第4話  茨城篇

 荻窪の自宅から水戸までは、煩雑な都会を横断し、上野駅で特急フレッシュひたち号に乗り換えれば、二時間と少しである.修は予備校の秋の授業調整の休暇を利用して、修治を連れて父の生まれ故郷である茨城県の大洗へ向かった.

 山手線で上野駅を降りた後、階段を下り十七番線のホームへ行く.特急専用改札口の向こうには、背の低いやや華奢な感じのフレッシュひたち号がホームに長い車体を横たえている.

 修と修治が乗る八時三〇分発のフレッシュひたち9号の発射までには、まだ二十分ほど時間があった.修は特急専用改札口前に、空いているベンチを見つけ、父と一緒に座った.父は大きなあくびをした.朝の下りの改札口前は、人の行き来もまばらで、時の流れもゆったり感じられた.

「こんにちは」

 閑散としていた構内に、馴染みの声が響いた.しかしその声は修の胸元に不快な緊張を僅かに強いた.一方父の方は、その声に少し嬉しそうに口許が緩んだように思われた.

「あなたのお父さん、元気そうね」

 太い四角い柱の陰から睦子が姿を現した.睦子のその時の表情は白く平淡であった.カールしたありきたりの髪型も膝下の長いスカートも、却って普通の幸せの中に彼女がいることを感じさせた.修治はそんな睦子に慇懃いんぎんに頭を下げた.睦子は父に芝居じみた微笑を浮かべたが、頬と口許がこわばりそうになるのを懸命にこらえているかのようにも見えた.しかしそれは、一瞬にすぎなかった.

「あなたはこれからどこへ行くの」

「父親の田舎の大洗へ行くんだよ」

「大洗なら海がきれいでいいところでしょう.そういえば修君も魚が好物で・・・」

 睦子はそこで急に言葉をさえぎった.睦子の真新しい薬指のリングが、指を動かす度に、光彩を小さく散乱させた.修はその細い指を回想した.


 修は、睦子が修と交感した年月よりも、その新しい人と婚姻するまでの時間の方がはるかに短い気がした.すでに三十を過ぎていた睦子は結婚を急いだのかもしれない.しかし、修にとってはもはや余計な想像であった.今となっては、睦子が修の両親と楽しく語らった過去の光景が、修には馬鹿馬鹿しい戯画のように思い起こされた.

 あの時睦子は、はっきりと認知症の義父の介護は自分の責任外だと言った.それ以来、結婚後の幸せな空気を漠然と描いていた二人の心の中に、秋風に揺れる灯火のような不安感が忍び寄った.しまいには霧のようになった不安感は濃縮し、幾重もの倦怠感として、二人の内に重く堆積していった.

 介護の渦中にある修には、今となっては、睦子のあの言説が至当だと感じられる.『夫婦とは所詮、他人であり、他人の父親の面倒など・・・』.しかも認知症ともなれば、血縁であるはずの息子でさえその介護の重圧には、時に耐えがたいものがあるのだから.

 今、睦子は修と修治を「あなた」、「あなたのお父さん」と呼び、修も睦子を「君」と呼んでいた.上野駅の一羽の鳩が無遠慮に修の眼前で羽を拡げて飛び立った.

 もっとも、今や修の心の何処にも既に睦子の居場所は無かった.昔の恋人の前で、敢えて冷静さを演じてみせなければならないほどの残り火さえ、修の気持ちの中にはなかった.そしてそれは睦子も同じであろう.

「君は結婚したんだね」と、修は睦子に問いかける気持ちの余裕があり、そんな問いに安心したかのように、

「子どもができたみたい、まだどちらかはわからないんだけどね」 と、睦子もこのように答えることに何の勇気も必要としなかった.

「そういえば君は何でこんなところにいるの」

 まさか駅の柱の陰で、かつての恋人を待ち伏せしたわけでもあるまいし.

「牛久にいる夫の母が体を悪くしてね、病院の方へ行って来たの.でも間もなく退院みたい」

「よかったじゃない.元気になって」

「ううん」と睦子は首を振った。「病院を出されるってことよ.病院での治療は終わったということね.でも自宅では車椅子生活になりそうよ.おトイレもたいへんみたい……」と言って、睦子はうつむいた.そして、そのまま言葉を続けた.

「自宅って、東京の私たち夫婦の自宅.もちろん義理の母が、これからは東京で、私たち夫婦といっしょに住むことになるということね…….まさか牛久に母をひとりで住まわせるわけにはいかないわね」

 睦子はそう言って修とはやはり眼を合わせなかった.睦子も思いがけず、義母の介護に直面することになってしまったのだ.修は睦子の表情が混乱する前に、大きな声を出してその場を取り繕った.

「介護、バンザイ!なんてね……」

 修はわざと大きな声を出して笑った.その声に驚いて何羽かの鳩が飛び去った.修は、気まずさをごまかすためにこんな体裁を取り繕ったのではないが、自分の気持ちを睦子が変に勘ぐることだけは、自尊心が許さないような気もした.しかし、すぐにそんな考えを心の中で取り消した.なぜなら修が睦子と会うのは、恐らく生涯これが最後であろうと断じたからだ.睦子も両手を叩いて大声で笑ってくれた.修は心の中で睦子に感謝した.

「フレッシュひたち二〇号、発車射3分前になります」

 構内にスピーカーから駅員の声が響いた.

「お父さん、そろそろ電車に乗るよ」

「電車に乗る?何処へ行くんだ」 と、父は驚いたように眼を剥いた.

「大洗へ行くんだよ、お父さんの故郷にね」

 父が立ちあがろうとすると、睦子は優しく介助の手を差し伸べた.

「どちら様でしたっけ?どこかでお見かけしたような気がしますが」

 修治は睦子に親しげに言葉をかけた.睦子は一礼して微笑んだだけだった.

「じゃあ行ってくるね」と、修は大きく背伸びをした.

「修君も元気でね、ありがとう」と、睦子の声は昔日のような親しさだった.

「僕は全然元気だよ、大洗で好物の魚でもたくさん食べてくるさ…….ねえ、むっちゃん、介護頑張ろうね」最後にこの言葉が口から自然に出たのには、修も驚いた.

 睦子は、右手の握りこぶしを頬の前にかざした.口角に優しいえくぼを寄せて、睦子は安心したかのように踵を返した.睦子の後姿は、多くの人の背中をかき分けながら、雑踏の中に消えていった.


 取手を過ぎると周囲には畑が広がる.畑の西側の彼方で、東からの朝の陽の直射する筑波の双峰とそれに隣接する山々は、その山肌が野蛮なほどに蒼く、木々が青筋のようになまめかしかった.修治は小刻みに唇を震わせながら、ぼんやりと前の座席の背中を眺めていた.

 丘陵を抜けると突然、市街地が現れる.桜川の鉄橋を渡ったところで、右手に霞ヶ浦の湖面が東の空の端に水彩画のように映じた.特急電車は土浦を過ぎた.

 修は車内販売で買ったおにぎりのうち二つを、父の方に置いた.

「これは俺のか?」と、修治は修にきいた.

 修治はおにぎり一個を両手でつかむと、うまそうに食べた.修はハンカチで修治のよだれを拭いた.修治はしまいには飯粒をこぼし始めたので、修は鞄からナプキンを取り出して、修治の両膝の上に置いた.

 陽が少しずつ高くなるにつれ、筑波の双峰は静かに風景の中に調和していった.盛夏の雲の白炎のようなまぶしさはすでに消え、平野全体を穏やかな秋の空気と光が包んでいった.

 フレッシュひたち号は神立駅を通過した.特急電車は低地に向かい疾走し、高浜駅を通過する頃には周りに田んぼが広がった.

「間もなく、水戸、水戸に到着いたします.水郡線、鹿島臨海鉄道線はお乗り換えです.」

 機械調の音声の車内放送はすぐに英語に切り換わった.窓外の市街地の喧騒が眼にうつった.

 水戸駅を降りて修は、父を駅前の格さんと助さんを従えた水戸黄門の像の前に案内した.駅の大きな時計を見ると、十時前だった.しばらくすると、車で従兄弟の勝が修たちを迎えに来た.勝の横には修治の弟の真治がいた.真治の姿を確認すると修治は、修の方に振り返りながら、無邪気に微笑んだ.

「俺、あの人知ってるような気がするなあ」

「うん、叔父さんだよ.お父さんの弟」

「弟?あの人が俺の弟なのか.俺に弟なんかいたのか?」

 修治は混濁した頭の中を懸命に整理しているかのように見えた.

「兄さんも修ちゃんも元気そうだっぺね」

 真治は修たちの方に近寄ってきてそう言った.修治は不思議そうな顔で、自分の弟を見た.しかし、しばらくするととにかく親しい人であるということだけは理解したようで、促されるままに素直に車に乗った.

 車に乗り水戸の街の喧騒を離れると、東の方に次第に虚空が広がり始めた.その彼方に大海原が近づいていることを予感させた.修治の生まれ故郷である大洗の実家にはお昼前には到着した.

 修と修治は実家に挨拶をし、昼食をとった.実家では、三十年前に修と修治が大洗を訪れた時の写真を見せられた.父と子は釣竿を肩にのせて写っていたが、修には当時、大洗で父と釣りをした記憶を思い出せなかった.一方、修治は「これは俺だなあ」と言ってアルバムを指さしながら、眼を細めた.

 夕方近くになってから、修治の父と母の墓参りをした.修治は震える両の掌を懸命にこすりながら合掌した.

 あれやこれやなすうち、修と修治が旅館の部屋に着く頃には、陽は中天を遥かに過ぎていた.修治は疲れたのか二つ折りにした座布団を枕にすぐに寝息を立て始めた.修は押し入れから毛布を取り出すと、修治の肩に掛けた.

 修はやおら部屋の窓を開けた.海は思いのほかに静かで、じきに潮の香りが届いた.茫洋たる水平線の上を、薄白い舟艇が、夢の一コマのような曖昧な輪郭を浮揚させていた.修は、こんな淡い、静かで、幸福でも不幸でもないような時間が、幼い頃にあったような気がした.

 暗くなり始めると、青白い大気の中に、空気ににじんだような黄色い光の列が並んだ.その光の連なりは、陸から細長く突き出ているはずの岬の存在を教えてくれていた.海の彼方から鋭利な光線を放つ漁火には、修はしみじみとした情感を覚えた.旅館のそばの道路の街灯は寂しそうにうなだれ、その先端に線香花火のような光が灯っていた.

 海が漆黒に染まる頃に部屋に夕食が運ばれてきた.旅館の鮟鱇あんこう料理には舌鼓したづつみを打った.父の食欲は旺盛で、デザートの杏仁豆腐まですべて平らげてしまった.認知症になるとよく食べるという話は聞いたことはあったが、修治の場合も確かにその通りかもしれなかった.

 修治は、夕食の後に部屋に敷かれた寝具の中にもぐり込み、間もなく寝息をたて始めた.夜になると雨が降り始めた.ひとしきり降る激しい雨音に、部屋は孤独に閉じ込められた.熟睡した父を横目に、修はしばし、この雨音の心地よいわずらいに身をゆだねた.

 夜中、「おさむー、おさむー」という父の声で、修は眼を覚ました.

「何だか、何だか・・・、変だぞ」と修治は言った.修が枕元の電灯を点けると、父はまぶしそうな顔をした.

 部屋の電気を点け、父の掛け布団を取り除いてみると、案の定、紙オムツの端から大便が漏れていた.

 敷布団の上に事前に薬局で買っておいた失禁用のペーパーシーツを敷いておいて正解だった.泥のようになった便はシーツより外側の敷布団そのものの上には、はみ出ることはなかった.父は上衣は普段着のままで、旅館の浴衣を着ていなかったが、これもまたよかった.

 修はまさに紙を剥がすようにして、修治の紙オムツを脱がした.泥土のような黄土色の便が、修の手の甲にも落ちてきた.むかつくような臭気が、納豆の糸のように修の鼻腔の奥の粘膜にみた.皴だらけの父の尻が現れた.

「お父さん、昨晩はどうやらいいもんばかり食べすぎちゃったみたいだね」と言って、修は笑った.

「そうかな」と言って、父も笑った.

 窓を開けると、夏はとっくに終わったこの季節、夜中の空気はやはり冷たかった.この開け放たれた暗闇の奥に大海原が拡がっていると思うと、やや恐ろしい気もしたが、部屋に充満した臭気によってその恐怖心は滑稽にゆがめられているような気がした.

『父と自分との今のやり取りを見ているのは、この黒い海だけってわけだな』と、修は不思議なことを考えた.そして笑った.

「おい、寒いぞ、閉めないのか」と、下半身が丸出しになった修治は窓を指した.でも父はすぐに今度は、恥ずかしそうに急いで、あらわになったままの自分の陰部を両手で隠した.

「もうちょっと我慢して」、父の股間こかんの下から、息子は父の顔をにらんだ.

 父は陰毛に、引き抜いたばかりの根茎に付いた土くれのような細かい便をいくつもからませていた.こういうこともあろうかと、修は薬局で使い捨てウェットタオルを大量に買って持ってきておいたので、実に役立った.でもやはり最後は部屋に付いている風呂場に連れて行き、シャワーで腰の部分を丁寧に洗った.結局、上着も全部取り替えることになった.

 バスタオルで体を拭き終えると、「はい、おしまい!」と修は父の両肩に手をのせた.修が笑うと、父も突然笑いだした.修治の両肩から湯気が白く上がっていた.


 翌日の朝、窓を開けた.静かな波面のひだに光の騒擾そうじょうが無数の色彩を奏でていた.海は晴天に輝いていた.父は夜中のことなどすっかり忘れたかのようにいびきをかいて寝ていた.便臭はまだ部屋の壁にこびりついているような気もしたが.

 旅館の下では叔父の真治が迎えに来ていた.朝食までの僅かな間は海辺の散策の時間に当てられた.

 浜の砂の香りは懐かしかった.海は静かだったが、小さな灯台の岩の下に白い波紋がわずかに見えた.一羽のカモメが悠然と空を舞った.振り返ると、三人の足あとが長く砂浜に刻まれていた.

「叔父さん、この辺ではこんな波打ち際に旅館や家を建てているけれど、津波とか大丈夫なの?」と、修はふとそんなことを叔父の真治に訊ねた.

「いやなあ、この辺とか福島県の浜通り周辺とかはな、海外線がおだやかだからなあ、津波はきねえ…….オラは生まれてから一度も津波なんかにあったことねえもん」

 彼方の岸壁に波が白く砕けた.

「だから、この辺とか福島県には原子力発電所があるわけさ.津波は来ないという証拠みてえなもんだな.津波が来るのは、東北のもっと上の方の、海岸線が入り組んだ場所のほうだっぺさ」と、叔父はただ笑うだけだった.

 その時突然、修たちの目の前で海が黒く山のようにうねり、眼前から水平線をかき消した.修は波面はめんが急に押し寄せてくるような恐怖を覚えた.しかし盛り上がった波濤はほどなく揺らぎ、三人の足元で白く泡立った.  

「おっとっと、こんなところまでしおが来やがった」

 叔父はじれったそうに言って、少し冷たくなった海水に両足をもがいた.三人はひざのあたりまで水に濡らした.

 浜辺から退いて、今度は道路の方へ上がり、しばらく歩くと、道路の上にかかる大きな鳥居に出くわした.三人が鳥居をくぐった時、修治が立ち止まり、くさむらの方を見た.すると、

「修よ、昔ここには俺の行っていた小学校があったんだ」と突然、修治は流暢に話し始めた.「ここに倉庫があって、ほら、鉄棒は今も残っているじゃないか」

「んだあ、んだけっども、小学校はもう何十年も前に廃校になったんだどな」と、波面に反射する朝陽を片手でさえぎながら、弟の真治が答えた.

「あれよ、オルガンの上手な校長先生もいたっぺ、あの人はどうしたっぺ」と、いつのまにか修治も茨城の方言になった.

「佐藤先生だへ、ずい分前に亡くなっちまったどな」

「ふうん」

 兄と弟は昔話に興じた.修治の両眼にはいつになく鮮やかな輝きがあった.突然、修治は驚くほど正確に過去のいきさつを説明し始めたのだ.道すがら様々な建物を指さしては、修と真治に来歴などを解説した.真治は時おり首を傾げたが、「そうだった、そうだったな」と手を打った.

 海辺のカフェで、熱いコーヒーカップから唇を離すと、修治は、「真治の野郎、何んにも覚えてないじゃないか」と、満足気に修の前で微笑んだ.

 かわやに行った真治を遠目で確認した後、修治は修にいっそう顔を近づけると小声で、

「真治の奴、少し頭がけてきたんじゃねのか」と笑った.

 修治はまだかわやから戻らない弟をもう一度確認すると、

「おい修、真治には今のこと言うなよ.ショックを受けるといけない」と、父は唇の前で人指し指を立てて、修の前で真剣な顔をした.


 その晩、荻窪の家に帰宅すると、夜に叔父の真司から修に電話があった.

「兄さん、ちっともけていめえよ」と修に言って、叔父は受話器から溢れ出さんばかりの大声で笑った.

 弟からの電話だとわかったのか、居間から修治が電話口に寄って来た.

「修よ、俺に代えてみろっ」と、修治は修の受話器を取ろうとした.唇が少し震えていた.でも父はうれしいのか、涙が出そうな顔をしていた.

 修は両手で受話器を握って、父の耳に当てた.

「いやあ、世話になったねえ」と、修治は最初だけ声が震えていたが、すぐに平静な声音に戻った.兄は弟と楽しそうに思い出話に興じているようであった.

 修は、父が耳に当てていた受話器の横にそっと耳を寄せた.もってはいるが、屈託のない弟の真治の声が、大洗の潮騒のように響いていた.


  



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