写真家

巳波 叶居

写真家



いい女だ、と思った。


それが、すべてのきっかけになった。


ずっとずっと、胸の奥深くに押し込めていた欲望。

それがどろりと堰を切ったように溢れ出し、

俺の中で

耐え難いほどに暴れ回り始めたのだ。


俺は、ねっとりと舐めるように、女を視る。


髪の色は、金。

あたりの空気の色さえ変えるような

明るくやわらかな色合いの金髪。


春の日差しに透かしてみれば

どんなにか美しく輝くだろうか?


夏もいい。

森の中、熟しきった緑の葉と紺碧の空を背に踊る、

白く細い四肢。


いや、葉は緑でなくてもいい。

秋、風に舞う赤い葉に黄色い葉。

か細い肩にひらりと落ちて。


だが、今は冬。

いや、冬でもいい。

前髪の奥で揺れるアイスブルーの瞳が、

冷たく澄んだ空気にこの上なく調和している。


ああ、雪でも降れば最高だ。降りしきる白い欠片をその瞳に映して。

白い息をこぼし遠くを見やる、ほっそりとした女のシルエット。


それだけで、絵だ。

ひとつの世界だ。


完成された永遠の一瞬。


この世のすべてを凝縮したかのような一枚。






…撮りたい。


撮りたい。


撮りたい!


撮りたい!!


撮りたい!!!





暴れ回る欲望が、ここが人の行き交うオープンカフェであることを忘れさせた。


向かいの席で、俯き加減でティーカップに口をつける金髪の女。

背景には、やや陽の傾きはじめた冬の街。

レンガの小道。

枯れた街路樹。

ほの赤い光を受けて色づく頬。唇。睫毛。

カップをつまむ細く美しい指先。


決まりだ。


俺はもはや躊躇うことなく、カメラのシャッターを切った。











「きゃああああ!!」


「何だ、どうした!?」


「お……俺、見ました! その男が、今、写真を!!」





見られたか!!


俺は急ぎ身を翻し、カフェを飛び出した。

瞬間、後ろをちらりと振り返る。

長い金髪を広げてテーブルに倒れ伏す女が、視界の端に映る。

すでに息をしていない。

魂を抜かれた残骸が、そこにあった。





「写真家を追え!!」


「写真家を追え!!」





叫ぶ声がこだまする。

俺はカメラをジャンパーの中に隠して、無我夢中で路地裏へと駆け出す。


捕まるわけにはいかない。

せめて、今視た場面を印画紙に焼き付けるまでは。

あの一瞬を形にするまでは。



いったい誰がこんな世の中にした?

「写真を撮られると魂が抜かれる」などとふざけた迷信を、

本当に起こるようにした奴は誰だ!!


あの日から、世界中からカメラが消えていった。

携帯電話からも、パソコンからも、写真を撮影しうるあらゆる機能が除去された。

人々が所持していたカメラもほぼ強制的に回収され、従わなければ罰せられた。

それでもカメラを隠し持っていた人間に対しては、「写真家狩り」が行われた。

カメラを持つ人間を見つけた者には報奨金が出され、密告が奨励され、

「写真家」はどんどん捕縛されていった。

狩りの手を逃れて写真を撮り続けた結果、死刑になった奴もいる。


あれほど流行していたSNSの類からも、写真はすべて消え去った。

表現の自由はどうなる、写真という芸術が死んでもいいのかと主張する連中もいたが、「人の命と引き換えにまでして守るようなものではない」という反論は

あまりにも正しかった。


やがて写真の存在意義そのものを否定する世論が湧き起こり、

写真をただ懐かしむ声さえも袋叩きに合う風潮が、

みるみるうちに世の中を覆っていった。




こんな世の中になってから、俺はカメラを隠して生きてきた。

捕まるのは嫌だった。

処刑されるなど真っ平御免だった。

誰かの魂を抜いてしまうことも恐ろしかった。

だから我慢していた。

し続けていた。

だが、カメラを捨てることだけはできなかった。

俺は写真家だった。

骨の髄まで、写真家だった。




魂が抜かれるほどの一瞬を、ファインダーに収めるのが夢だった。




夕陽に染まる街。

ぽつぽつと灯りゆく街灯。

交差点を行き交う人々。

路地裏で身を丸める猫。

手をつなぐ母と子の笑顔。


ああ、こうなっては目に映るのは撮りたいものばかり。撮りたいものばかりだ!!


もはや人の魂を失ったのは俺の方かもしれないと、

ひとり笑いながら俺はカメラを抱えて逃げ続ける。


この理不尽な世界で、理不尽な夢を見て、それでも俺はその一瞬に焦がれ続ける。









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写真家 巳波 叶居 @minamika

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