総てがまだ青いうちに。

見咲影弥

本編

 「放課後も残って勉強するとか、真面目かよ」


廊下の方からそんな声がした。窓ガラスに人影が見える。おどけた口調。明らかに僕を揶揄しての言葉だ。馬鹿にしたような品のない笑い声とボールを衝く音は次第に遠ざかってゆく。


はいはい。確かに僕は真面目です。少なくとも他人の頑張りを貶して下げることで怠惰な自分を正当化しようとしている君たちよりは真面目だ。大真面目。良い子ちゃん。ていうか、声色から察するに、同じクラスの連中じゃないか?受験生のくせにまだお遊びの方に精を入れてらっしゃるんですね。あらあら。


お前らこそ、不真面目かよ。


心の中で一頻り悪態をつく。



 3年7月。


 補習後の教室は僕一人である。折角涼しい環境があるんだから使えばいいのに。家で勉強している人も中に入るのだろうけれど。うーん。なんというか、皆覇気がない。いつまでも『高校生活をエンジョイしよう』スタンスでいるというか。高3の夏休みは受験の天王山だぞ?いつまで経ってもそんな調子でいいのかよ――というのが通じないのがこいつら。


昼までの補修が終わった後の会話。


 今日どこ行くー?


 スタバ行きたーい。


 カラオケ行こうぜ、カラオケ!


 勉強会みたいな?面白いじゃん。


あー、馬鹿みたい。カラオケで勉強会?そんなので勉強してる奴なんか天然記念物だろ。と、これまた声には出さず毒を吐いた。まぁ、教室に残ってお喋りされるよりマシだ。静かで涼しい部屋を独占するのも悪くない。


 志望大学の赤本、数学の15カ年分をひたすら解く。あんな奴らに惑わされず、集中集中。


と、その時――


首筋に冷たい衝撃が走った。


「冷たっ」


振り返ると、彼がにやりと笑っていた。


ハリネズミみたいなツンツンした短髪の奴。蒼介そうすけ。クラスメイト。それ以上の、少しだけ特別な関係。


首に触れたのは缶コーヒーだった。


「ほい、やるよ」


さっき自販機で買ってきた、彼はそう言って僕にそれを差し出した。


「勉強、頑張ってるみたいだし」


僕があっけにとられてすぐに受け取らなかったので、彼は缶を机の端にトンと置いた。


「あ、ありがとう」


「いつも飲んでるやつだろ、これ」


お見事。よく分かってる。黒ラベルに虹色キャップのブレンドコーヒー。でもね、これ、学校の自販機では売ってないんだ。額に浮き出る汗を見ると彼が学校の向かいのドラッグストアまで買いに行ったことが容易に想像できる。気を遣ってくれてるのかと考えると、一層申し訳なく感じる。


 彼はそのまま教室を出るわけでもなく、僕の前の席に腰掛けた。偉そうに脚を組む。それから僕の赤本を手に取って言った。


「これ、行きたい学校の? 」


頷きで返答を返す。そっか、と彼は言った。


「俺とは逆方向かー」


何だか寂しそうに、ぽつりとそう言った。


「大学行ったら離れ離れだね」


「そんな気の早い話するなよ。まだ半年ある」


それにまだこの大学に行くと決まったわけじゃないんだし、ともごもごと言った。


「半年なんてあっという間だぜ。現にこの2年あっという間だったじゃん」


そう、本当にあっという間だった。激動の2年だった。


 *

 蒼介とは、1年からずっとクラスが一緒だった。最初の頃は特に親しく話をするわけでもなかったと思う。でも、いつの頃だったか、彼から話しかけてくるようになった。変だ、とは思った。妙に馴れ馴れしくってスキンシップも多い。もともとそういう陽キャという類だということは分かっていたけれど。何かと僕とペアを組みたがるし、僕のところによく来るし。僕だけに対する特別感、みたいなものを感じてはいた。僕だけに向けられたものじゃないだろ、きっと皆にもやっていることだ、思い上がるな、と内心ではその気づきを否定していた。それでもやっぱり感じ取ってしまう。そして、それは確信に変わった。


2年冬。


僕は彼に告白された。


放課後体育館裏に呼び出されて、「好きです」って、そんな恋愛漫画みたいな話じゃない。


放課後の教室に残って勉強していた時。


彼は前の椅子に跨ってこちらを見ていた。


集中して勉強したいのに、どういうわけか緊張して頭が働かなかったのを覚えている。


「好きかも、おまえのこと」


藪から棒に、彼は言った。訳が分からなかった。彼の心情を全くもって理解できなかった。


「友達として、ってこと? 」


恐る恐る聞いてしまった。


違う、と彼は僕の目を見て言った。


「友達以上の、もっと特別な感情がある」


彼がそう言った時、僕は目を逸らしてしまった。彼の学ランの第2ボタンを、見ていた。彼のこのボタンの行く先は、異性じゃなくて同性なのだと悟った。


「おまえのことが、好き」


僕が持っていたシャーペンがやけにゆっくりと落下していった。


ごめん――。


僕は、異性愛者だ。君を、そういう目で見ることができない。


でも、僕はズルい奴だった。彼のことを性的な意味で好きじゃなかった。ごく普通の友達として、彼を好きだった。それなのに、僕は――。


彼の特別を他の誰かに奪われたくなかった。


僕だけのものにしてしまいたかった。


この関係を、終わらせたくなかった。


だから、僕は――。



僕は、最低な人間だ。


 *

 冷たいコーヒーで喉を潤す。爽やかな苦味が広がった。


「生き返ったー」


大げさにそんな事を言ってみる。


「喉元、エロい」


彼が指と指の隙間から覗き込むようにこちらを見ていた。そうかな、と言うと、俺もやるから見てて、と僕の持っていたコーヒーを取って飲んだ。


開襟シャツから顕になっている喉元。日焼けした小麦色の肌。喉仏が大きく上下する。男を象徴するもの。多分エロいというのはこのことなんだろう。


やっぱり、僕には分からなかった。彼とは、いろんなことをしてみた。けれど、どこまで行っても、僕は彼とは違う。


ごめん。


僕は、君の特別に相応しくない――。



積み上げてきたものを壊すのが怖かった。


だから、僕は嘘を吐いた。


悪いのは、僕を好きになった彼じゃない。


結局、総てを無茶苦茶にしてしまうのは僕だ――。



僕に、彼を振る勇気はなかった。彼の悲しむ顔を見たくはなかった。友情の壊れる瞬間に立ち会いたくなかった。だから、自然消滅という手を選ぼうと思った。彼の希望する大学を人づてに聞いて、僕はそこから離れた場所の大学を探した。


僕は卑怯だ。結局、僕は向き合わず、逃げることを選んだ。トンだクズ野郎だ。分かってる。分かってるけれど。


僕は、自分を守ることで、精一杯だったんだ。



「離れ離れになっても、続ける? 」


突然、彼が言った。どきりとした。


「……どうだろう」


問題に集中している風を装って、適当に流す。


「先のことなんて、分かんないよな」


彼が自嘲めいた笑みをふっと浮かべ、窓の方を見やった。それから思い立ったように席を立ち上がった。


「今のうちに思い出いっぱい作っとかね? 」


会えなくなった時用の写真とか、俺欲しいし、と彼はスマホのアルバムをスクロールしながら言った。多分彼のカメラの中は僕だらけだ。そういう関係になってから、外に遊びに行く時、彼はよく僕の写真を撮っていた。思い出なんて、所詮ただの足かせだ。そいつのせいで情が湧いて切るに切れなくなって破滅に向かう。面倒くさい代物だ。僕は彼の写真を撮ったことはない。記憶の隅に、少し残しておくだけで充分だ。こういう考えの人を、世間的には冷たいとか最低だとか言うんだろうな。僕みたいな奴だと特に。


「ほら、笑って。ピース」


彼がスマホを天井の方に突き上げた。シャッター音が鳴る。


撮った写真を見せてもらった。


ツーショット。


満面の笑みの彼と、引き攣った顔の僕。


なんて無様な顔だ。



 「俺、そろそろ帰るわ」


彼が言った。


「集中してるとこ、邪魔して悪かったな」


邪魔だなんて、そんなこと思ってない、そう言おうとしたけれど、言葉にならなかった。ただ頷くだけ。


「お互い、頑張ろうな」


実にありきたりな台詞だった。うん、と今度はしっかり声を出すと、彼は頬を緩めた。僕の肩をぽんと叩き、教室を出ていく。


静かな教室に、僕だけが取り残される。


再び、僕はノートに目を落とす。新しい問題が書いてあった。いや、見慣れた問題だった。何度も解き直しているのに、今だに最適解を見つけられないでいる問題。


ノートの端っこに走り書きされた文字。



『離れ離れになっても、ずっと好きだから』



あいつらしい稚拙な文字。いつの間に書いたんだろう。何だか付き合いたてのカップルみたいな初々しさを感じる言葉だ。そして、僕にとってはずっと悩みの種となっている言葉。


放棄することが果たして正解なのか。いつまでも逃げてばっかりでいいのか。


分かっている。僕が間違っている。でも、その過ちを認めてしまうのが怖い。


立ち上がって窓の外を見る。からりと晴れた夏空。痛々しいほどに真っ青である。


その下に彼がいた。デイパックを背負ったツンツン頭。一発で分かった。彼もこちらの視線に気づいた。彼は、小学生みたいに無邪気に手をブンブン振った。


弾けんばかりの笑顔を、こちらに向けていた。



駄目だ、このままじゃ――そう思った。


あいつは、こんなにも真っ直ぐ僕のことを見てくれているのに。


真面目に、真正面から向き合ってくれていたのに。


それなのに僕は、あいつから目を逸らし続けた。


不真面目なのは、他でもない、僕じゃないか――。



缶コーヒーに口をつけて、勢いよく飲み干した。


苦い、とびっきり。でも、それでもいい。


彼のいるところに駆け出す。


今すべきことは何か。誰かに模範解を教えてもらわなくたって、もう分かる。



総てがまだ青いうちに、手遅れになってしまう前に――



「君と向き合うこと」だ。



将来役に立つかも分からないような数学なんて二の次だ。


今はこの一瞬に集中したい。


どんな結末になったとしても、逃げずに向き合うから――。



滴り落ちる汗をシャツで拭うと、丁度彼の後ろ姿が見え、頬が緩んだ。


何だよ、最高じゃねぇか、って。


ありったけの声で彼の名を叫んだ。


「蒼介! 」


【了】






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