後編

 秋が深まる早朝は肌寒い。日の出前となれば尚更であり、吐露はマフラーとジャンパーを着こんで海を目指した。


 学校から一番近い巻貝の浜に到着したのは五時を数分過ぎた頃。バスも電車も動いていない時間、理由も分からないまま自転車をこいだのだ。少しの遅刻は大目に見て欲しいと吐露は白い息を吐き、薄明るい浜辺を見た。


 そこにはお菓子の彼女がいた。


 ニットワンピースにショート丈の上着を着ており、気温的には軽装に思える。


 綿菓子の髪は微かに昇り始めた陽光を透かしており、膝まで海水に浸っていた。


 そう、浸っていたのだ。


 吐露の肝が一気に冷える。自転車のスタンドを下ろす前に手が離れ、倒れた音がした時には砂浜を駆けていた。


 綿雲甘味はお菓子の少女だ。

 髪は白くふわふわとした綿菓子。肌は薄く黄色がかったスポンジ生地と飴細工。涙と血液はチョコレート。


 スポンジ生地が海水を吸ってしまったらどうなるだろう。飴細工が水に晒され続けたらどうなるだろう。


 塩辛い海水に彼女の甘さが染み出して、ふやけた足は覚束ない。


「甘味さん!!」


「あ、」


 振り返った彼女の体が脆く傾く。


 綿菓子が水に浸ればどうなるだろう。ドロップの両目が海水に呑まれたら、どうなるだろう。


 体の芯から冷え切った吐露は海水を勢いよく踏み、顔が一気に歪んだ。


「来たね、吐露」


 ふやけてバランスが取れない彼女は腰から海に倒れ込む。飛び散った海水は薄明を反射し、彼女を招くように揺れていた。


 だが、先に掴んだのは吐露の両腕だ。


 いつもゴミ箱を抱えている手は、海水を吸った彼女を抱き締める。


 深みに足を伸ばし、体全体で抱えて、引き戻すように背中を後ろに逸らして。


 微かに濡れた甘味の毛先は溶けている。海水に攫われた彼女の甘さに吐露は奥歯を噛み締めて、重たい少女を引きずった。これ以上体が海に沈まないよう力を込めて、足を思い切り上げて。荒々しく音を立てて歩く吐露は、自分が水浸しになっていることなど二の次だ。


 滲んだ彼の汗が頬を伝い、甘味の頬に落ちる。酸性の汗は少女を焦がし、少しだけチョコレートの血が滲んでしまった。


 だが甘味は何も言わない。吐露は息を弾ませて浜辺に戻り、海水を吸いまくったお菓子の彼女を引き上げた。


「ちょっ、と!! 甘味さん!! 何して……ッ」


 元より体力のない吐露は、甘味と共に浜辺に倒れ込む。汗だくの彼はすぐさま少女を離し、仰向けに転がったお菓子に息を呑んだ。


 ふやけたスポンジが波の引きに勝てるだろうか。脆い体が保てるだろうか。


 答えは明白。目の前に。


 吐露は見た。


 甘味の両足から先が無くなっている姿を。


 チョコレートが流れ出している光景を。


 甘い甘いチョコレートは海へと繋がり、彼女の足が大海に喰われてしまった道を示している。


 彼女の膝から下は普段の何倍も膨らんでおり、触れれば海水が染み出した。同時に足首から先はチョコレートを垂れ流し、当の本人は笑うのだ。


「甘いかな」


「は、っ、」


「甘いかな。私を食った、この海は」


 仰向けの甘味の表情が動く。


 いつも固まった飴細工の表情は、緩んだように笑うのに。


 下がった目尻に溜まったのは、甘ったるいチョコレート。


 呼吸が浅くなるばかりの吐露は素早く喉に指を突っ込み、海水とチョコレートが混ざる位置に酸を吐いた。


 何度も噎せて、えずいて、涙を流して。それでも吐露は吐き散らす。海水を溶かして、チョコを溶かして、砂を溶かして穴を作った。


 これ以上、彼女が海に流れ出てしまわないように。波が彼女を攫わないように。流れるチョコレートは吐露が作った穴に溜まり、打ち寄せた波もまた穴に飛沫を注いだ。


 吐き気が止まらない少年は穴を深くし、チョコレートの上に胃液を落とす。そうすれば甘い彼女の血すらも溶けて、さらに少年の吐き気を促した。


「吐露」


 上体を起こした甘味は、泣きながら吐いている少年に目を細める。


 彼はいつもそうだ。俯きながら自分の喉に指を入れ、唾液や胃液でゴミを溶かす。それが自分のやれることだと言い聞かせて。


 甘味は濡れたワンピースの裾を固く絞って血を止め、今にも千切れそうな両足に目を伏せた。


「もう吐かないで、吐露」


 彼女が呼べば、泣きながら吐き続けていた少年が顔を上げる。彼は雑に顔を拭い、目元は真っ赤に染まっていた。


「なに、してたのさ」


「水に浸かってみたかったの」


「ッなんで!!」


「私、水に触ったことないから」


 吐露が息を飲む音がする。膨れ上がった甘味の足は徐々に海水を染み出し、彼女は目元のチョコレートを拭った。


「砂糖水でシャワーするの。飴を溶かしたお風呂に浸かるの。ずっと甘いの。甘くなくては駄目なの。だって私はお菓子だから」


「そ、れは」


「生まれた時からだよ。親もそうだし、当たり前だと思う。甘いお菓子の人間は、美味しいお菓子を作る才能があるって、それもずっと言われてきた」


 彼女からは甘い香りが漂っている。しかし今は潮の香りも少し混ざっており、吐露の鼻はたしかに嗅ぎ取った。


「でも、私、甘いものって嫌いなんだ」


 眉を下げた甘味が笑う。青い瞳には薄くチョコレートが浮かび、混ざった色はよどんでいた。


「生クリームもチョコレートも嫌い。スポンジケーキなんて一ピース食べるだけでも胸焼けしちゃう。飴玉を一つ舐めるだけで十分。そんな私が美味しいお菓子を作る道に行くなんて矛盾だよ。苦手な甘さに囲まれて、キラキラしたものなんて作れるわけない」


 甘味は自分を抱き締める。再び流れたチョコレートの涙は、彼女の表情を溶かしていった。


「私に、美味しいお菓子なんて、作れっこないんだよ……吐露」


 笑った彼女に吐露は奥歯を鳴らす。目を充血させた少年は少女の柔らかい肩を掴み、噛みつくように口を開いた。


「じゃあどうしたかったんだよ!! その道に進める権利を持ってるのに、それは嫌いだから、自信がないからって、出来るって皆が言ってる声を聞かない君を見ていた僕は、どうしてやればよかったんだよ!!」


 歪んで皺の寄った吐露の両目から酸の涙が落ちる。雫は甘味の肩口や髪を溶かし、いつもゴミ箱を抱えている両手は震えていた。今にも甘味の肩をむしりそうなほど力が込められ、吐きダコが震えている。


「したいことより出来ること!! そんなの小学生だって分かってることじゃんか!! あれがしたい、これがしたいって言ったって、結局、出来ることは違うんだからッ」


「それでも、夢を見るのは悪いことじゃないよ」


「叶わない夢を見たって無意味なんだよ!! 苦しむのは自分なんだから!!」


 吐露の涙が止まらない。徐々に太陽が昇り始めた。日の光りを背中から浴びる少年の表情は黒く陰り、涙だけが落ちていく。


「苦しむなら、夢なんて見ない方がいいんだ。自分に出来ることだけ見て、やって、その道に進む。そうしないと、そう、しないと、」


「それこそ苦しいよ」


「だからッ」


「吐露、君の夢はなに?」


 甘味の両手が吐露の頬を挟む。流れ続ける酸の涙を受け止めて、吸い込んで、掌を溶かしながら。


 吐露は反射的に彼女から距離を取りかけたが、それを少女は許さなかった。


「私は今まで、いっぱい夢を言って、吐露に聞いてもらったよ。でも吐露の夢を聞いたことはない」


「僕の、僕の進路はもう決まって、」


「違う。夢だよ吐露。言って、吐いて、吐き出して」


 やりたいことと出来ることは違う。そんなことは誰しも知っている。そしてみんな、夢見たことに区切りをつけて、仕舞い込んで、自分に出来ることにやりがいを見出して生きるのだ。


 その方が結果的に丸く収まるから。まぁ良かったなって言える人生になるから。そうなるように道は決まっているから。


「吐露」


 少年の口内で奥歯が擦り合う。柔らかい彼女の手を振りほどくことも出来るのに、彼には出来ない。


 座り込んだ吐露は甘味の手に掌を重ねて、低い嗚咽を飲み込んだ。


 やりたいことと、出来ること。少年に出来ることは決まっている。自分の酸を使ってゴミを溶かす。そうしてゴミ問題の解決に従事して、陰ながら社会の役に立っていく。それが吐露に出来ることだ。


「硝子の彼は、本当はスポーツに関わる仕事がしたいんだって。整体師とか、インストラクターとか。でも体が硝子だから、脆いから駄目だって笑ったよ」


 甘味の青い瞳が吐露に訴える。


 ドロップの瞳は見ていた。自分が夢を語る度に、酸の少年の顔に影が差す姿を。彼の夢と出来ることは違うのだと、お菓子な彼女は見抜いていた。


「カナリアの子がいるよね。あの子、目立つのが嫌いなんだって。だから学校や会社の事務員になりたいけど、アナウンサーにならなきゃいけないって言ってた」


 吐露の呼吸が浅くなる。


 溶けた指先で甘味は少年の涙を拭う。


「夢を持つのは悪いことじゃないよ。みんな揺れてる。やりたいことと、出来ること。大人はみんな子どもが困らないように正しい道を進めてくれるけど、それが幸せかどうか決めるのは私達なんだから」


 今までたくさん吐いて、溶かして、ゴミ箱に捨ててきた少年へ。


「だからさ、吐露」


 甘くてお菓子な少女は、優しい彼が、真面目な少年が、自分を救ってくれると分かっていたから海に来た。


「君の酸で、君の夢まで溶かさなくていいんだよ」


 吐露の涙が大きくなる。浅くなった呼吸が嗚咽を堪えきれなくなる。


 甘味の両手を握り締めた少年は、昇る太陽に背中を丸めた。


「……――た、かった」


 酸を吐くことが出来ても、それを楽だと思ったことはなかった。普通に嘔吐をしているのだ。自分の意思で、強制的に。


 だが吐露に出来るのはそれだけだった。吐くことが吐露の出来ることとして生まれてしまった。物心つく頃に両親から教えられたのは、どうすれば出来る限り楽に吐けるかという技術と後処理の仕方。


 常に吐くから胃や喉が荒れてしまう。家では薬を飲んでいる。胸の辺りが気持ち悪くて、その日の嘔吐が自主的なものか体調不良によるものか分からない日などザラだった。


「僕は……」


 吐露に与えられた、吐露に出来ること。酸を吐くこと。それをこの先一生続けることが正しいのかと考えるだけで、吐露の体は鉛のように重たくなった。今日、海に着いた時、甘味が普通に海を眺めているだけだったなら。


 海に浸かりたいと思ったのは、吐露だったかもしれない。


 それを少女が止めてしまった。甘味が吐き出せと促した。


 だからもう少年は、抱えて溶かし続けた夢を、吐き出さずにはいられない。


「僕、は……ぉ菓子を、つくる人に、なりたかった……」


 涙の混ざった吐露の声を甘味は受け止める。泣きじゃくる少年は、汗みずくになって少女を見捨てないでくれたから。


「お菓子じゃなくてもいい。なんでもいい。食べて、美味しいって、言ってもらえるような物を、作りたくて」


 少年の夢を手に入れられた少女。


 生まれながらに権利を得ていた彼女を海底に突き落とすことだって、少年は出来たのに。


「溶かして、壊す人じゃない……作って、喜んでもらえる人に、なりたいのに……」


 甘味はゆっくり吐露を抱き締めて、彼の夢に想いを馳せた。


 三年間、酷いことをしてきたものだ。出来ることを嫌って、やりたいことばかり語って。やりたいことを飲み込んだ少年に聞かせていたのだから。


 だが、甘味は夢を見ていたかった。夢を叶えたかった。それを悪いことだと、間違っているなど、言って欲しくなかったのだ。


 太陽が半分ほど昇った。始発の電車が動き出すだろう。


 涙を止めて顔を上げた吐露に、甘味は目尻を下げた。


「吐露、私、もう歩けないや」


「……乾かしても、駄目だもんね」


「うん、だからさ」


 甘味は海水の抜けた足を撫でる。


 彼女は吐露の手を誘導し、スポンジの足を千切って見せた。


 崩れたスポンジ。スパイスはチョコレートと、海の味。


 目を見開いた吐露の口に、甘味はスポンジの足を押し付けた。


「食べて、吐露。ゴミになっちゃう前に」


 朝日が少女の蛮行を照らす。


 震えた吐露の唇に、甘い香りが纏わりつく。


 息を吸い込んだ少年は、少女の蛮行に加担した。


 甘いスポンジに歯を立てて、カカオの骨を砕いて、溶け出したチョコレートを舐めとった。


 お菓子な彼女の左足が無くなる。膝から下はチョコレートだらけ。甘味は甘味で準備していたチョコレートの板を何枚も頬張り、二人して口の周りを茶色くした。


 左足の次は右足へ。もう歩けない彼女の足が、ふやけたゴミとして捨てられる前に。大人に知られるその前に。


 嚥下した吐露の口元に甘味は指の腹を押し付ける。拭ったチョコレートは吐露の頬まで掠れて伸び、お菓子の彼女は微笑んだ。


「美味しい? 吐露」


 ドロップの瞳は甘い光を放っている。


 吐くしか能のない少年はチョコレートがけのスポンジを飲み下し、舌に残った塩味を鼻で笑った。


「クッソ不味いよ、甘味さん」


 ***


 入水自殺をしかけた少女を助けたヒーロー。


 それが卒業まで吐露に与えられた称号であり、学校で甘味の車椅子を押す役も仰せつかった。彼女の両親からはこれでもかと感謝されたが、本当は何があったかなど二人は言えなかった。浜辺でのやり取りは甘味と吐露だけの秘密だ。お互いに墓まで持っていく所存である。


「オーブンの温度たしかめて」


「うん」


 卒業後、吐露はゴミ圧縮会社に就職し、甘味は製菓の専門学校に通い始めた。


「膨らんでる?」


「大丈夫そう」


 ゴミ圧縮会社は体力的にも精神的にも伸し掛かるものがある為、勤務時間は短めだ。例にもれず吐露も短縮日勤で日々疲れ果てている様子である。


 しかし、甘味と会う時間は別である。背筋は伸びて、目は微かに輝くのだから。


 彼女が課題の制作に追われる横で、ケーキの材料を混ぜる吐露がいる。場所は甘味の家。洋菓子店のキッチンは、本当なら吐露が一生かかっても入れない場所だった。


 その夢を現実にしたのが足を失くした甘味だ。彼女は不自由になった自分の課題制作などを手伝ってもらいたいと吐露に伝え、彼を招くようになったのだから。


「上手くなったね、吐露」


「甘味さんの教え方が上手いからだよ」


 切り分けられたのは、甘味の指示で吐露が作ったチーズケーキ。味はそこそこ。甘味が作ればまた変わるのだろうが、手を動かしたのが吐露なので仕方がない。


「美味しい」


「嘘だね」


「本当だよ。甘くないもん」


 笑った甘味に、吐露はフォークを噛む。微かに先が丸くなったフォークを口から出した彼は、すぐに唾液を専用の布巾で拭った。甘味は皿を空にして、今日も甘い匂いを漂わせる。


「明日も来られる?」


「多分ね」


「なら、フォンダンショコラでも挑戦する?」


 吐露の頬が軽く痙攣する。よく表情が動くようになった甘味に彼は息を吐き、舌が思い出した甘さに吐き気がした。


「チョコ系は、暫くいいよ」


――――――――――――――――――――


やりたいことと出来ることは違うけど。

出来ないから諦めなければいけないと、甘味ちゃんは思っていませんでした。

夢を抱くことが悪いことだなんて、一つも思っていませんでした。


夢を語り続けた彼女と、彼女に巻き込まれた彼を見つけて下さって、ありがとうございました。


藍ねず

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君の夢が溶けませんように 藍ねず @oreta-sin

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