第八章 変化の足音

 それは、ほんの小さなきっかけだった。

 まだ半年も経っていないはずなのに、遠い昔のように思える。

 春休みの契明学園の構内を不審者同然に歩き回る少年——桐生月彦きりゅうつきひこの無意識と強くつながったあの日。あの日を境に、雨宮冬莉あまみやとうりの人生は大きく動き出したのだ。彼と出会ってから、決して失いたくなかった人を失い、二度と会えないと思っていた両親と再会し、そして何よりも、初めての、かけがえのない感情を知ることができた。

 こんなことに彼を巻き込んでしまってよかったのかと、後悔の念に駆られたことも何度もあった。だが今は、ずっとそばに居てくれた彼の顔を思い浮かべる度に自分を包み込む温かい気持ちが、それをかき消してくれている。


「冬莉、本当に日本を離れてよかったのか?」

 エイリスへ向かう飛行機の中、誠二せいじ——改め、シグレが冬莉に聞いた。

「うん、だって……また、四人で暮らしたかったんだもの。それに……」

 彼——キツキのことを話そうとすると、どうしても頬が緩んでしまう。

「それに、きっとキツキくんはわたしを追いかけてきてくれるから」

 冬莉のそんな様子に、父親であるシグレは少し戸惑いを見せた。

「なんだか……今になってやっと、娘がよその男と仲良くしているのが寂しく感じられてきたよ」

「まったくあなたったら……子離れしないとダメじゃない。冬莉ももう十五歳でしょう?」

 冬莉を挟んで反対側の席に座っていた冬莉の母親、智美ともみ——改めヒサメが口を挟む。

「そんなの……ようやく会えたんだ、子離れなんてそんな寂しいこと……!」

「パパ、もう……キツキくんのことはもういいでしょ! これからの話、しよう?」

 長い別離の時を経て再会した雨宮家の面々は、ようやく普通の家族の姿を取り戻しつつあった。


千春ちはるのこと……本当にエイリスに行けば、あの子はなんとかなるの? それに、暮らせるかどうかだって……」

 冬莉は、やや声を落として両親に問うた。

「問題ない。私たちが国籍を獲得するのに助力してくれた人々と一緒に、シミュレーションは済ませているんだ」

「そっか、それなら安心なのかな……」

 心が壊れ、人形のようになってしまった弟の千春。戸籍すらも奪われた彼を救うのが、雨宮家がエイリスへ向かう一番の目的だった。ヨーロッパの小さな島国であるエイリスには、千春を治せる設備があるのだという。

「ええ、もちろんママたちは細心の注意を払って動かなきゃいけないけれど、あなたや千春には可能な限り不自由をさせないようにするつもりよ。だから安心して……それに、ここではあまりこれからのことは話したくないわ」

「あっ……! ごめん、パパ、ママ」

 冬莉は子どものように両手で口を覆った。

「いいんだ。でも、私たちは冬莉の話の方が聞きたい。もちろん、情報収集の中で知れることも少なくなかったが、それはあくまで風の噂程度の話。あの学園であったこと、辛いことも多かっただろうが……冬莉の口から聞かせてくれないか?」

「うん……分かった」

 冬莉は、契明学園に入ってからのことを、両親に話し始めた。


「わたしが契明に入るのを決めたのは、もちろんマスチャーを使うために出入りしていたのもあるけど、一番はあの二人……正寛まさあきさんと怜凛れんりさんの手を煩わせたくなかったから。全寮制のあの学園に入れば、二人は私の世話をしなくて済むでしょ? 千春のこともあるのに、私の面倒なんて見てもらう訳にいかなかったよ。それに、小学校の人たちはみんな……家族のことをあれこれ言ってきたから。特殊な環境で育った人も少なくないあの学園なら、お互い気を遣い合って過ごしているんじゃないかって……これは、正寛さんが言ってくれたんだけどね。

 正寛さんの言った通り、契明の生徒はみんな、お互いのプライベート……特に家族のことには深く突っ込まないみたいだった。それはそうだよね、親同士がライバル企業の役員同士だとか、兄弟で跡取り争いとか、噂にはよく聞いたよ。だからこそ、干渉しすぎないのが暗黙のルールだったみたい、なんだけど……」

 冬莉はそこまで話すと、目を伏せた。

「わたしは、ずっと周りの人たちの悪意に晒されて、挙句に千春があんな目に遭って……ちょっと、人を信じられなくなっていたんだ。それに、わたしと一緒にいるとみんな不幸になるって、そんな宿命をわたしは背負ってるんだって思ってた。だから、全然友達が作れないのは変わらなかった……ずっと一人で過ごしてたの。無意識に干渉する力のことを知っていた英司くんとは、生徒会のお仕事で一緒にいることもあったけどね」

 冬莉はひとつ息をつき、続ける。

「それで、キツキくんと出会ったのは、高等部に進学する直前の春休み。マスチャー室を娯楽施設だと思い込んでた彼が、私に場所を聞いてきた……というより、聞かれる前から、彼の無意識が私の中に流れ込んできたの。びっくりしたよ。

 最初は、適当に場所だけ教えてあげればいいと思ってたんだけど、なんだかどうしても気になって結局マスチャー室まで着いていったんだ。そうしたら、彼は誰もいない部屋でマスチャーを勝手にいじろうとしていて……まったく、思い出しただけで呆れちゃうよ。だから、今度は私から声をかけたんだ。本当はわざわざ他人と関わるなんて怖かったけど……気になった、から」

「それがキツキくんとあなたの出会いだったのね?」

 ヒサメは、ふふ、と微笑ましそうに笑った。

「もうママ、からかわないでよ!」

「あらあら、ごめんなさい。なんだか嬉しくてつい……冬莉も、私たちが離れてしまっていた間にすっかり大きくなったのね」

「むう……」

 ほんのり桃色に染まった頬を膨らませる冬莉。そんな彼女に、シグレは少し複雑そうな表情で話の続きを促した。

「……キツキくんとは、どういう風に……その、関わりができていったんだ?」

「それはね……初めは、マスチャー室の一件で、キツキくんとの関係は終わるものだと思ってたの。でも、寮の部屋が隣だったりクラスが同じだったり、いろいろ偶然が重なる内に、彼がわたしに『友達になろう』って言ってきたの。けどわたしは、誰かを宿命に巻き込むのは嫌だったから、パパやママがいなくなったこと、千春が心を壊してしまったこと……みんな話した。そうすれば、大抵の人はわたしから離れていったもの。なのに、キツキくんはそれでもわたしと友達になりたいって」

 あの日の病室で、二度目の提案をしてきたキツキの真剣な眼差しを思い出す。あの提案がなければ、冬莉の運命の歯車は止まったままだったのだ。

「それからは、キツキくんの幼馴染の天羽さくらさんも交えて、ほんの少しの間だけ普通の高校生みたいな日々を過ごしてたの。あんな風にあったかい気持ちになるのは、久々だった。だから……」

 冬莉はそこで、表情を固くした。

「さくらさんが事件に巻き込まれた時は、頭が真っ白になった。雨宮家だけの『宿命』だったはずなのに、関係ない人にまで被害が及んでしまって……やっぱり、普通の生活を望む権利なんてわたしにはないんだって、そう思った……

 けど、自分にとって本当に大切な人を失っても、キツキくんはわたしから離れたりしなかった。寧ろ、自暴自棄になりかけていたわたしを、彼は支えてくれた。襲ってきた人間を説得して、現実を変えようだなんて言ってきて……そんなこと、それまで思いつきもしなかった。絶対に無理だと思ってたし……それでわたしは、宮城の家の金庫を開けることにしたの。びっくりしたよ、どうしてキツキくんの名前が?」

 ヒサメは、ふふ、と笑ってみせた。

「あなたの無意識とつながった時、彼とのことが分かったの。彼があなたにとって大切な人になるって直感した。だから、わたしがあの金庫の鍵に彼の名前を登録したのよ」

「ヒサメ……お前、そうだったのか?」

「ええ、ごめんなさいね、あなたにきちんと説明できなくて。母娘だけの秘密にしておかなきゃだって、そう思ったの」

「もう! ママったら…………」

「向こうについたら、キツキくんのこともたくさん聞かせてほしいけれど……今は、金庫を開けた後の話を聞かせてもらおうかしら」

「うん……金庫を見に行った時、それを長門家の人間に悟られて、わたしたちは襲われてしまった。どうにか命は助かったけど、しばらく病院に入院することになって。そんなことをしている内に、怜凛さんが行方をくらませて……後を追った正寛さんは、怜凛さんに……」

 思い出すと今でも身震いしてしまう。頭から血を流した正寛の亡骸————

「キツキくんと英司くんは、わたしに黙って正寛さんを追いかけた。わたしがあっちに行った頃には、大変なことになってた……ここから先は、パパとママも日本にいたから知ってる、かな?」

「ああ、辛いことを思い出させてごめんな」

 シグレは、そう言って冬莉の頭を優しく撫でた。

「……やはり、事故のことは未だに…………」

「パパ? どうかしたの?」

「ああ、いや。当然のことかもしれないが、長門信があの事故への関与を完全に否定してきたことが引っ掛かっていてな……もし、あれにも彼が関わっていたなら、全ての問題の解決に王手をかけることができたんだが……やはり、引き続き調査を続けるしかなさそうだ。誰が関わっているのかすら分からない現状、慎重に進めるべきではあろうが……少なくとも、長門家の連中のように狂信的な一族が暴走した、という程度の問題ではなく、もっと大きな……」

 そう言うと、シグレはうむと考え込んでしまった。思えば冬莉が幼い頃から、話している途中にふと考え込んでしまうことがある父親だったように思う。

「パパ、ママ……わたしも、二人が真実を掴むお手伝いがしたいよ」

 冬莉の言葉に、父親ははっと顔を上げた。しかし、優しげな微笑みを浮かべ、首を横に振った。

「いや、冬莉は私たちの心配をしなくてもいいんだ」

「そんな……」

「悲しそうな顔をしないでくれ。気持ちは、とても嬉しいよ。だけど、これからのパパとママの一番の役目は、冬莉や千春を守ること……私たちが生きた証を受け継ぎ、未来を切り開いていく二人を悲しませないことなんだ。だから、冬莉が危ないことに自分から向かっていこうとしていたら、止めなきゃいけない。冬莉には、ただ幸せな生活を送ってほしいんだ」

「そっか…………」

 しゅんとしてしまった冬莉の肩に、ヒサメがやさしく手を添えた。

「私たちも、自分たちの力でここまでなんとかやって来られたの。だから、あんまり心配しないで。しばらくは、あなたには無邪気に笑っていてほしい……これも、親のエゴかもしれないけれど、ね」

「うん、分かった……!」

 冬莉は甘えるように母親の肩にもたれかかった。エイリスへの旅路は、まだ始まったばかりだ。


* * *


「あれから、一年か……」

 やや手狭な寮の自室のベッドに腰掛け、キツキは溜息をついた。アルバイトで流した汗をシャワーで流した後で、気分はさっぱりしている。

 冬莉がエイリスへと発ってから一年。彼女に会いに行きたい一心で、一年間必死にアルバイトをしてきた。学業との両立に悩むこともあったが、どうにか現地へ向かえるだけの資金を貯めることができた。

「観光で行くならもう少しお金を貯めた方がいいだろうけど……俺の目的は、冬莉との再会だけだからな」

 家族と一緒にいるとはいえ、慣れない異国の地で冬莉は寂しい思いをしているだろう。キツキはスマホでメッセージアプリを開き、冬莉とのやり取りを見返した。


〈冬莉? 元気にしてるか?〉

《はい、元気ですよ?》

〈ならよかった。寂しくない?〉

《寂しくなんかありません》

〈おう……〉

〈あのさ、今度ビデオ通話でもしない?〉

《そうですね……》

《時差の問題がなければ》


「————きっと、寂しい思いをして…………る、よな?」

 素っ気ないメッセージは照れ隠しなのだろう。そう自分に言い聞かせて、キツキは英司とのトーク画面を開き、メッセージを送った。


〈会長、お久しぶりです〉

〈具合はいかがでしょうか?〉


 キツキが所属し、冬莉もかつてその一人であった生徒会。その会長の英司は、叔父であった正寛の死のショックで長らく療養中だった。


《キツキくん。お久しぶりです》

《だいぶ、以前の感覚が戻りました。夏休み明けには復学できるかと》


 英司からの返信は案外早かった。キツキは、早速本題に入ることにした。


〈実は、今日は報告があって……〉

《報告ですか?》

〈はい。この夏、冬莉のところへ会いに行こうかと思っているんです〉

《なるほど、ようやくですね》

《きっと彼女も喜ぶでしょう、口ではそっけないかもしれませんが》


 流石に付き合いが長いだけあって、英司は冬莉の振る舞いを容易く言い当ててきた。

 

〈だといいんですが。不安になりますよ〉

《何を言ってるんですか、大丈夫ですよ》

《大丈夫》


 安心させるためだろうか、二度重ねられた「大丈夫」から、キツキは英司の人の良さを改めて感じた。


〈ありがとうございます〉

〈僕が帰国した頃、また一緒に屋上でご飯でも食べられたらと思います〉

《ぜひ、そうしましょう。楽しみにしていますよ》


 アルバイトをしながらもどうにか試験を乗り越え、キツキは無事高等部二年生に進級していた。一方の英司は一年間休学の措置を取っていたため、今ではキツキと同学年扱いだ。かつて冬莉の進級を危ぶみ、学年を合わせるために休学しようとしていたのが遠い昔の出来事のようだ。

「そういえば……」

 冬莉はエイリスに向かう時、契明学園を退学すると言っていた。事件を追っていた時は退学させられないよう学園長と張り合ったが、自分から申し出る時は案外あっさりしたものだったようだ。

「一応、学園長にも報告しておこうかな」

 厳しそうに見える学園長ではあるが、彼女も冬莉と縁がある人物だ。何か伝えるべきことがあれば聞いておきたい。

「おし、そしたら今日はもう寝るか」

 キツキはスマホを枕元に伏せ、眠りについた。


 翌日の放課後、キツキは学園長室に足を運んだ。

「失礼します、二年の桐生です」

「おや、久々に見る顔だねえ」

 立派なデスクの向こうの学園長は相変わらず綺麗に手入れされた銀髪をひとつに纏めて垂らしており、厳格な印象だ。しかし初めて会った時とは異なり、キツキはその表情から不器用な優しさを見出せるようになっていた。

「ご無沙汰していて申し訳ないです」

「ああ、いいんだよ。私も私で暇な訳ではないし、あんただってアルバイトで忙しかったんだろう? ……どうだい、あの子には会いに行けそうなのかい?」

 学園長にそう言われ、キツキは頬が熱くなってしまう。事情を知っているからとはいえ、改めて話題に出されると照れ臭い。

「はい、今日はその報告に来ました。この夏休みを使って、エイリスに行こうと思っています」

「そうかいそうかい、ようやくだねえ」

「お陰様でなんとか会いに行けます。夏休みとはいえ長い期間寮を空けることになるので、何か手続きが必要であればしてしまいますが……」

「その必要はないさ。あんたも彼女も、いつ戻ってきても構わない」

「ありがとうございます……って、今『彼女も』とおっしゃいましたか?」

「……ああ、そうさ。そうだな……あんたには説明しておこうかね」

 学園長は深く息をついてから、続ける。

「彼女——雨宮冬莉は、この学園を退学していない」

「ええっ⁉︎」

「あの子が提出した退学届を、休学届としこちらで受理したのさ」

「そんなこと……」

「もちろん本来は許されることではない、だが、退学した彼女が日本に戻ることになった場合、その立場はどうなる?」

「確かに……住む場所もなければ学歴も……」

「ああ、そういうことさ。エイリスの高校に入れれば話は別だが、彼女のような立場の生徒を受け入れられる学校はそう多くはないだろう? だから、とりあえずは休学の措置を取っている。彼女の曽祖父には本当に世話になった、だからせめてこれくらいはしてやろうとな」

「そうだったんですね……」

 冬莉のことだ、学園長が休学を勧めたところでそれを受け入れることはなかっただろう。だとすれば、かなり強引ではあるが学園長の選択は冬莉にとって最善だったといえるかもしれない。

「……今後どうするかも、冬莉に聞けたらいいと思っています。帰国したら、学園長にも報告させてください」

「そうかい、それはありがたいことだね。だが、一番は——」

 学園長は一度目をつぶり、いつもは見せないような微笑みを作った。

「あの子との時間を楽しんできなさい。若い二人なのだから」

「…………はい!」

 照れ臭かったが、キツキははっきりとそう答えた。


 夏休み前最後のアルバイトを終え、キツキは寮へと歩みを進めていた。夏場とはいえ夜八時を過ぎるとだいぶ辺りも暗くなっていて、学園へ向かう道にぽつぽつと立つ街灯の明かりが目に付く。エイリスへの旅費を稼ぐためにいくつか掛け持ちでバイトをしていたが、この日行ってきたコンビニのバイトは毎日のようにシフトに入っていたので店長からやけに気に入られてしまい、休職するだけなのに記念として大量の贈り物を受け取ってしまった。

「……って、ほとんど賞味期限が近いお菓子じゃねえか」

 レジ袋から飛び出したいくつかの菓子には数日後の数字が刻印されていて、キツキは思わずため息をついた。

「あら、うふふっ」

 キツキは耳を疑った。どこからか、女性の————正確に言えば、女性を真似た男性のような笑い声が聞こえたからだ。しかし、辺りを見回してもそれらしき人物はどこにもいない。

 気味の悪いこともあるものだと、キツキは足早に寮へと向かう。自分の足音がやけに大きく聞こえて、変な汗が吹き出てきた。

 学園の門付近まで着くと、そこに人影があった。

「あれは……?」

 夜の仕事をする女性のようなドレスを身に纏った出で立ちながら、肩幅はがっちりとしていて男性のようにも見える。そして、あろうことかキツキの方をじっと見てきている。

「え……え?」

 無論、このような格好を好む知人に心当たりなどはない。人違いだろうか? というより、そもそも学園のそばにこのような大人がうろついていること事態が異様なことこの上ない。

 通報……? いや、ひょっとしたらまずは自分の身を守らなければならないかもしれない。隣をすり抜けて敷地に入るか? もし、掴みかかられたら……

 そんな風にして逡巡しているうちに、男(?)はキツキの方へと歩みを進めてきた。

「わっ……え、ちょっと、こっち来ないでください!」

 後ずさろうとして、キツキは尻餅をついてしまった。もう、逃げられない。

「ちょっとアンタぁ、そんなに怯えることないじゃなぁい」

 不審者は覆い被さらんばかりに、動けなくなったキツキへ距離を詰めてくる。この話し方は間違いなく、さっき夜闇の中から聞こえてきた声と同じだ。つまり、つけられていたということで————

「や、やめてください! 僕、彼女ともまだ————」

「…………? ちょ、ちょっと! やだァ、そんなことしないわよ!」

 そう言うと、その不審者はキツキの手を取り、助け起こした。キツキは改めて相手をまじまじと見る。露出の多いドレスからは屈強そうな二の腕がにょきりと出ていて、少なくともフツーの人ではなさそうだ、とキツキは身構えてしまう。顔立ちも、綺麗に化粧はしているものの男性的な彫の深さが滲み出ている。ずっと微笑みを絶やさないのも少し不気味に見えた。

「桐生月彦クンね? アナタに話を聞きたくて来たのよ」

「な、なんで僕の名前……」

「アタシは大釜芸子おおかまげいこ。新宿でオカマバーをやってるの。雨宮誠二サンや一条正寛クン、アナタも知ってるでしょう? 二人は、アタシの古~いお客さんなの」

「な……」

 予想だにもしない名前が飛び出してきた。芸子はショルダーバッグからスマホを取り出し、バーの店内らしき場所でお酒を飲む誠二と正寛の写真を見せてきた。オカマバーのママとその二人が関わっていることには違和感しか覚えなかったが、見知った名前を出されたお陰で得体の知れなさは僅かに軽減された。キツキがはっきりと返事をする前に、芸子は続ける。

「ねェ……一年前、誠二サンの娘さんを手助けしてくれたのは、アンタなんでしょう?」

「そ、そうですけど……」

「そっかァ……アンタが、キツキくんなんだァ……」

 突然、感極まったかのように表情を歪める芸子。

「えっ……どうしたんです?」

「アンタがあの子たちを助けてくれた恩人なんだって思ったら、つい、ねェ? オカマのネットワークでなんとか探し出したのよォ? ホントに、助けてくれてありがとう。直接、お礼を言いたかったの」

 オカマバーのママが冬莉の父親たちにここまでの思い入れを抱いていること自体には疑問符しか浮かばなかったが、どうやら人情深い人らしい。しかし、キツキとしてはせめて初めて会う時くらいは刺激の強い格好は避けてほしい所だった。

「そうだったんですね。事情は分かりました」

「驚かせちゃってごめんねェ? ここ数日、ずっとアンタに会えないかってこの辺を見て回ってたんだけど……」

「え、その格好でですか」

「なぁに言ってんのよ、もちろんよ?」

 そういえばここ数日、HRで不審者情報がアナウンスされていたような気がする。

「…………あの、何というか」

 学園に来るならこういう格好は辞めた方がいい、と言いかけてキツキはやめた。ひょっとしたら何か信条があるのかもしれないし……

「何でもありません」

「あら、そぉ? ならいいけど」

 芸子は意にも介さない様子だ。

「ねぇ、アンタのことはなんて呼べばいいかしら? キツキちゃんなんてどぉ?」

「好きに呼んでもらって……」

「じゃあ、キツキちゃんね。ふふっ」

「うー…………」

 どうも調子の狂う人だ。キツキは頭が痛くなってきた。

「ねえキツキちゃん、今、誠二サンの娘さんたちがどうしているか分からないかしら……?」

「っ……それは…………」

 古い知り合いとはいえ、今の冬莉たちの状況をそう簡単に口にしていいものではないだろう。キツキは思わず口をつぐんだ。そんなキツキに、芸子は少し残念そうな表情を見せる。

「……そうよね、こんなよく知りもしない相手には話せない、わよね…………」

「すみません。今は学園には来ていないとだけはお伝え出来ますが、それ以上は……」

「大丈夫、大丈夫よ。いきなり申し訳ないわね。今日はもう帰るから……」

「あ、ちょっと」

 踵を返そうとした芸子を、キツキは呼び止めた。

「なぁに?」

「あの……雨宮さんと一条さんは、その、オカマバーに通われて……?」

 キツキの問いに、芸子は一瞬困ったような顔をしてから、さっきまでの笑顔に戻って答えた。

「あぁ、違うわよ。オカマバーを始める前に、小さな居酒屋をやっていたの。二人はそこの常連さん」

「な、なるほど……」

「あっ! もしかしてキツキちゃん、ひょっとしてこの世界に興味があるの? だったら、アタシが手取り足取り玉取り教えてあげるわよぉ?」

「いえ! 結構です! 今日はありがとうございました! では……!」

 玉を取られてしまってはたまったものではない。キツキは早足で学園の門をくぐり、寮へと急いだ。残された芸子の深い溜め息を、キツキが聞くことは無かった。


 * * *


 逃げるようにして芸子と別れ、キツキは自室へと戻った。冬莉が学園を離れて以来寮で人と会話することがほとんどなくなったキツキにとって、図らずも久しぶりにバタバタとした帰宅となってしまった。

 さくらが亡くなり、冬莉もエイリスへと発った今、孤独を感じないと言えば嘘になる。だがキツキは、さくらが遺したものを心の支えに、冬莉との再会を目指して必死に生活をしてきた。一年以上前に手にしたさくらのレシピノートも、今ではすっかり使い込まれてところどころ油の跳ねた跡もついている。

「さて、さっさと軽く飯でも食って————」

 と、ポケットに入れていたスマホが通知で震える。

「ん? この時間だと……冬莉か?」

 エイリスとの時差は八時間。向こうはまだ昼過ぎだ。ひょっとしたら、珍しくラブコールでも寄越したのかもしれない。キツキは頬を緩めてスマホを手に取った。

「……って、志成⁉」

 もっと珍しい人から連絡が来ていた。緩んでいた頬が妙に引き締まる。向坂志成こうさかゆきなり————キツキやさくらが小学生の頃近所に住んでいた、三歳年上の友人だ。キツキたちの入学と同時に陸上自衛隊の高等工科学校を卒業し、自衛官として働きだして今年で二年目になる。今は東北に住んでいる志成とキツキが最後に会ったのは、さくらの火葬の時。もう一年以上前のことだ。

 キツキはベッドに腰掛け、メッセージを開封した。

《突然悪いな。この前は、さくらの一周忌に参加できなくてすまなかった。ようやくまとまった休みが取れたから、今日、さくらの家にご挨拶に行ってきたよ》

《それで、明日なんだが、久しぶりに会わないか? 土曜は授業無かったよな》

〈お仕事お疲れさん。授業もないし、そういうことなら会おうぜ〉

《ありがとな。場所はいつぞやと同じ店でいいか?》

〈もちろん〉

《十一時半くらいには着くようにするから》

〈了解。楽しみにしてるよ〉

 志成からは、美少女キャラが両手で丸を作っているスタンプが返ってきた。オタクっぽいところは相変わらずなようだ。

「…………あれから一年か」

 久々の連絡を受け、キツキは思わず過去を振り返ってしまう。冬莉と出会ってからの四ヶ月は、今でも時折フラッシュバックするほど衝撃的なものだった。冬莉の抱える事情、さくらの死、怜凛の凶行と正寛の死————平凡な日々を送ってきたキツキにとってはあまりにも目まぐるしく、色々な意味で濃度が高すぎる経験。しかもそれは、たったひとつのきっかけから始まったひと繋ぎの事件だったのだ。

長門ながとしん……」

 怜凛の祖父であり、全ての事件の黒幕であった老人。普通の事件なら、逮捕から初公判に至るまで一年以上掛かることもあるが、彼の裁判は逮捕から九ヶ月という異例の短さで決着がつくこととなった。東北のある集落に住む人々がほぼ皆殺しにされた残忍極まりない事件は世間を大きく揺るがし、国や行政の対応も早急なものとなったのだ。


主文 被告人を死刑に処する。また、共犯である男十二人についても懲役十五年に処する

罪となるべき事実 宮城県栗原市花山の集落になたと拳銃を持って侵入し、大人十五人を殺害し四人を負傷させた

建造物侵入、殺人、殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反により、被告人は有罪であると認定した

弁護人らは、殺人、殺人未遂等の犯行の当時、被告は心神喪失もしくは心神耗弱の状態にあったと主張している

これらの動機について、被告人は、集落の人間から被差別的な扱いを受けていたことに憤り、被害者らを殺害する動機が十分にあったと考えられる

よって、弁護人らの心神喪失もしくは心神耗弱の状態であったという主張は棄却し、検察側の主張を全面的に認めるものとする


 長門信は、この判決に対して控訴をしなかった。つまり、死刑という量刑に納得したということ————というよりも、どのみち長くは生きられないことを悟り、余計な抵抗で消耗することを避けたのかもしれない。

 しかし、彼にどんな罰を与えたところで、さくらも正寛も決して帰ってこない。失われた時間は、決して戻ってくることは無いのだ。キツキは今でも時々、さくらと過ごした最後の夜のことを思い出してしまう。さくらに握られた左手に、彼女の体温が残っているような感覚を覚えることもあった。あの翌日、さくらが居ないことにもっと早く気が付いていればと自分を責めてしまう。無論、こんなことをしていても、現実が何も変わらないことは分かっているのだが…………

「…………飯にするか」

 キツキはベッドから勢いをつけて立ち上がり、キッチンへと向かった。


 * * *


《もう着いたぞ。窓際の席に座ってる》

 翌日、キツキが約束のファミレスに向かう途中に志成から連絡が入った。時刻はまだ十時五十五分。キツキは小走りでファミレスに向かった。

「おう、久しぶりだな」

「志成、待たせてすまん」

「いいんだよ。お前の顔見られると思ったら少し早く出過ぎてな」

 一年以上会わぬ間に、志成はいっそう大人っぽくなったように見えた。そんな志成が、うむと唸って口を開く。

「キツキ……こう言っていいものか分からないが、逞しくなったな」

「はは……そうかな」

 キツキは志成の向かいに腰掛けつつ、そう返した。

「ああ、本当に。俺は、お前に辛い思いをさせたくないと思っていたのに————」

「志成のせいじゃない」

「………………ああ」

 志成は、さくらが事件に巻き込まれる前、キツキたちに身の安全に気をつけるように忠告していた。彼が自衛隊での任務中に海外から受信した奇妙な電波が「撲殺」を示唆していたことを告白したのは、さくらの火葬の日だった。

 傍受した情報の漏洩は許されることではないが、目の前で危険に晒されている幼馴染を救えなかった後悔は、志成にも染みついてしまっているのだろう。

「昨日、さくらのお母さんに会ったんだよな?」

「会ってきた。まだ昔のようなはつらつさは戻ってはいなかったけれど、さくらの話をした時に少しだけ笑顔を見せてくれた。少しでも、悲しみが和らいでいくことを願うよ」

「そっか」

 キツキは軽くため息をついた。キツキも一周忌までは頻繁にさくらの家を訪れていたが、それも負担になるだろうと最近は訪問を控えていて、様子が分かっていなかったのだ。

「キツキも何か注文しろよ。奢ってやるから」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 テーブルに備え付けられたタブレット端末から、ハンバーグセットを注文した。

「なあ、キツキ? こんなことを聞くのも何だが、あの学園にいて辛くなったりしないのか? 周りであんなことがあって……」

「ん? ああ、そうだな……」

 言われてみるまで、あの学園を離れることなど考えもしなかった。キツキは少しの間、腕を組んで自分の思いを言葉にしていった。

「去年出会った女の子……冬莉がヨーロッパに行ったって話は、前にしたよな?」

「うん、覚えてるよ」

「もし冬莉が日本に戻ってくることになったら、彼女の居場所は契明学園だけなんだ。彼女の両親は、日本には戻ってこられない。弟の千春くんだって、頼りにできる訳じゃない。だから、学園とあの寮だけが今の彼女が帰ってこられる場所なんだ。そこで彼女を迎えてあげられるのは、俺しかいない」

「なるほど、な……」

 志成は神妙そうな眼付きで、目頭を押さえた。しかし、口元はどこか笑うのを堪えているようにも見える。

「なんだよ、その顔」

「いや、なんか……申し訳ないけど、惚気をさせてしまったかなと」

「は⁉ なんだよ俺が真面目に話したっていうのに……」

「ごめんごめん、バカにしてる訳じゃないよ。なんか大人になったなって」

「んだよー、ちゃんと話して損した」

「ごめんって」

 志成は両手を合わせて拝むようにして謝罪の意を示した。

「……ったく。まあ、この一年はこっちも冬莉の方もそんなに困ったことがなかったからよかった。このまま、何も面倒なことが起こらないで終わればいいけど……」

「終わり、か……」

「うん? どうかした?」

 志成は一度視線を窓の外に逃がし、そしてキツキの方へ向き直った。

「いや、確かに去年、あの老人とその取り巻きは逮捕された。けど、俺としてはまだ気になることがあってな……」

「気になること?」

「ほら、さくらの葬儀の時にお前に言っただろ? 海外から、お前たちのことを特定するような電波を受信したって。今となってはあれが事件の予兆だったのだろうが……なぜ、わざわざ海外からあの電波が送信されたんだ? 首謀者の長門信は、生粋の日本人だろう?」

「確かに、言われてみれば違和感がある」

「それにもう一つ。長門信は親族の立場を利用して協力者に洗脳を施した上で、多額の報酬をちらつかせることで事件を実行に移させたと報道されたが……かつて雨宮家の支援を必要とするほど落ちぶれた彼に、たった数十年でそこまでの……十人以上の人間に、極めて重い罪を犯す覚悟を促すまでの報酬を用意できたと思えるか?」

「うーん…………」

「まだ謎は残されている。だから、用心してほしい。俺だって本当はこれ以上お前を————」

 志成は、俯いて声を詰まらせた。

「……志成、ごめん」

「っ……そうじゃなくて……」

「うん……」

「……大切にしたい人に、出会ったんだもんな」

 志成はキツキの方を見て、確かめるように首を傾げた。キツキは、志成の目をしっかりと見て、深く頷いた。

「なら、彼女を全力で守ってやれ。お前しかいない、そうなんだろ?」

「もちろんだ。必ずまた側にいられるようにするって、決めてるんだ。だから……まずは、約束通り、会いに行きたいと思ってる。この夏、彼女のいる国へ行くことにしたんだ」

「そうか。やっぱり、覚悟決まってるんだな。キツキのその想い……俺も、応援するよ」

 志成はそう言うとキツキにニカッと笑ってみせた。


 * * *


 志成と別れたキツキは、駅前のベンチで一息ついていた。

 そういえば、去年の春さくらと一緒に冬莉の過去について話を聞いたのも、このベンチだった。ゲームなんかの話もして、くだらないといえばくだらないが、今思えば幸せな時間だった。あの頃は、これから三人で楽しい学校生活を送れるんじゃないか、なんて考えていたが、今やキツキはすっかり寂しい日々を送ることになってしまった。

「クラスの人たちもよくしてくれるけど、毎日バイト漬けで遊びに行ったりもしないからな……」

 寂しいときがあってもやはり、キツキにとっての最重要事項は冬莉と再会することだった。

 冬莉が今どこで何をしているのか、今のキツキには想像することしかできない。もちろん、毎日のようにメッセージのやり取りはしているし、何か変わったことがあれば、些細なことでも報告し合っている。だが、一年前、毎日のように一緒にいた時に比べると、その距離は遠ざかってしまったようにも感じられる。

「ねえ、ママ! 今日のおやつなに?」

「ふふ、まだお昼食べたばっかりじゃない。今日のおやつはドーナツよ」

「やったあ!」

 小さな子どもの手を引いた母親が、少し先の道を通り過ぎて行った。六歳くらいの子だろうか。冬莉が家族と離れ離れになったのも、ちょうどこのくらいの時期だったのだ。

 本当だったら彼女も、家族と共にこんな他愛ない日常を送れたのかもしれない。今、再び家族との時間を取り戻した彼女だが、過ぎた時を戻すことは決してできない。自分が当たり前のように享受してきた家族の時間に思わず思いを馳せる。そういえば、まだ両親にエイリス行きを報告していなかったな……

「あらぁ、キツキちゃんじゃなぁい!」

 視界の外から、野太く甘ったるい声がした。この声は……

「お、オーカマさん」

 今日の彼女(?)は先日と異なり、パンツスタイルだった。花柄のシャツにはさりげなくフリルがあしらわれており相変わらず女性的な出立ちだが、逞しい脚や腕が強調されていない分キツキとしてはほっとした。

「学校帰り? 今日はお休みじゃないの?」

「いえ、今日は昔からの友人に会いに来たんです」

「あらぁ〜いいじゃない! 今、帰りかしら?」

「そうですけど……」

「だったら、ちょっと付き合ってくれない? ちょうど、話したいことがあったのよ。この前は立ち話だったからできなかったけど、もっと深ぁ〜いハ・ナ・シ」

「あ、えっと……」

 このなりの人に「深いハナシ」などと言われると少し身構えてしまう。

「もちろん奢るから、ね?」

「そういうことじゃ……でも、お話があるなら、分かりました」

「ありがとね。人目が少なくていい喫茶店があるから、着いてきてちょうだい」

 芸子の後に着いて行く道中、キツキは彼女の足取りがやけにきびきびしているような気がした。やはりオカマの人というのは、昼間の街を歩く時には人目を気にしてしまうものなのだろうか。

 五分ほど歩いた先に、目的の喫茶店はあった。少し込み入った路地裏にあり、確かに人は少ない。席に通されたものの、静かな雰囲気になんとなく圧倒され、キツキは無言で手元のメニューを眺めることしかできなかった。

 しばらくすると、品の良い感じのウェイターが注文を取りに来た。

「私はラテで。キツキちゃんは?」

「僕は……」

 ぱっと見で一番安いドリンクでも八百円以上する。奢ってくれると言われたとはいえ、高校生にとってはなかなか選びにくいメニューだ。

「んもう……そうしたら、この子にはクリームソーダで」

「かしこまりました」

 軽く一礼し、ウェイターは下がっていった。

「キツキちゃん、緊張しちゃってる?」

 芸子はそう言ってキツキの顔を覗き込むように見てきた。こうして改めて見ると、ひょっとして並の女性より綺麗……なんてことは今はどうでもよくて。

 キツキは昨晩芸子と会った後、冬莉に連絡を入れていた。芸子と誠二が本当にかつて知人であったのかを確認するためである。誠二に話を聞いた冬莉からは、こんな返事が返ってきた。

《詳しくは言いにくいが、大切な知人だから、丁重に扱ってほしい……だそうです》

 事情はよく分からないが、知人を名乗っているだけの不審者ではないようだった。しかし、詳しくは言いにくいとは……やはり、ただの居酒屋の客ではなかったのかもしれないと、キツキは勘ぐってしまった。

「……静かなお店ですね」

「まぁね。ほら、アタシってこんななりだから、フツーのお店に行くとジロジロ見られてたまったものじゃないのよ。キツキちゃんとは大事なお話がしたかったから、ここにね」

「それでですか……で、そのお話っていうのは?」

「ん、じゃあまずは、アタシがアンタに会いに来た理由からちゃんと話すわね」

 芸子はそう言うと、軽く唇を結んでから、続けた。

「アタシがアンタにコンタクトを取ろうと思った最初のきっかけは、例の事件——あの集落での集団殺人が報道されてたこと。被害者として正寛クンの名前が上がっていたのを見て……アタシは戦慄したわ。だって、あんなに強くて逞しい正寛クンが、ねぇ? それで、この事件に関わった人とどうにか繋がれないか頑張ったのよ。そしたら、雨宮サンやその娘さんまで巻き込まれてたんだって分かって、居ても立っても居られなくなって……そんなこんなで、最終的に接触できそうだったコが、アンタだけだったってワケ」

「そうだったんですね……」

 無理もない話だった。あの事件の関係者のほとんどは、亡くなってしまうか、国外に行ってしまったのだから。その中からキツキだけでも探し出してきたことに、彼女の執念の深さを感じる。

「それでね、話っていうのは、アンタについてもう少し知りたいなってこと。キツキちゃんって、元々は誠二サンたちとまったく関わりがなかったんでしょう? どうして、一緒に行動してたの? 話せることだけでいいから、教えてくれないかな?」

「それは……」

 丁重に扱うように、と言われた相手だ。キツキは芸子に、冬莉との出会いや、その後の出来事について一通り打ち明けた。芸子は時に驚いて口元に手を遣ったり、目を覆うような仕草をしながら、最後までキツキの話に耳を傾けていた。

「……そっか、アンタはそもそも、寂しそうにしてた冬莉ちゃんとお友達になろうとしただけだったのね」

「はい。それがいつの間にかあんなことになって——後悔はしていませんが、驚いてはいます」

「そりゃそうよ、アタシも……アタシは、今となっては無関係な……アンタの話とニュースを聞いただけの立場だけど、こんな話————」

 芸子がそう言って初めて、キツキは自分が彼女と深い関わりを持っていた人物の死について事細かに語ってしまったことに気付いた。

「ああっ……ごめんなさい。親しかった正寛さんの最期を、こんな風にお伝えすることになってしまって」

「いいの、いいのよそれは。そんなことより、アンタが心を壊してしまったんじゃないかって。大切な存在を失った時、人間は深く深く傷ついてしまうものよ」

 芸子はそう言うと、キツキの目を真っ直ぐに覗いてきた。

「それは時に、自らの在り方を大きく変えてしまうほどに、ね」

 迫力がある視線だった。濃いアイメイクの効果などではない、深い所に強い力をたたえた瞳だった。しかし、芸子はすぐにまたいつも通りの微笑みを浮かべた。

「だからぁ、もし癒してほしければ、いつでも待ってるわよ?」

「ひっ」

 調子の狂う人だ。敵意を感じさせない分、どう接していいのか分からなくなる。

「んもう、そんなにあからさまに拒否することもないじゃない。でも、そおねぇ……キツキちゃんにとって癒しよりも必要なコトがあるなら、もちろんお手伝いするわ。どこまで役に立てるか分からないけど……オカマのネットワークのスゴさは、アンタも知ってるはずでしょ? だから、何か困ったことがあったら相談してほしいわ」

 確かに、ニュースの情報からキツキまで辿り着くほど強固な情報網なら、味方につけておいて損はないかもしれない。まあ、冬莉が家族と再会できた今、新たに得たい情報も特段思い付きはしないが。

「そういうことなら、お言葉に甘えて」

「……ありがとね。じゃあ、これがアタシの連絡先だから——」

 手早くメッセージアプリの画面を見せてくる芸子。名前は「おおかま」と表示されている。

「あれ、大釜芸子って本名だったんですか?」

 てっきり、バーだけで使っている源氏名のようなものだと思っていた。しかし、芸子は立てた人差し指を自分の唇に当て、

「それはヒミツ」

 と答えた。確かによく考えてみれば、これも客向けに用意したアカウントかもしれないし——謎は深まるばかりだが、ともあれ人生における強力な協力者を得ることができたように思える。芸子の連絡先が登録されたのを確認して、キツキはスマホをポケットに滑り込ませた。

「今日はありがとう。ホッとしたわ、キツキちゃんが本当に、単なる純朴な青年ってことが分かって」

「は、はあ……」

「そんなキツキちゃんにアタシからワンポイント・アドバイス。身の回りには、気をつけなさいね」

 キツキたち二人の周りの空気が、ぴりりと緊張した。

「アンタたちは事件の被害者。ほとんどの人は同情してくれてるはずだし、それが自然ではあるわ。でもね、情報の意味は、受け取る側の解釈によってどうとでもねじ曲げられてしまうの。ひねくれた人間や、『彼ら』の肩を持つ人間からしたら……アンタは邪魔な存在かもしれない。アンタが関わった事件は、全国ニュースで取り上げられた。実名報道はされなかったけど、調べようと思えばアンタたちの情報に辿り着くこともできてしまう……実際、アタシもそうやってアンタに会いに来たんだから。だから、十二分に警戒しなさい。こんな怪しいなりのアタシが言うのも変な話だけどね」

「そうですね……」

「まあ、気負いし過ぎてもつらくなってしまうだろうから、心に停めてくれる程度で構わないわ。もし何か起こったとしても——」

 芸子はそこまで言って、一度言葉を切った。

「ともあれ、今日は時間を取ってくれてありがとね。誠二サンたちがいまどうしているのか、知ることができてよかったわ」

「いえ、どういたしまして。また何かあれば連絡しますね」

 その後しばらく飲み物を楽しみ、席を後にした。会計まで変にスマートに済ます芸子の姿に、ただ者でなさを感じてしまうキツキであった。


 大釜と別れ寮に戻ったキツキは、これからの予定を整理することにした。

「よし。お金も貯まったし飛行機のチケットを買って、週明けには学園長に挨拶……来週あたりに、エイリスに行ければいいけど」

 スマホを日本からエイリスへの直行便を調べる。

「に、にじゅういちまん……しかも片道……」

 ヨーロッパのごく小さな島国に向かう飛行機は少なく、価格も決して安くはない。その上、以前に見積もった時よりも値上がりしているような気もする。

「航空券って結構あっさり値段変わったりするんだな……多めに稼いでおいてよかった」

 予約する便を選択するページへと移動すると、カレンダーのような一覧が表示された。表示されている便はどれも空席ありと表示されているが——

「月に一便⁉」

 日本とエイリスを結ぶ便はおおよそ月に往復一本しか存在しないようだった。

「狭い国だし観光で有名というわけでもないから、あまり出ていないのかな……」

 一週間くらいで帰ってくるつもりだったが、この様子だとそうもいかなさそうだ。

「…………よし」

 キツキは直近のエイリス行きの便を予約した。往路のみの片道だ。 

 週明けの仕事が少し増えたが、キツキの決心は固かった。


 週が明けて月曜日。キツキは、職員室へと顔を出した。夏休みに入った学園の職員室は人気も少なく、遠くのデスクに掛ける教員に声をかけるのに大声を出さなければならなかった。

「すみませーん!」

 キツキの声に気付き、あまり見慣れない男性教員がこちらに目を向けた。中等部の教員だろうか。

「はいはい。ああ……例の君か」

 キツキの顔を見て教員は少々居心地の悪そうな顔になった。あの事件以降、キツキと近い立場にいない人間の反応は大抵このようなものだ。何か大きな事件に巻き込まれた可哀想な生徒————周囲の人々の隠しきれないそんな態度が、キツキが人間関係を構築する妨げになっている側面が少なからずあった。

「二年の桐生月彦です。休学届をください」

 帰国する飛行機が月に一度しか飛ばないという事実を知り、キツキはしばらくの間エイリスに留まることを決意した。もちろん、一日でも長く冬莉と一緒にいたいという気持ちがあったからというのも事実だが、なんだかすぐには帰ってこられないような、ちょっとした予感がよぎったのである。もし夏休み中に帰国できればそのまま復学すればよいし、

「また休学かい?」

 訝しげな表情を見せる教員。面倒ごとだと思い込んでいるようだった。キツキはいい気持ちがしなかったが、軽く息をついて続ける。

「はい。外国に行ったクラスメイトに会いに行くんです」

「外国……ああ、あの子か。しかし休学だなんて大げさな」

「……日本からの飛行機が月に一度しか出ない国なんです。帰国便もそうです。それに、何度も行き来できるほど安い便も出ていなくて。大事な子だから、できるだけそばにいてあげたくて。だから、すぐに帰国できない可能性も考えて休学の手続きを」

「そうだったのか…………それで、いつも必死でアルバイトを?」

「え? どうしてそれを先生が?」

 ほとんど会話もしたことがない教員が、そんなことまで知っているのにキツキは驚いた。

「ああ、実を言うと君が頻繁に学園の敷地外に出かけるということが前に教員の間で話題に上がっていてな。ほら、あんなことがあったから色々と心配で……ほら、君の担任から前に確認が行っただろう?」

「…………? ああ、そういえばそうでした」

 二年に進級した時、新しい担任に朝や放課後何をしているのか聞かれたことを思い出す。あの時は何も考えずアルバイトだと答えていたが、実際は教員たちに目を付けられていたのか。

「なんか、変に疑うようで悪かったと思うよ。そんな理由であんなに頑張っていたんだな」

「別に気にしてませんよ」

「………………誤解していたな、君のこと」

 独り言のようにそう言って、教員は棚のファイルから休学届を取り出した。

「そこの机で書いてから学園長の所に持っていくといい。ペンは先生のを貸すから使って。その……急かすようなつもりは無いが、いつかこの学園に戻ってきてくれたら嬉しいよ」 

 どこか申し訳なさそうな様子で教員はそう言った。

「もちろん。僕はここが好きですから、必ず戻ってきますよ」

「ありがとう」

 キツキが休学届を書き終わるまで、教員は傍の空席のデスクに腰かけてそれとなく彼を見守っていた。


 職員室を後にし、学園長室へ向かう。通りがかりに生徒会室の仰々しい扉があった。会長が療養で学校に来なくなり、冬莉も学園を去ってしまったから、もはやこの生徒会室に立ち入ることもなくなってしまった。元々形骸化した組織だったとはいえ、皆で過ごした時間を思い返すと切なくなってしまう。本当に、色々なことが変わってしまった。そんな憂鬱な気分をなんとか振り払い、キツキは学園長室の扉を叩いた。

「はい」

「二年の桐生です」

「ああ、どうぞ」

 学園長は相変わらずキリッとした出で立ちだ。結構年もいっているはずなのにどこか若々しい。トレードマークのくくられた銀髪が、窓越しの昼の日差しにきらめいている。

「どうしたんだい、この前話しに来たばかりじゃないか」

「それが……実は、休学届を提出しに来て」

「休学? 何かあったのかい?」

「いえ、エイリスに行くのに、帰ってくる日の目途が立たないので……」

「なるほど……確かに考えてみれば、あの国へ行ったり来たりするのは結構な労力がかかるしねえ……それに、あの子と会ったら学園のことなんてどうでもよくなっちゃうかもしれないしね」

 かっかっか、と笑う学園長。

「反応に困るコメントはやめてくださいよ」

「なあに、冗談じゃないか。戻ってきてくれるんだろ? あの子と一緒に」

「まあ、それができれば…………」

「待っているよ」

 真面目な顔に戻った学園長はそう言って口角を上げた。この頃の学園長は、冬莉のことになるといつもの厳しそうな様子がすっかり消えてしまうようになった。

 休学届を手渡すと、学園長はすぐに判を押してくれた。帰る前に、キツキはひとつ学園長に聞いてみることにした。

「あの、学園長……貴方にとって、冬莉——雨宮冬莉は、どんな存在なのですか? いくら昔彼女の曾祖父と関わりがあったからといって、ここまで————」

「ふむ………………」

 思いがけない問いだったのだろう。ひょっとしたら、ある意味贔屓とも取れるような行動をしていることを、本人すら自覚していなかったのかもしれない。

「あの子が私にとってどんな存在か、か。確かにあんたから見たら、私が雨宮冬莉のことをずいぶん特別扱いしているようにも見えるかもしれないな」

「はい、何か特別な理由があるように思えてなりません」

「なるほど……では少し、昔話を聞いてもらおうか。私が彼女を贔屓しているというのなら、きっと理由はそこにある」

 学園長はそう言うと、壁に掛けられた田園の絵画——故郷を描いた絵画を見つめ、話し始めた。


「あれは五十年ほど前のことだ。あの頃まだ私は中学生……ピッチピチの女の子だった。当時の日本は今のように落ち着いた国ではなかった。全国各地でデモや暴動が盛んに起こっていたのさ。それは、私が住んでいた田舎も例外ではなく、物好きな大学生たちが日本に革命を起こそうとしていた。学生風情が片田舎でわめき散らかしたところで理想が実現できるわけも無かろうに……でも、当時はそれが正義だと言われるような時代だった。みんなでデモを起こせば、日本を変えられると誰もが信じ込んでいた。まだ中学生だった私には大学生も大人も変わらない、ただただ恐ろしく見えたよ。

 そんな中、私の兄がデモに参加するようになった。兄とは年が離れていて、当時はもう大学生だった。尊敬できる人だったのに——これは日本を変える革命なんだと言っては警察官に手を上げたり火炎瓶を投げて回ったり……いつも怒鳴り散らしているような野蛮な人になってしまった。私も、そんな彼のことがすっかり嫌いになってしまったよ。

 ある日、たまたま家にいた彼に聞いたんだ。兄ちゃんが参加しているデモ活動は、なんの理由があってやっているのかって。そうしたら彼は、日本を変えるんだ、俺たちが住みやすいような地上の楽園を作るんだって……私は困惑したよ。そんなぼんやりとした目標に向かって、血眼になって迷惑行為を働いてるんだって……呆れたと言っても過言ではないな。日本は外国に主導権を握られただの、ベトナム戦争がどうだの色々と言っていたけど、当時の私には何を言っているのかさっぱりだったよ。兄さん本人だって、実はよく分かっていなかったんじゃないかねえ……ともあれ、一般社会の感覚からかけ離れたあの人の考えを支持する気には到底なれなかったね。

 そんな兄は大学を卒業した後、自由を求めて海外へ渡ってしまった。どこの国へ行ったのかすら分からない……完全に自分本位で動くようになってしまったあの人は、家族の誰にも詳しい話をせずに日本を発った。考え方の合わない兄が遠くに行ってしまい、寂しさよりも安心が勝ってしまったのが正直なところだが……あの人が居なくなった直後、私が学校から家に帰る途中……数人の若い男に囲まれて、一方的に暴力を振られた。体中を殴られたり蹴られたり……幸い命は助かったが、数日の間入院せざるを得なくなった。おそらくだが、最後まで反発していた私を疎んだ兄さんの差し金だろう。彼と共に活動していた人間も、そこに混ざっていたような気がする」

「お兄さんが……? 実の妹なのに?」

「ああ。あんな状態だったんだ、自分と主張が合わない人間には片っ端から危害を加えていたのだろう。しかし、妹に自分で手を下さないあたりが意気地がないというか思い切りがないというか……そこまで含めて、悲しいというより情けなかった。完全に狂っていたんだね、あの時の兄さんは。

 そんなわけで私は入院して治療を受けることになったんだがね……決して裕福な家庭ではなかったから、数日もしないうちに私の医療費を捻出するのが難しくなってきた。だが私の体は一向に回復の兆しを見せず……そんな時に救いの手を差し伸べてくれたのが、雨宮先生……雨宮茂、あの子のひいじいさんさ」

「………………!」

「雨宮先生は、私が新薬の被験者になることを条件に、無償で治療を続けることを提案してきた。新薬とはいっても、動物実験を全てパスした上、ある程度の治験を通ってきたもの……実用化直前の、安全性が確かめられたものだった。願ってもない申し出に、私の両親は二つ返事でこれを承諾した。この薬のおかげで、私の体もみるみるうちに回復したんだ。本当にありがたい話だったし、ひょっとしたら……ここから先は私の想像に過ぎないが、本来はあの薬にはもう被験者など必要なかったのに、雨宮先生が貧しい私たち一家に便宜を図ってくれたのではないかと、私は思っている」

「そうだったんですね……」

「だから、雨宮先生は単に尊敬できる存在である以上に、私の命の恩人でもあるんだ。あまり学園での仕事に私情は持ち込みたくないが、彼女の曽祖父に命を救われたという事実は私の行動に多かれ少なかれ影響を与えているのやもしれないな。私に未来をくれた雨宮先生への恩返しとして、あの子にも、なるべく素晴らしい未来を見せてあげたい……やれやれ、まさかあんたに言われて初めて自覚するなんてね」

 学園長はそう言うと、ふっと笑った。

「学園長……どうしてその話を、冬莉にしなかったんです?」

「ん? そうだな……あの子にとっちゃあ、私の悲惨な過去なんてどうでも良いだろう? こんな老人の昔話より、雨宮茂という人の素晴らしい功績を伝えるべきだって思ったんだよ」

「そうだったんですね……」

「うむ。ああ、そうだ。あんな兄だったが、私もひとつだけ尊敬しているところがある。それは、信念を貫くために自分の人生を捧げたこと……これはそう簡単なことではない。だから、あんたらにもそんな意気込みで生きてほしい。ちょっとしたことでは揺らがない信念を持ち、それを貫く生き方をしてほしい」

「信念、ですか」

 キツキの脳裏に、冬莉の両親の姿が浮かんだ。今のキツキにはまだ、強い信念として掲げるものは無い。しかし、いつか彼らのように——愛娘との再会のために十年間も奮闘し続けた彼らのように、最後まで信念を貫ける人間になりたいとキツキは思った。

「色々お話してくださり、ありがとうございます」

「ああ、こちらこそ。老人の昔話を聞いてくれてありがとう。彼女にも、よろしく伝えてくれ」

「はい! では、僕はこの辺で——」

「桐生月彦くん。もうひとつだけ、良いかい?」

 部屋を後にしようとしたキツキを、学園長が引き留めた。

「……? なんでしょうか」

「兄のことで……実は、後悔しているんだ。兄がああなった理由を、私は最後まで知ることができなかった——いや、知ろうとすらしなかった。もし、あの時彼がなぜ革命を目指すことにしたのかしつこく問うていれば、離ればなれにならずに済んだかもしれない」

「理由、ですか」

「ああ、この歳になって改めて思う……物事には、必ず理由があるのだと。それを無視して反発したり目を逸らしたり、まして暴走して他人に危害を加えたりしては、善き未来を切り開くことなんてできない。だから、あんたたち若い人たちには、物事の理由を——本質を見失わないでほしい。表層だけを見て行動することは、しないでほしい」

「…………はい、肝に銘じます」

「すまないな、説教くさくなった」

「いいんです。つい見失いそうになるものでしょうから、何度でもかえりみるべきことです」

「そう言ってくれて嬉しいよ。さあ、そうしたら行っておいで。いつか土産話を聞かせてくれたら、私は嬉しい」

「もちろんです。学園長も、どうかお元気で」

 キツキは学園長室を後にした。あとは出立に向け、支度を進めるだけだ。


 * * *


 冬莉がエイリスに来てから、一年が経った。

 夕方、海の見える岸辺に立ち、冬莉はキツキと別れた最後の日を思い返す。あの日は、この上ないほどに辛かった。初めて互いを好きだという気持ちが通じ合ったそばから、離れ離れにならなければならなかったのだから。

「キツキくん……」

 本当に、この選択は正しかったのだろうか。家族と過ごす時間はもちろん幸せだが、彼の心情を思うと複雑な気持ちだ。

 いや、本当は分かっている。寂しいのは自分の方だ。家族と彼、どちらも選ぶことはできなかったとはいえ——大好きな恋人を置いて慣れない土地で暮らしていて、孤独を感じないわけがなかった。キツキ自身にこんなところを見せるのは恥ずかしくて、連絡する時はいつもそっけない態度になってしまうが……

 冬莉は、キラキラと輝く水面に目を向けた。エイリスに来てからというものの、寂しい時やつらい時は、いつもこの岸辺に来ていた。眼前に広がる海の先に、キツキと想いを通じ合わせたあの浜辺があるのだ。そう思うと、寂しさはいつの間にか消えてゆき、心を強く持つことができる。

「冬莉」

 今や聞き慣れた低い声がして、冬莉は振り返る。父親——シグレが様子を見に来たのだ。

「パパ」

「またここにいたのか。よっぽどこの景色が好きなんだな」

 シグレは冬莉の隣に立ち、気持ちよさそうに伸びをした。日本で再会した頃に比べるとずっと生き生きとしていて、我が父ながら若々しくてカッコいいと、冬莉は思った。

「……それとも、こうして海を見ながら、日本にいるキツキくんに思いを馳せてるのかな」

「や、やめてよ」

「ははは、ごめんごめん。しかし、よかったのか? 彼が早く会いに来られるように、こちらから資金的な援助もできたんだぞ」

「……きっとキツキくんは、そう言っても受け取ろうとしないよ。自分でバイトして稼いだお金で会いに行くって、そう言ってたから。会いに行くなら自分の力でって、そういう人なの」

「ふうん」

 シグレの微笑ましげな表情に、冬莉は自分がキツキのことを必要以上に熱を持って語ってしまったことに気づき、照れ臭くなって片頬をぷくりと膨らませた。

 約束通りキツキが会いに来てくれたとして、それ自体はこの上なく嬉しいことだが、彼をずっとエイリスに留めておく訳にもいかない。

 エイリスに来た一番の目的である千春の回復の方はというと、あまり進んでいなかった。そもそも、千春の身分を証明するものを作るのに難航している。無理もないことだが、これが済まないことには医療行為も何もできない。

「ねえパパ、千春が治ったら、あの子は日本に帰すの?」

「ううむ……今のところは、そうしたい気持ちが大きいが……まだ治療も始まっていない段階だ、決めることはできない。本人の意向も聞くことができないしな」

「そうだよね……」

「そもそもあの子については、まだ身分も正式に認定されていない。現時点で治療も始められていないのだから、長い道のりになることは間違いないだろう。だから、もしキツキくんがこの国にやって来ても、すぐには一緒に日本に帰すことはできないかもしれない……」

「平気だよ。大丈夫」

 冬莉ははっきりと言い切った。

「キツキくんは離れててもわたしのことを大切にしてくれてるから。だから、わたしたちは大丈夫。今は、パパやママと一緒に千春を見守りたい」

「冬莉……」

 愛娘の恋人。そんな存在に対する感情は、もっと複雑で嫌悪にも近いものになるのだとシグレは想像していた。しかし、キツキに対しては不思議とそんな気持ちにはならなかった。

「彼と、信頼し合っているんだな」

「そ、そうだよ。もう……改めて言われたら、なんか恥ずかしいよ」

 冬莉は、照れてそっぽを向いた。頬が夕日に赤く照らされている。

 しばし二人でさざなみを聴いた後、冬莉が辺りを見まわし、再び口を開いた。

「ねえパパ……誰もいないよね?」

「ああ、私と冬莉だけだよ」

「よかった。あのね……十一年前の事故の時、操縦が効かなくなったって言ってたよね。あれは、誰かが起こした人為的なものではなかったの?」

 いつかは娘の口から問われると思っていた、そんな問いだった。シグレは少しの間、東の海を見つめていた。

「……正直な話をしようか」

 シグレは、冬莉の目をしっかりと見つめた。

「あれが自然故障による不具合だったとは、私には思えない。航空自衛隊は、日本を守るための大切な存在。当然、配備される航空機は専属のメカニックが日々責任を持って入念に検査と点検を行っている。少しでも不具合の予兆があれば、少なくとも何かしらの記録が残されるはずだ。だから、あの日のように突然制御不能に陥るまでの故障が発生するとは考えにくい」


 殺人鬼と罵られていた頃には、決して口にすることができなかった自らの考え。それを、当時はまだ幼かった娘に直接伝えたのだ。時の流れの速さと、大きく変化した生活に、シグレは思わず思いを馳せる。

「……そっか、そうだよね。安心したよ」

「安心?」

「ずっと、ずっと信じられなかったし、信じたくなかった。パパや、パパと一緒に仕事をしてた自衛隊の人たちが、人の命を奪うような間違いを犯したなんて。でもパパは反論しなかった。それでそのまま、わたしの前からいなくなっちゃった……」

「冬莉……」

「でも、今パパの本当の考えが聞けて、ほっとしたの。パパも、自衛隊の人たちも、さ……殺人鬼なんかじゃないよね!」

 シグレは、声を震わせる冬莉をやさしく抱きしめた。

「ごめんな、冬莉。あの時は、何も言えなかった。余計な敵を作るかもしれないと、そうなれば冬莉たちにも危険が降りかかると、そう思っていたんだ。それが、こんな風に不安にさせて……ごめん、ごめんよ……」

「だ、大丈夫だよ! パパ、恥ずかしいから……」

 そう言いつつも、冬莉も父親を抱き返していた。夕風が二人を優しく撫でていった。

「ねえ、パパ」

 少し恥ずかしそうにしながら父親から離れ、冬莉はまた口を開いた。

「あの事故の責任を問われたことについて……どう思ってる? 本当は、納得してないんじゃないの? ずっと、パパの本心が聞きたかった」

 真剣な眼差しだった。冬莉は、すっかり立派な少女へと成長していた。

「…………操縦していた私には、確かに責任がある。だが、あの事故には何か、私に直接関わらないような大きな背景があるのではないかと、そんな気がしてならない」

「やっぱり……」

「ただな、冬莉。それでも私はあの時、納得して責任を負い、謝罪をした。有事の際に言い訳をせずに罰を受け入れること……それもまた、私のような人間の責務だ。あの事故の被害者やその遺族の苦しみは、長門の一族が抱いていたような勘違いや逆恨みではなく、間違いなく実際に私が起こした事故によるものなんだ。その責任の重さから逃げることは許されない」

 冬莉は、返事の代わりに俯いた。

「……パパの名誉は、もう二度と戻らないの?」

「そうだな……仮に、あの事故が第三者によって引き起こされたことが証明されれば……例えば、誰かが故意に機器系統を損傷させたといったようなことが証明できれば、マスコミや世間も私に関する認識を改めてくれるかもしれない。とはいえ、そんな証拠を十年以上経った今、探し出すことができるとは考えにくい。衝突後は、旅客機側もこちらの自衛隊機も大破して原型が残らなかったからな……」

「そっか……」

 しゅんとした冬莉の頭を、シグレはぽんぽんと撫でた。

「私の——雨宮誠二の名誉なんてどうでもいいんだよ。冬莉と千春が一人前の大人として旅立ってくれれば、私たち親はそれでいい。再び表舞台に出られなくても、一向に構わない。私たちの役目は、二人を立派に育て上げ、未来を託すことだ。今の私たちにとっては、それが最上の喜びなんだ」

「ふふ……パパはいつもそう言ってくれるよね」

「ああ、これに限っては誓って考えを変えるつもりはないからな。あくまでも、子どもたちとその未来を一番優先して生きていきたい。冬莉や千春のためなら、この生命を賭しても構わない。それだけの覚悟は持っている。欲を言えば、お前たちが子どもを持った時に、同じような考えを持ってくれたら嬉しいが……」

「……きっとそうなるよ。わたし、パパとママの子どもだもん。それに——」

 ——キツキくんもきっと、同じ風に思ってくれるはず。などと、口に出すことはできなかった。自分が親になることは、まだあまり想像ができない。今は、大切な弟の千春が元に戻ってくれることが、冬莉が家族に抱く切なる願いだ。

「パパ、千春の治療は、やっぱり身分がはっきりしないと始められないの? エイリスには、千春を治せる機械や薬があるんだよね?」

「……ああ、治すための手段はある。でも、どこの国の医療機関も、身分証のない患者をやすやすと受け入れてくれはしない。仮に何とか理由をつけて治療を受けさせたとして、不法入国の疑いをかけられたら私たち親のことも誤魔化し切れるか分からない。だから、あの子が正式にこの国に住む権利を得てから治療を始めた方が良い。どこの国もお役所仕事はお役所仕事、気長に待つしかないさ」

「うーん……」

 考え込んでしかめ面になってしまう冬莉。シグレはそんな冬莉の顔を覗き込むように、少しだけ腰を落とした。

「冬莉。私とママの願いをひとつ、伝えてもいいか?」

「願い……?」

「……人生は何が起こるか分からない。どんなに周到に計画していても、究極的には常にギャンブルをしているようなものだ。だから、これまでのような苦しみに再び苛まれることだってあり得るし、逆に、些細なきっかけから今よりずっと幸せな日常へと返り咲くことができるかもしれない。先のことは誰にも分からないんだ。だから、冬莉にはこれからのことであまり気負いして欲しくない。過去の因果に囚われるのは、私たち親の世代までであってほしい。お前達にはつらい思いをさせてしまったが、これからは、普通の日常を過ごしてほしい。これが、私たちの願いだ」

「普通の日常……」

「冬莉や千春を、豪奢な生活を送り金に物を言わせるような人間にも、あまりにも落ちぶれて這い上がることすらできない人間にもさせたくなかった。だから、再会できた時には、財産をしっかりと守り、自立して生きていることがわかって安心した。私たちから言うことは何もない」

「別に、そんな大層なことじゃ……お金を使わなかったのは、贅沢な暮らしに興味が沸かなかっただけだし。正寛さんと怜凛さんが面倒をみてくれたおかげでもあるよ」

 正寛と怜凛。いなくなってしまった二人を思うと、どうしても、明るい気持ちではいられない。しかし、彼らと過ごした時間は確実に冬莉の中で生き続けていた。

「うむ……堅実な上にこんなに謙虚だなんて、我が娘ながら誇らしいよ。どうか、変わらずにいてくれよ」

「わかってるよ」

 冬莉はそう言って愛する父親に微笑みかけた。彼女が海の向こうの恋人から来訪の予定を告げられるのは、この少し後のことである。

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ALLiWs0 真実までの物語 第3巻 @cbayui

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