月を見上げ笑う

内藤岸部

月を見上げる、月が見下ろす。

わたしは殺してません。


薄暗い取調室でわたしはそう告げた。

最近はむせかえるような暑さが続くが今日は特別に暑い気がする。わたしの黒く長い髪は風を通さないばかりか、熱を吸収してしまう。

頬に髪が張り付いて不快だし、また頭が痛みだした、きっと暑さのせいだ。取調室に冷房はついていないのだろうか。

目の前に座っていた恰幅のいい刑事さんも暑そうに団扇をぱたぱたしながら、訝しんだ顔で気怠げに告げる。

「でもねぇ。目撃者もいるし、あなたの衣服にべったりついていた血液も被害者と一致したわけだしねぇ」


「…それでも、わたしはやっていないのです」

この刑事さんが言っている事件の起きた時間帯にわたしは友人と一緒にいたのだ。その友人に証人になってもらおう。

「じゃあ聞くけど、あなたじゃなければ誰がやったわけ?」

刑事さんは早くこんな会話をやめて切り上げたいのだろう。うんざりとした顔でわたしに尋ねる。


わたしの家族は3人家族で、父は普通の会社員、母はパートで働いて生計を立てていた。団地の7階に住んでいて毎日19時になると3人で食卓を囲みバラエティ番組を見ながら夕食を食べた。わたしはペットを飼いたかったのだが、我々の住む団地ではペット禁止だった為、父が買ってきてくれた犬のぬいぐるみで仕方なく気を紛らわせた。

元々わたしは内向的で主張の少ない性格だった為か友達と呼べる人間がお世話にも多いとはいえなかった。そんなわたしが唯一友達と呼べるのは、ぬいぐるみのチャッピーと隣の部屋に住んでいる美咲ちゃんだけであった。美咲ちゃんの家は母子家庭で母親はいつも帰りが遅く、美咲ちゃんはほとんど毎日の夕飯を我が家で済ませていた。母親同士の交流は深くお互い持ちつ持たれつの関係であったようだ。

そんな関係なのだから、わたしたちが仲良くなるのに時間はかからなかった。毎日が楽しくて、わたしは美咲ちゃん以外に友達なんてつくる気になれなかった。残念ながら美咲ちゃんとは学校が違かったけれど、わたしも美咲ちゃんも学校には良い思い出がないのか話題にあがることはなかった。

そんなある日のことである、いつものように美咲ちゃんとのおままごとがひと段落し、2人で和室に寝転んでいると父が麦茶をお盆に乗せて運んできてくれた。

「ありがと」

「ありがとうございます」

美咲ちゃんはうちで夕飯を食べるようになって数年経つが、未だに敬語を崩したことはない。他人事とはいえ立派だと思う。窮屈そうだが。

「こらっ、寝転がりながらお礼を言うもんじゃありません」

父はこういうとき、決まってこう続ける。

「少しは美咲ちゃんを見習いなさい」

何年も言われ続けた言葉だ。その度にわたしと美咲ちゃんはこっそり目配せをしほくそ笑むのだった。

麦茶も飲み終わり2人で仲良く漫画を見ていると美咲ちゃんがふいにポツリと、ほんとうに隣にいたわたしにも聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。

「いいなぁ、私もあんなパパが欲しいなぁ」

美咲ちゃんがそんなこと言い出すなんて珍しいなぁ。と思い彼女の顔を覗くと、美咲ちゃんの目は漫画を見ていなかった。いや、目線は確かに漫画に向いているのだが、それでもどこか違う場所を見ているかのような目であった。

「いいなぁ」


数日後、父は帰って来なくなり、隣の部屋は空き部屋となった。

その日を境にわたしと美咲ちゃんの人生は逆転した。わたしは父がいなくなったショックで部屋にこもりがちになり、母は夜遅くまで家を空けることが多くなった。日に日に母の服装も派手に、お酒の量も増えていった。そして、お酒を飲んだ日は決まってこう呟くのだ。

「…あの女、恩を仇でかえしやがって…」


わたしはというと学校を辞め、自分の部屋で息を殺すように生きていた。太陽の光を浴びない肌はどんどん白くなり、伸ばしっぱなしの髪の毛は腰まで届くようになった。食事も1日1回しか摂らないので骨にかろうじて皮がへばりついているような姿になっていった。

いつからか、母は家に知らない男を何人も連れて来るようになった。毎回違う声なので、恐らく複数人いたのであろう。わたしは、自分の部屋でより一層息を殺し、布団の中で耳を塞ぎ身体を丸めて胎児のように眠るのであった。

そんなある日、いつものように母と見知らぬ男が寝静まったのを見計らい、お手洗いに行くために部屋から抜け出し廊下を歩く。ほとんど食事をしないこの体は廊下を軋まずに歩くことができる。少し喉が渇いたので先に冷蔵庫から飲み物を持っていこう。そう思い立ったわたしはリビングを抜けてキッチンに行こうとした。するとリビングのカーテンから月明かりが少し漏れているのに気づく。わたしは、どうしてか久しぶりに月が見たいと思い、そろそろと近づきゆっくりカーテンをめくる。

「…あぁ」

思わず溜息が出た。

月の光とは、こんなにも蠱惑的で綺麗だったのか。何十年と生きていたのにまるで気がつかなかった。その光はまるで生きているかの様に体に纏わりつき、わたしの青白い体はその光を浴びてさらに白くぼんやりと光って見せた。

ずっとこの心地よい光を浴びていたい。

できる事ならこのまま一緒に混ざり合い、溶けてしまいたい。現実というしがらみからわたしのすべてを切り離し、なにものにも縛られない自由を。

わたしは深くそれを吸い込んだ。光を吸い込むなんておかしい話だと思うだろうが、しかし、その光はそれだけの密度を感じさせる光だったのだ。

わたしは、何度も何度も深呼吸をして肺を月の光がいっぱいになってからようやくその場を後にした。

「そろそろ部屋に戻らないと…」

母の連れてきた男に見つかるのは面倒だ。そう思ったわたしは足音をたてずにするすると自室へと戻っていった。

この日の月の光のことを、わたしは生涯忘れないだろう。それからというもの、わたしは月の光に魅了されを浴びることだけを生き甲斐に糧にして生きていた。少し大袈裟な話に聞こえるだろうか?しかし、毎日を死んだ様に過ごしているわたしにとっては実際に生きる糧以上の価値があったのだ。事実、この日を境にわたしの体は変化していった。かさかさで枯れ木のような肌は潤いを取り戻し、黒く長い髪も枝分かれが一本もない絹の様な髪へと変わっていった。

今日も薄暗い部屋でわたしは1人ボソボソと呟くように語る。

「…月の光は宇宙の中を38万kmも旅して地球に降り注いでいるの」

別に特定の誰かに話しているわけではない。独り言というか、確認というか。

まぁ、強いて言うならば、ぬいぐるみのチャッピーと自分自身に話している感じであろうか。

「…それって凄いことだと思うわ。つまり私達は月の光だけじゃなくて、38万km分の宇宙の光も一緒に浴びているってことだもの」

少し興奮気味に、チャッピーの無機質なボタンの目を見ながらわたしは毎日、同じことを繰り返し話す。

あぁ、まだ夜にならないのか。

早く、早く月よ。


その日もわたしは月の光を浴びるためにベランダに出ていた。

最近は体の調子もいい、それはもしかしたら毎日の食事がコンビニ弁当から母の手づくりの食事に変わったからなのか、この生活に体が適応し始めたからなのかはわからないが、わたしは月の光のおかげだと信じている。

月の光がわたしの体の毒素を吸い取り、作り変えてくれているから、わたしはこうして生きていられるのだ。

わたしは目を瞑り何度も息を吸っては吐く、吸っては吐くを繰り返す。

時間としては10分程だろうか、充分光を浴びたわたしは再び室内へ、名残惜しいがカーテンを閉め、再び自分の部屋まで戻るために窓を背に振り返る。

「えっ」

それはわたしの声か、相手の声か。

もしかしたら2人の声だったのかも知れない。

男が立っていた。

髪は短く金髪で耳や首にジャラジャラと金属をつけている。薄手のシャツからは程よくついた筋肉が見え、背はわたしより少し高く、こちらを凝視している。

「てめぇ、誰だ」

静かだが威圧感のある声だ。

しかし、わたしはそれよりこの男が何故そんな質問をするのかが理解できずにいた。こちらからすればむしろ、あなたこそ誰ですか?ですしこの家にはわたしと母しか住んでいないわけなのだから、娘さんですか?が正解だ。

こうしてわたしが黙っていると男は痺れを切らしたのか、ふたたび声を荒げながら、

「誰だって聞いてんだよっ」

男はわたしの腕を掴むと、無理矢理自分の方に引き寄せた。

「…っ」

意外かもしれないが、絶句したのは相手の方だった。

目を見開き口をパクパクさせている。わたしにはその意味が皆目理解出来なかったので、どういうつもりか尋ねようと口を開く。

「…あ、ぅ」

自分でも驚いた。誰かと何年も会話しなかった結果口が、いや脳が会話を拒否したのだ。1人ではあんなに喋っているのに、今は口から言葉が出てこない。

せめて手を振り解こうにも、男はわたしの腕ガッチリ掴み全く離す気配がない。

「なにやってるのっ」

あぁ、母だ。

昔よりお酒のせいで少し声が枯れているが、何年も聞いていた声を間違えるはずがない、これは母の声だ。

助けを求めるように母に目線を送るとわたしが知っていた頃よりだいぶ老け込んでしまってはいたが紛れもなく母が立っていた。

「なに笑ってるのよっ!あんたはっ」

笑ってる?わたしは男の口元を見たが別に笑ってはいない。なんなら男の顔はまずいところを見られて苦虫を噛みつぶしたような顔だ。母はいったい何を言っているのだろう。そう思い、わたしは再び母に視線を戻すと、そこでようやく言葉の意味を理解した。

母はわたしに向かって言ったのだと。

勿論わたしは笑ってなどいないし、これは全然笑える状況ではない。寧ろ自分の娘が知らない男に組み伏せられそうな状況だ。男に怒鳴りこそすれ、娘に怒鳴る母親など存在しないだろうがしかし、母は鬼の形相でわたしを睨む。そして思いつくかぎりの口汚い罵倒文句でわたしを責め立て始めたのだ。

そうか、母は狂ってしまったのか。

父を他の女性に取られ、女手一人で娘を育てるるプレッシャーを誰とも分かち合う事も出来ず仕事のストレスや、周りからの同情の目線は母をこうも狂わせてしまったのだ。

男はようやくわたしの腕を離し、わたしと母の中程に立つ。母になにか説明しているようだが肝心の母は男の言葉など聞く耳を持とうとはしない様だ。

ついに母が空のビール瓶を持って暴れ出したのを男が羽交い締めにして止める段階で、わたしはそれ以上母が狂っていくのを見ていられずその場を去る為、身を低くし廊下で男と揉め合う母の横を通り過ぎようとした。

自分の部屋でひっそりと生きよう。いや、もう家から出て行ってしまおうか、もはやこの家はわたしにとっての安住の地ではない。どこに寝泊まりするかはそのとき考えればいい。そうだ、そうしよう。わたしは月の光だけで生きていけるのだから。

そんなことを考えているとガツン、鈍い音と共に後頭部に鈍い痛みが走った。

「うぐっ」

わたしはよろめきながら咄嗟に壁に手をつく。母の振り回していたビールが後頭部に激突したのだ。視界がぐらつき二重に見える。長い黒髪の隙間から母を睨む。母も実際に当てるつもりはなかったのだろう、わたしの顔を気まずそうに見た後すぐに目線をそらしてしまった。男は心配そうにわたしに近づいてきたが、わたしの顔を見てその場で止まってしまった。

どうでもいい。わたしは後頭部を抑えながら洗面所に逃げ込む。血が出ていないか確認しなければ。洗面台に手をつき震える手で電気のスイッチを押し鏡を見る。後頭部にたんこぶが出来てはいたが血は出ていないようだった、しかしわたしを驚愕させたのはそんなことではなく鏡の中の人物が、

「…笑ってる…」

意味がわからなかった。勿論、鏡はわたしを写していたのだが、そのわたしが明らかに笑っている。わたしは細い指を恐る恐る口元にもっていき確認する。口紅もつけていないのに異様に赤い唇、頬へ釣り上がった口端、わたしは笑っていた。まるで自分の意思に反するように。

わたしは口元を抑えながら洗面所の扉を開け、自室に逃げ込む。

布団を被り膝を抱えながら、わたしは母の言っていたことを思い返していた。「なに、笑ってるのよ」あの言葉は正しかった。きっとわたしはあのとき笑っていたのだ。

怖い。目を瞑り震えながら眠る。

「明日、明日になればきっと…」

根拠なんてない。しかし、他にすがるものがないわたしにとってそれしか解決方法が思いつかなかったのだ。


翌朝、わたしは痛みと共に目を覚ました。後頭部の痛みは昨日にも増して強くなっている。

口は?恐る恐る口元に手をかざすとわたしの口はわたしの意思通りに動く。良かった。昨日の出来事はきっと後頭部を殴られたショックで錯乱しただけなのだろう。きっとそうだ。

それにしても頭が痛い、氷で冷やしたいが母はいるだろうか、恐る恐る自室の扉を開け廊下を覗き込む。どうやら今日は早く家を出たようだ。昨日のこともあったし、家に居ずらいのかもしれない。わたしは冷凍庫から氷を取り出し袋に詰め、洗面所に置いてあるタオルを巻くと再び自室へ引き返す。後頭部に当てて冷やすと、先程よりかは幾分痛みが引くのがわかった。この痛みは暫く続くかも知れないなぁ。などと思いつつも心はやはり月の光について考えていた。あんな出来事があった以上しばらくは控えた方がいいのかも知れない。母だけならともかくその男がいると面倒だ。

あれから何日経ったのだろう。頭の痛みは治ることはなかった。それどころか増している様な気もする、当初はもう何日か様子を見てまだ痛むようならば病院も検討しなければならない。と考えていたがあれ以来、母が帰ってこなくなった。男の家に住み着いているのか、とにかく保険証もお金も母が持っている為病院に行く事も出来ない。わたしは毎日痛む頭を抱えながらベットで唸っていた。日課であった月の光を浴びることも、もう何日してないだろうか。

もしかしたら月の光がこの痛みを和ませてくれるかも知れない。何故そう思ったかはわからないが、それはなんの希望もないわたしが持っている最期の希望に思えたからだろうか。

わたしは痛む頭を抱え、手を壁につきながらゆっくりベランダに向かう。カーテンを開け全身に月の光を浴びて痛みが和らぐのを待つ。

駄目だ。痛みが和らがない。

患部に直接浴びせればどうだろうか。わたしは月を背に、抱えていた頭から手を離す。あぁ、少し痛みが減った気がする。やはり、月の光はわたしを助けてくれる。それなのに、


「…うらめしい」


一瞬で思考が停止した。わたしの声じゃない。

勿論母のでもない。もっと喉の潰れたようなしわがれ声だ。それは絶対にありえない、母が連れてきた新しい男の声とか、またわたしの口がわたしの意思に反して勝手に喋ったとかそんなことよりもっとありえない。

だって、その声は背後から聞こえたのだから。

「うらめしい…そうだろ?」

わたしは振り返れなかった。振り返って誰もいなければそれでいい。しかし、もしも誰かがいたのなら。それは人間ではない。ありえない。ベランダの外側から声をかけてくるなんて出来っこない。

わたしは無言で自室に戻った。相変わらず頭は痛かったが、なによりその場にそれ以上いたくなかったし、相手を刺激したくなかった。聞こえないふりをしながら廊下をあとにする。

窓は閉めただろうか、いや確認する余裕はない一刻も早く部屋に戻り、布団を被って寝てしまおう。


カーテンから漏れる朝日で目を覚ましたわたしは、いつの間に眠ってしまったのだろう。などと考えながらまだ痛む頭をさすりながら洗面所へ向かう。きっと昨日の出来事は悪い夢かなにかだったのだ。

そう思い、ドアを開けそっとベランダの様子を伺う。どうやら窓は空いていないようだ。わたしは内心ほっとしながらも洗面台で顔を洗おうと正面を向くとそこには、にんまりと笑うわたしの姿があった。

「おまえは気がついているはずだ」

わたしの声じゃない。あのしわがれ声だ。

そもそもわたしは喋っていない。だって鏡のわたしは、にやにやするだけで口は閉じているのだから。

「いったいなんで、こんな…」

わたしは呟く。理解が追いつかないのもあったが、姿の見えない人物を出来るだけ刺激したくなかった。

「…誰も、自分自身からは逃げられない」

「うっ」

熱い、頭が痛い。まるで体の熱がすべて頭に集まっているみたいだ。視界がぼやける。

わたしはとても立っていられず洗面台に寄りかかるように崩れた。体に力が入らない、頭以外の感覚が消えていくみたいだ。

そして、わたしは意識を失った。


わたしは寒さを感じて目を覚ました。

気がつけばもう夜になっている、相変わらず頭は痛かったが先程のような痛さはもうない。わたしはゆっくりと立ち上がりベランダへ向かう。もはやわたしが頼れるものはあの月の光しかないのだから。

カーテンを開け全身に光を浴びる。

痛みが和らぐのを感じる。あれは幻聴だったのだろうか、それともわたしの妄想だったのだろうか。どちらにしても、わたしの中から湧き出したものには違いない。

わたしはいったい何に気がついているのか、もう少し考えてみることにした。時間だけは使いきれないほどあるのだから。

わたしはぼんやりしながら月を見上げる。

母には何週間も会っていない。きっと男の家に転がり込んだのだろう。別に会いたいとは思っていないが、お金や通帳、保険証など大事なものを全て持っていってしまった。

父は元気だろうか、あれからもう何年も経っているがわたしのことは覚えているのだろうか。母とわたしを切り捨てて送る人生はどんなものなのだろうか。

いや、母も男の家に住み着いているのだから、結局切り捨てられたのはわたしだけだ。

「…ははっ…」

わたしは笑った。

なんだこれ、わたしはこんなに痛くて苦しいのにみんなわたしを切り捨てて幸せになってる。みんな痛みを切り捨てて生きている。

わたしだけが、わたしは、

「うらめしい、だろ?」

そうだ、恨めしい。

父も、母も。わたしから奪っていった全てが恨めしい。ずっと考えないようにしていた。だっていくら恨んでもあの日常は帰ってこないのだから。その不満や怒りは自分の心の底に押し沈めて気づかないふりをした。でも、それは泥みたいに折り重なって今溢れ出そうとしている。

「恨めしい」

わたしは初めてその気持ちを言葉にした。

月を見上げる。月もわたしを見ていた。

違う。月じゃない。

目だ。大きな目がわたしを見ていた。

その瞬間、母に殴られた後頭部が熱を発し痛みだした。

「うっぎぃぃぁぁあ」

到底わたしから、いや人間からでる言葉とは思えない音が口から出た。あまりの痛みにわたしは膝から崩れ落ちる。

みしみしとした音と共に後頭部が裂けはじめついにはパカッと口を開いた、これは比喩表現なんかじゃない。文字通り「口」だ。

口はしわがれ声で話しだす。

「うらめしいなら、するべきだ」

何を?何をするべきなのだろう。

いや、もうやめよう。何をするべきかは、他の誰よりわたしが分かっているはずじゃないか。

わたしは玄関を開けて駆けだす。靴なんて履いてる暇はない。今すぐ行かなければ。

場所は月、いやあの目が教えてくれる。あの大空を覆う目は世界の全てを見ているのだから。


わたしはただ走る。足の裏に小石やガラス片が刺さって痛い、だがこの高揚感に比べたら些細なことだ。途中何人もとすれ違ったが、不思議と呼び止められることはなかった。

わたしは一軒の家の前で足を止める。

表札を確認する。ここだ、間違いない。

明かりがついているので確実に中に人はいるだろう。玄関の扉に手をかけると鍵は掛かっていないようだった。わたしは自分の家のように扉を開け家の中へ入り込む。長い廊下の先でバラエティ番組だろうか、テレビの音と家族が団欒している声が聞こえる。

わたしはすり傷だらけの足でゆっくり近づく。緊張はないわたしはわたしのやりたいことをやるだけだ。

やりたいこと?本当にそうであろうか、

「そうだ、おまえは」

しわがれ声は囁く

「ずっとしたかったのだろう?」

この先は恐らくリビングであろう扉にわたしは手をかける。

「おまえの中の膿を」

ゆっくりと開く扉、暗い廊下に差し込むリビングの光はわたしの手、肩、顔を照らし出した。わたしは緩慢な動きでリビングに入る。

「ぶちまけるのだ」

わたしはとびっきりの笑顔で彼女に告げる。

「美咲ちゃん、いいなぁ」


わたしはリビングの床に座りながら美咲ちゃんの髪をゆっくり撫でる。あぁ、気分がいい。

「わたしねぇ、たくさん我慢したんだよ」

美咲ちゃんは恐怖からか喋らない。

「嫌なこともつらいこともたくさんあったけど我慢して忘れようと思って」

美咲ちゃんは風邪気味で喉を痛めているのか喋らない。

「でもね教えてもらったの。ううん、違うな。気づかせてくれたの、我慢はよくないよって吐き出した方がいいよって」

美咲ちゃんは眠っているのか喋らない。

「そうだ!美咲ちゃんにも紹介するね。凄いんだよ。世界の全てを見てるんだから」

わたしはゆっくり立ち上がり、小さくなった美咲ちゃんを小脇に抱えながら玄関へ向かう。

途中、美咲ちゃんのお母さんが涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でヒステリックにわたしを怒鳴りつけるが、わたしには関係ないことだ。

「わたしの団地から一緒に見ようよ。青くって丸くて、大きいんだから」

わたしは空を見上げる。

美咲ちゃんも空を見上げる。

大きな目はわたし達を見下ろし笑っていた。

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