつく母の澄江…….さらに、修の父のベッドの横で深夜に『お母さん』と喉の奥からようやく声をしぼり出して死んでいった老人.そして、安らかな死さえ許されず激しい痛みの中に生を終えた中年の男性….皮膚に骨の輪郭が浮かび上がったあの人は、亡くなる直前「私は寂しい人間です」と言っていたのを、修は今不意に思い出した.

 人は、何のために生まれ、老い、病を得て、死ぬのか.そして何のために人は苦しまねばならないのか….肉体が苦しみ、しかしこころはさらに苦悶し続け….

 ふと我に戻った時、修は持っていた赤いチョークを持ち直そうとして、慌てていたため床に落としてしまった.チョークは裂けた方の片方が赤い破片を周囲に散乱させ、ドアの方まで転がっていった.修はそれを取りに行こうとして片足を踏み出した.しかしその瞬間、誤ってもう片方の足を教卓の足に引っかけてしまった.修は教卓の側面に身体をぶつけながら、結局、仰向けに転倒してしまった.修は教室の天井を見上げた時、一瞬ではあったが、人間が最期の時に見るのは天井なのか、それとも天空なのかと思った.

 しかしこの椿事ちんじは、その時、生徒たちにとっては、胸苦しかった教室の雰囲気を一挙に和らげる効果を持った.女子生徒たちは手を叩いて笑い、両手で顔を隠して首を振った.男の生徒たちも、何か照れくさそうに笑った.突然に教室の空気によどみがなくなったように思えた.修は起き上がって、生徒たちを見回した.今あらためて見ると、生徒一人一人の顔が、最前とはこうも違うものかと感動した.

「ごめんなさい!つまずいちゃって」

 修が顔を拭うと、手を汚していた赤いチョークのあとが、悪戯っぽく左頬を赤く染めた.修は、昔の童話の主人公のような滑稽な顔となった.教室は爆笑した.修の顔はさらにいっそうだこのように赤くなった.しかしその時、教室を漂っていたあの梗塞感と倦怠感は、修の頬を暖めるその幸福なあかね色の中に消えていた.

 修の授業に急に空気の余裕が出始めたのは、それからだった.今までは自分の感情の表白に、何かが邪魔をし億劫さも感じたのだが、その何ものかは忽然と消えた.今や肩肘を張る必要もなくなったのだ.『実はこんな簡単なことだったのか』と修は思った.

「六五歳以上の高齢者が十四%を越える社会を高齢社会という.日本はすでに高齢社会だね」

 修は過去問の次の問題に進んだ.問題は高齢社会の抱える問題であった.

「二〇二五年には高齢者の割合が全体の四分の一以上になるといわれる.さらに二〇六〇年には日本は四〇%近くが高齢者となる.つまり現役世代二人で一人の高齢者を支えることはできないということになる.もっともよく考えてみると、その時は僕も君たちも高齢者だね」

 修は生徒と一緒に大きな声で笑った.マイクを通した自分の声の大きさに少し驚いた.

「だからこのグラフの線は二〇六〇年あたりで四〇パーセント近くに達しているので、このグラフが人口に占める六五歳以上の高齢者の割合を示していることがわかる」と言って、修は問題用紙を片手に指さした.

「一方で合計特殊出生率が下がっていて、このままいくといずれに日本人はいなくなるそうだ.まあそれはかなり先の話として、近々の問題としては高齢社会の最大の問題の一つといわれる介護問題だろうね」

「実は僕も今、介護の問題があってね」と突然、修はこれまでのいきさつを縷々るる話し始めた.修の最初の計画では、今日の授業で自らの家庭事情を披瀝ひれきすることになるとは、思いもよらぬことであった.

「父が認知症で・・・・・」

 自宅の周りの地理が分からず徘徊が始まっていること、排便も一人ではままならないこと、家族の顔でさえ忘れつつあること…….

 生徒たちは熱心に聞いてくれた.そういえばこの子たちだって、大学受験という試練があるのだ.修はそんな当たり前のことを今やっと思い出した気がした.今までそんな生徒たちの期待に応える授業を、修はできなかったのだ.いな、何よりも一人ひとりの生徒の気持ちを、かけがえのない人生と魂がそこに息づいていることに、修は気付けなかった.修は実は、自分を中心にしか考えていなかったのだ.悪いのは自分だった.人間を歯車のように取り扱っていたのは、実は修自身だった.クリスマスのイルミネーションの明滅が、窓外から優しくささやいていた.

 授業が終わったのに、一人の女子生徒が教室の端の席に着座したまま、なかなか帰ろうとしなかった.座ったまま背を伸ばして周囲を確認する素振りを見せたり、一度は後ろのドアのところまで行ったものの、何かを思い出したようなふりをして、また元の席に戻って来た.スマホを見て、指で耳元に髪を整えながら、明らかに気もそぞろの面持ちであった.彼女はついに意を決して、でもよそ見をするふりをしながら、教卓の修の方へ向かって来た.

「うちもね、おじいちゃんが認知症なの.だからお母さんがたいへん.ほんとうのお父さんじゃないのに、でもお母さんは一生懸命めんどう見ているよ.だから先生も頑張ってね」

 彼女は何としても、この事実をわざわざ修に伝えたかったのだ.そのいじらしさに、修は心を打たれた.彼女は修への共感を呈することで、でも同時に自分の母への愛情も吐露とろしていた.そんなお母さんが大好きなことを、彼女は無意識のうちに自分自身に確認させたかったのだ.だから、それを修に知らせないまま、修が立ち去ってしまうことに、彼女は耐えられなかったのだ. 

 その女子生徒が微笑むと、美しい瞳は消え、可愛らしい笑窪えくぼが頬に映えた.

「今度、先生のメールアドレスを教えてね」と、その女子生徒は付け加えた.

「ありがとう」と言って、修は思わずその女子生徒の肩に手をのせようとしたが、『セクハラだ』と思い、慌てて手を引いた(ちなみに教師の方が生徒にメールアドレスを訊ねるのはセクハラである).

 それ以来、重しが取り除かれたかのように、濁っていたはずの教室の空気が澄み渡った.生徒たちの反応に合わせて、修は不思議に自分の言葉遣いが流暢になっているのに気付いた.修の授業が終わる度に、多くの生徒たちが教卓の修を取り囲んだ.

 街の鏡のような冬の大気にクリスマスの光が縦横に駆けめぐっていた.この時期に特有の甘美な記憶が、人々を誠実さと優しさへと回帰させた.教室の中ではいっそう暖かさが増していくかのようであった.


  

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