ただ独り歩め、『犀《サイ》の角』のごとく

「ただ独り歩め、サイの角のごとく」



仏陀自身が説いたとされる思想で、仏教の中でも最も重要な思想の一つです。


さて皆さん、『サイ』という動物をご存じでしょうが、どんなイメージでしょうか?


重厚な巨躯に、サイの象徴である鼻先にある一本の角。


そんな感じでしょうか。


仏陀のいるインドのインドサイは群れる事のない動物で、常に孤独。


繁殖期などの一部を除き、単独行動が多い。


それゆえに、仏陀は犀の角という言葉を用いて、“孤独”にスポットを当てました。


『愛別離苦』に代表されるように、人は人間関係によって苦をもたらされると仏陀は説きます。


ゆえに、サイのように孤独と向き合えという事です。


魔王マーラの誘惑に耐え、降魔を成し、悟りの境地へと到達するには、孤独と向き合わねばならない。


自分を見つめ直し、瞑想に耽るのは、まさに一人。


孤独でなくては、悟りは開かれない。


しかし、同時に『とも』の重要性にも触れています。


なぜなら、『孤独』とは、他者との交流を知る身でなければ感じる事はないからです。


対人関係から来る悩みから距離を取り、孤独と向き合いながら、『個』を確立するには人(友)との繋がりもまた人格形成には必要である、と。


学友、仕事仲間、様々なつながりはあれど、自身を成熟させるうえで必要不可欠な存在を、総じて『友』と呼ぶ。


悟りを開くのは個であり、孤独と共に自身を見つめ直さなくてはならないが、その道程においては『友』は必要不可欠な要素です。


友と過ごした学びや仕事の時間が、孤独と向き合う貴重な時間と人格の土台を生み出すのです。


本当に必要なもの、真の友と呼べるものを見出すのは、まさにそれでしょう。


削いで、見つめて、削いで、見つめて、その先に悟り(真理)があるのです。


しかし、そこにもまた落とし穴がある。


孤独でなくてはならないが、自分にはない見識を得るには、他者との交流もまた不可欠な要素である。


『三人揃えば文殊の智慧』という言葉がある様に、一人では成し得ぬ見識の境地も、何人かで集まればそれを成すことができる。


しかし、そこに“甘え”があってはならない。


他者との交流が必要であるからと言って、度が過ぎればそれは“馴れ合い”に過ぎない。


最近、知己の方がご立腹されていた件があります。


カクヨムを始めとする投稿サイトにおいては、評価ポイントを付ける事が出来ます。


その評価ポイントが“作品の出来栄え”と乖離しすぎているとの事です。


それも“小説の文章として成立しているかも怪しいレベル”の稚拙さで。


当初はその方もやんわりと「文章の構成をしっかりさせましょう」と諭していたのですが、それが気に障ったのか、SNSで暴言を投げ付けられるわ、作品のコメント欄は荒らされるわで大変だったのだそうです。


かなり激しいやり取りがあったようですが、今は荒らし連中が逃亡してしまって落ち着いてはいるようです。


結局、その荒らしの連中は狭いコミュニティーの中で作品を評価し合い、評価ポイントを融通し合って悦に入っていたという事です。


だからこそ、ポイント付与と“甘言”を述べる者だけが集まり、たまたま外部から入ってきた人の“諫言”には耳を傾けず、攻撃的になったという話です。


これこそ“馴れ合い”の典型例であり、害毒にしかならない人との交流です。


人との交流もまた、仏教における“中庸”であらねばならない。


仏陀も『サイの角』を述べて孤独を推奨しながらも、度が過ぎればそれもまた悟りを遠のかせる原因にもなると説く。


“友”と学ぶからこそ、得られる見識もあり、孤独の中にあってその“友”との交流があったからこそ、孤独にも打ち勝てる見識と心構えを得られるのです。


一方、行き過ぎた交流は馴れ合いを生む。


友と学び、見識を深めるのは良いにしても、その関係に“執着”するあまり、場を壊したくないからと助言(苦言)を言い出しにくくなる。


結果、“甘言”が飛び交い、見識が却って浅くなり、しかも“諫言”を述べる者には空気の読めない奴と排斥するようにまでなってしまう。


そうした流れが、『山岳ベース事件』や『あさま山荘事件』などのような思想信条の絶対性と他者への攻撃的な言動に繋がっていきます。


馴れ合いの結果、孤立し、先鋭化して、読解力や思考力にも影を落とす。


程度の差こそあれ、この荒らしの一件もまた、そうした流れの一つなのでしょう。


それゆえに“中庸”。


単なる馴れ合いは良くないが、一人では見識を得られず、悟りへの道を遠ざける事にもなる。


孤独の中にあって、“友”を感じる。


交流は必要なれど、最後は孤独。自分自身を見つめねばならない。


現在、ネット等で簡単に人との繋がりを持てるようになる一方、繋がりが強化された社会においては、繋がりからこぼれ落ちた存在が際立って見えてしまいます。


人は他者との繋がりを求め、それが断たれり、あるいは失われたりする状態を不安や不快として感受します。


だが、実際のところ、私達が孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私の事を見ていない」とか、「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。


雑踏の中でただ一人歩いている時の孤独感が、まさにそれでしょう。


一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲との繋がりを実感できないからこそ、孤独を苦痛として感じます。


私達は一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。



「ただ独り歩め、サイの角のごとく」



そのような私達に対して、仏陀の言葉は、孤独を怖れる必要はないと教えます。


ちなみにこれは、『スッタニパータ』という経典に記された一節であり、その全文はこうなります。



仏陀

「学識豊かで真理をわきまえ、高邁こうまい、明敏な友と交わりなさい。色々と為になる事柄を知り、疑惑を除き去って、ただ独り歩め、サイの角のように」



孤独を進めながら、しっかりと“友”についても言及し、その重要性を説いています。


そして、仏教における“友”とは、「自身を成熟へと導くもの」であり、そうした事象、人物を総じて「友」と呼ぶのです。


学生であれば、「学問にひたむきになる」が“友”。


社会人であれば、「責任を以て仕事に勤しむ」が“友”。


人物のみならず、自身を昇華させる事象そのものが“友”なのです。


“強敵”と書いて「とも」と呼ばせる『●斗の拳』などはまさにこれ。


主人公のケンシロウは常に強敵ともと対峙し、その想いを背負い込む事により、ラオウとの決戦で究極奥義「無想転生」を発動する事が出来た。


ラオウもまた「無想転生」を発動させるも、ケンシロウが積み重ねた強敵ともの想いの差が、両者の勝敗の明暗を分ける事になる。


情を否定したラオウ、情を受け止め、それでもなお溺れる事のなかったケンシロウ。


強敵(友)という支えがあったからこその戦いであり、結果だ。


人間が社会的な生き物である以上、他者との繋がりを否定する事はできない。


様々な繋がりを自覚した上で、“孤独”と向き合う事が必要なのです。


そうした孤独と向き合い、思考する時間は貴重です。


なぜ孤独が必要なのか?


それは自分が「本当は何を探し求めているのか」、これを見出すためです。


そんな孤独との戦いも、“友”がいれば恐れる事はありません。


今までの学びや仕事は孤独と向き合う際に、きっと支えとなってくれるでしょう。


見つめ、思考している内に、あなたにとっての“真の友”と出会えるかもしれません。



「ただ独り歩め、サイの角のごとく」



孤独は恐れるに値せず。


なぜなら、“とも”がいつも側にいるからだ。


ともがらに哀れみをかけ、情にほだされると、覚悟を鈍らせる事になる。


親愛はその恐れがあると認識し、サイの角のごとくただ一人歩め!


その見据える先に、角が指し示す先に、あなたの求めるものがあるのだから。




サイとカバは怖い!>( -ω-)人  (´・ω・` )<実質、重戦車やで

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