アンドモア~精神科児童思春期病棟~
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アンドモア~精神科児童思春期病棟~
「おはよう田中さん。朝だよ」
看護師の一声で、朱莉ははっと目を覚ます。
「今日は朝ごはんは食べられそう? 一口でもいいから食べてみてね、ここに置いとくから」
「ねえ、今日って何日目?」
「えーと、ちょっと待ってね、今パソコンで調べるから。えー、一九七日目かな。どうしたの急に?」
「いや、長いなーって思って」
「そうだね、ちょっと長引いてきたかな」
今日は朱莉が精神科永田病院児童思春期病棟に入院して一九七日目らしい。退院の目安は三カ月、九十日だから、もう二回の入院分はここで過ごしていることになる。
「じゃあ他の患者さんのところに行ってくるから」
浅利という男性看護師が部屋から出ていく。朱莉の部屋は個室だ。個室希望は出していないけれど、この前大部屋に移動になったときに調子を大きく崩したことがあって、朱莉の部屋はずっと個室になっていた。
朝の日課をしようと思い、朝ごはんをそっちのけでベッドから起き上がる。部屋のドアを開けると、誰かの走っている音が聞こえてきた。
「シューッ、シューッ。グーウウウウウ」
十歳の少年悠里が風と戦っている。くるくると回りながら走るので、危ないなと思いつつそばを通る。
「ろくろ首のお母さんは⁉ お母さんに会いたいの‼」
叫び声が聞こえる。声の主は、ズボンとパンツを足首まで下ろしている十二歳の少年蓮だ。知的障害があって、恥部が丸見えになっているけど、もうそんなのは慣れっこだ。
永田病院は本館と西館でできていて、二階から四階が渡り廊下で繋がっている。朱莉のいる病棟は閉鎖病棟だからいつもは鍵がかかっているが、渡り廊下へと繋がるドアの大きな窓から漏れる暖かい日光が、なんだか開放感を感じられて、朱莉は好きだった。
渡り廊下前へと到着する。いつものように、たっぷりと光合成をして、ついでに深呼吸もしておく。
なんとなく引き戸のドアに手をかけると、からからから、と音をたててドアが開いた。
息を飲む。
もう少しだけ、開けてみる。
結局全開になるまで開けてしまったドアを見て、決意を固めた。
この病院から脱出する。
永田病院に何の不満もないけれど、不思議とそう思っていた。
そうっと足を渡り廊下へと踏み出して、誰かに見られないようにドアを閉める。
渡り廊下はコンクリートで出来ていて、一・五メートル程の囲いが脇にあった。
児童思春期病棟は二階にある。
飛べる。
囲いに手を掛けて、腕に力を入れ、足を浮かせた。右足を囲いに掛ける。その時だった。
右足が思ったより前に出てしまって、右足が落ちていく。身体もそれに引っ張られて、朱莉は見事に渡り廊下から落ちていった。
ドンッと音がする。
身体は痛いけれど、何とか立ち上がれた。
落ちたところは病院の中庭になっていて、ちょうどベンチの前に朱莉は立っていた。
運よく、中庭には誰もいない。
周りを見渡すと、案内板が立っていて、病院入口の方を指していた。
出来るだけ早足で入口へ向かう。
ロビーを抜けて、自動ドアを潜り抜ける。
病院の外に出た瞬間、朱莉は走り出した。
全然土地勘もない場所だけど、闇雲に走ってみる。
病院の門を抜けて、横断歩道を渡る。
息が切れてきた。長い入院生活のせいか、体力が著しく落ちている。
しんどい。
立ち止まって、はあ、はあ、と大きく肩で息をする。
それでも走らなきゃ、と何かに駆られて再び走り出す。
交番が見えた。
どうしよう、と葛藤する。どうしよう。
このまま逃走を続けても、途中で道に迷ったら、誰も助けてくれないだろう。家にも辿り着けそうにない。朱莉の家は、ここから十駅ほど離れた場所にある。
己の判断ミスを呪った。
もうここでやめてしまおうか。
交番に入った。
机の奥に若そうな男性警部がいる。
「あの」
勇気を出して声を掛ける。
「どうされましたか」
「永田病院から脱走してきました。保護してほしいです」
男性警部が目を丸くする。
「わかりました。病院に連絡してお迎えに来てもらおうと思います。それでいいですか?」
「はい」
「それじゃあその間別の人に見ておいてもらおうかな。ちょっと待っていて下さい。」
結城さーん、と呼ぶ声がする。
はーい、と答える声が聞こえて、三十代くらいの落ち着いた女性警部が出てきた。
「この方が永田病院から脱走してきたみたいで。病院に連絡してお迎えに来てもらおうと思うんです。それで大丈夫ですよね?」
「うん、大丈夫だと思う。初めまして、警察官の結城です。病院のお迎えが来るまで一緒にいさせてもらうね」
こくりと頷く。
「じゃあ佐藤くん、病院に連絡してもらえる?」
「わかりました」
「あ、そうだ、お名前教えてもらえるかな?病院に連絡するのに必要だから」
病院でつけられたネームバンドを見せる。
「田中朱莉です」
「田中朱莉さんね、OK、連絡します。病院の人が来るまで何してよっか。お話しでもする?」
「はい」
「OK。朱莉ちゃんは何で入院したの?」
「え、死にたいって言って」
「そうなんだ。何で死にたかったの?」
「言えない」
「そっか、無理に聞いてごめんね。今はどれくらい入院してるの?」
「一九七日」
「え、よく覚えてるね」
「今朝看護師さんに聞いたの」
「そっか、でも結構長いね」
「そうなの!長いの。だから嫌になって逃げてきたの」
「そっかー、そうだったんだね」
話しやすい。気づけば朱莉は入院した詳しい経緯まで結城に話していた。
十五分ほど話した後、車の停まる音がした。
「永田病院の宗像です。田中朱莉さんのお迎えに来ました」
「お疲れ様です。朱莉さんはここに」
宗像という看護部副課長の看護師が、同じく副課長と係長を二名連れてやって来た。
大人しく、宗像の方へ歩み寄る。
「ごめんなさい」
「謝るのは後ででいいよ。取り敢えず今は病院へ戻ろう」
「はい。お世話になりました」
結城と佐藤の方へ頭を下げる。
すると、連れられて来た副課長と係長に腕を組まれた。組まれたというより、掴まれたに近いだろうか。組んだ腕をもう片方の腕でがっちり掴んで、腕が外れないようになっている。
「何すんだよ‼」
思わず叫んでいた。
朱莉の言葉はお構いなしに副課長と係長は車の方へと歩いていく。引きずられるような恰好で、朱莉は車の中に乗り込んだ。
車の中に入ると、足も看護師の足で抑えられる。
じたばたと動いている間に、車が発進した。
一分もしないうちに病院へ到着する。朱莉が走った距離はほんのこれだけだったという事実に、朱莉は悲しくなった。
腕を組まれたまま、病棟へと向かう。
病棟に入ると、部屋が変わっていた。病棟の奥へ奥へと進んでいく。四二〇-四二一と書かれた扉を宗像が重そうに開ける。ギィーッと音がして、四二〇号室の扉が見える。
ブラインドがあって、中が見えるようになっているその扉が開けられて、中に入る。
すると上半分がガラスで中が見えるようになっている内扉が見えた。
その扉も開けられて、中に入る。
部屋の中のベッドには、テレビで見たことのある拘束の道具がつけられていた。
「田中朱莉さん。只今八時二十三分より、あなたに対して身体的拘束を行います」
ああ、と天を仰ぎ見た。仕方のないことかもしれない。それだけのことをしてしまったのかもしれない。仕方ない。
そう思って、朱莉は抵抗しなかった。看護師に促されるまま、ベッドに横になる。
大勢の大人が、一斉に大急ぎで拘束道具をつける。
絶望感が朱莉を襲う。まさか自分が拘束されることになるなんて。悶々といろいろなことを考える。
女性看護師が二名来て、宗像たちが去っていく。江草と松本という看護師は、手に何か持っている。
「弾性ストッキングとおむつつけますね。足の拘束を外します」
ズボンと下着を脱がされて、おむつを履かされる。
次に、弾性ストッキングを着用した。しっかりと圧迫されて、きつい。
「じゃあね、頑張って」
江草と松本が去っていく。
朱莉は、絶望に包まれて、ゆっくりと目を閉じた。
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