母の死んだ家

サトウ・レン

あの家の記憶

 私には不明瞭な記憶がある。

 母親を殺した記憶だ。夢か現実かも分からないその曖昧さをよすがにして、ずっと勘違いだ、と言い聞かせながら生きてきた。



 蝉時雨の降る八月、例年よりも暑い夏に体力を奪われながら、私は一篇の怪談を書こう、と思い立った。

 私の活動する小説投稿サイトで、怪談コンテストが開かれていたからだ。実話でも創作でも構わない、という触れ込みだったので、せっかくならば実話を書いてみたい、と思いながら、しかし私自身の人生の中に、それほど怖い体験はない。もう忘れてしまっているだけなのかもしれないが、思い出せるのは、かつて関西に住んでいた頃、入院した病院で、壁にべったりと付く、おおきな血の跡を見つけてしまったことがあるくらいだ。


 だから私はXで怖い話を募ってみることにした。相手から許可をもらって、体験談、という形で文章を書き起こそうと思ったのだ。私はXにポストする。この名称にはまだ慣れない。どうしてもツイッターにツイートする、と書きたくなるが、いつかこの感覚もなくなっていくのだろうか。


【実体験の怖い話、探しています。もしも知っている方がいれば、DMをください】

 私のポストに対する反応は、ほとんどなかった。素っ気なさが原因、というのは分かっているが、過剰な言葉を並べ立てる気にはなれなかった。


 そんな中、私のもとに、ひとつのDMが届いた。アカウント名は伏せておく。


『こんにちは。私、○○と言います。サトウさんのツイートを……、あぁいまはポストと言うのでしょうか。ポストを見て、どうしても伝えたいことがあり、メッセージを送らせていただきました。実は私の住む家に、中年女性の幽霊が出るのです。大体、六十代くらいでしょうか。真夜中だったので、最初は夢を現実と勘違いでもしているのかな、と思っていたのですが、いやでもあれはやはり幽霊なのでは、と最近は悶々とする日々を送っています。女性の幽霊はいつも、「なんで殺したの、なんで殺したの」と私に語りかけてくるのです』


 その言葉を見て、私はどきりとした。

『夢を現実と勘違い』『「なんで殺したの」』そんな言葉が、私の過去の暗く曖昧な記憶を呼び覚まそうとする感覚があったからだ。封印していたはずの、私の記憶。そんなはずはない、と首を横に振りながら、私はそのアカウントの主とやり取りを続けた。はっきりと言われたわけではないが、おそらく彼は男性だ。


 やり取りする中で、彼は、

『もし良かったら、私の自宅まで来ませんか』

 と言った。私は驚いた。あまりにも不用心過ぎはしないだろうか。ただすこしやり取りをしただけの人物に、住所まで教えてしまう、というのは。それともSNSで密にコミュニケーションを取ろうとする人間にとっては、これくらい当たり前なのだろうか。いつもの私なら即座に断っていたはずだが、この時の私は断ることができなかった。


 彼の住所には見覚えがあった。そこは長く訪れていない北陸の片田舎で、私にとっては馴染みの深い場所だった。

 そこは私がかつて生まれ育ち、少年時代を過ごした家のあった場所だ。

 母が死んだ家でもある。


 これはイタズラだろうか。それとも奇妙な偶然だろうか。しかしイタズラだとして、なぜ、彼は私の昔の住所を知っているのだろうか、という疑問は残る。私はみだりに個人情報を発信してはいないし、仮にしていたとしても、すくなくとも生家の情報が分かる類のものではない。だから腑に落ちなくても、私は、偶然だ、と判断することにした。イタズラのほうが別種の、それ以上の怖さがあるからだ。


 私は、彼の家を訪ねる決心をした。

 もちろん不安はあったが、このまま行かずに無視すると、いつまで吐き出せないわだかまりが残りそうな気がしたのだ。ひとりでは不安だったから、友人を誘ってはみたものの、みなすでに社会人、掴まる者は誰もいなかった。


 郷里へと向かう電車に揺られながら、どうせすぐやむだろう通り雨をぼんやり眺め、私は古い記憶をたどっていた。あの家で過ごした時代のことだから、もう二十年以上もむかしの話だ。私が住んでいたのは小学校の高学年くらいの年齢までだ。駅を出ると雨はもうやんでいて、陽光が差していた。バスに乗る。窓越しには懐かしい景色が広がりはじめているわけなのだが、あまり懐かしい、という感覚はなかった。それは十年ひと昔で、風景が変わってしまった、という意味ではなく、たぶん私の記憶がそこまで鮮明ではないからだろう。


 バスを降りると、もう目的地まで歩いて数分というところだ。

 かつて私の家には、祖父母と両親、そして私の五人が住んでいた。祖父は私が幼稚園にいた頃に、病気で亡くなってしまった。続くように祖母は、私が小学校に入ったばかりの頃、自転車に轢かれて頭を打ってしまったことが原因で鬼籍に入った。私と両親は三人にはなってしまったが、両親との付き合いはまだまだ続くのだろう、と子どもながらに漠然と思っていた。ただいつだって死は、唐突にやってくる。


 おおらかで放任主義だった父に対して、母はとても厳しく、あまり他人の感情の機微が分からないひとだった。そしてときおり感情を爆発させ、他者にぶつけることのあるひとでもあった。


 あれは確か私が小学校四年生だった頃だ。でも自信はない。もしかしたら五年生か六年生だったかもしれない。

 私には仲の良かった友達がいた。本名を出すわけにはいかないので、仮にSくんとしておこう。誰にでも分け隔てなく話して、クラスの人気者だった彼は、引っ込み思案だった私にもいつも楽しそうに話し掛けてくれて、子どもながらに自然と気配り上手なその姿は、私の憧れだった。ちょっとしたヒーローくらいにも感じていた。


 小学校四年の時、私の誕生日に、何人かが誕生日プレゼントをくれたことがある。


「なぁ、これたいしたもんじゃないんだけど」

 と言って、彼が私に手渡してくれたのは、一冊の児童書だった。それは有名なミステリ作家が書いたホラー作品で、よく児童向けのミステリやホラーを読んでいた彼らしい、プレゼントだった。


「ありがとう。大事に読むよ」

 そう言ったけど、私がその本を読むことはなかった。私が読む前に、母が捨ててしまったからだ。母と彼の母親は、いわゆるママ友になるわけだが、あまり折り合いが良くなかった。捨てる数日前、母は彼の母親から嫌味を言われたらしい。おそらく彼の母親からすれば嫌味のつもりもないような、たいしたことのない言葉だったはずだ。母は他人の言葉に過剰反応するひとだったから。


 私はその夜、母と大喧嘩になった。喧嘩する時の母は、子どもよりも子どもになる。

 夢か現実かも分からない、ひとつの記憶がある。


 喧嘩も一区切りが付き、ふてくされたように眠る母を見ながら、私はその首を絞めたいという感覚に襲われた。どうしてもそうしなければいけないような感覚に、気付けば私は、その首に向かって手を伸ばしていた。


 翌朝、母は死体になっていた。

 静かに葬儀は進み、父はずっと意気消沈していた。私を責める者は誰もいなかった。いやそもそも私が本当に首を絞めたのかも、それが死のきっかけになったのかも、実際のところ、何も分からないのだ。だって母の首に、絞められたような痕なんて残ってもいなかったのだから。


 本当だろうか。私は勝手に自分自身の記憶を捻じ曲げていないだろうか。


「お母さんは病気だったから」と父は私に言った。何の病気かは教えてくれなかった。あるいはもしかしたら、私が殺した、という事実を父がもみ消そうとしたのでは。なんて考えながら、私は思わず笑ってしまった。安っぽいフィクションの観すぎだ。


 あのアカウントの人物から、中年女性の幽霊を見た、と聞いた時、私が想像したのは、母だった。


 そんなことを思い出しているうちに、目的地に着いてしまった。一軒家が建っている。私の家が取り壊されて、新たに建てられた家だろう。古めかしい造りだったあの頃の私の家はなく、現代風の平屋になっている。住所はここで合っているはずだが、事前に聞かされていた彼の名字と表札に掲げられた名字は違っている。どういうことだろう。


 とりあえず、インターフォンを押してみる。

 玄関から出てきたのは、六十代くらいの女性だった。生きていれば、母も同じような年齢のはずだ。もしかしてこのひとが、○○さんだろうか。本名は事前にフルネームで聞いていて、私は勝手に男性と勘違いしていたが、女性名として読むこともできそうな名前だ。表札と違うのは、偽名か何か、なのかもしれない。


「すみません。○○さんですか?」

「いえ違いますけど」

 女性は眉間にしわを寄せている。


「○○さんは、ご自宅には」

「この、ご自宅には、私しかいません」

「ひとり暮らしですか?」

「主人が去年、亡くなったので」

 言葉は冷たいが、質問にはちゃんと答えてくれた。


「実は○○さんという知り合いがここに住んでいて、家に来ませんか、と誘われたのですが、○○さんという方に心当たりはありませんか」

「ありません。そんな名前、一度も聞いたことがありません。住所を書き間違えたんじゃないですか。よくあることです」

 そんなよくあることでもないはずだ。


「そうかもしれません。すみませんでした。あの……」

「まだ、何か?」

「ここに幽霊が出たりしませんか、その……中年女性の」

 言ってしまった、と私は言った瞬間から、もう後悔していた。さすがに失礼すぎた、と。それでも聞かずにはいられなかったのだ。


 女性は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに表情を冷たいものに戻して、

「そんなものはいません。失礼ですよ。気持ち悪い。帰ってください」

 私は頭を下げ、かつて私の生まれた土地から離れた。


 気持ちの整理が付かないまま、私は自分がいま住むマンションへと帰った。徒労感とともに結局、今回の件はなんだったのか、と思考をぐるぐる回していた。そしてある程度、冷静になった段階で、ようやく私はスマホからXを開き、件のアカウントにメッセージを送ることにした。もやもやを残したまま相手に連絡すると、変なことを書いてしまうのでは、と不安があったからだ。


 だけどDMの履歴を確認しても、彼のアカウントはなく、私たちのやり取りは残っていなかった。彼のアカウントがないか、とアカウント名で検索しても、本人らしきアカウントはなく、似たアカウント名が見つかるばかりだ。アカウントを消してしまったのだろうか、と思ったが、そうではないことに気付いた。なぜなら私が念のために撮っておいた彼とのやり取りをスクショした画像まで消えてしまっていたらだ。そう、私と彼がやり取りした過去そのものが消えてしまっていた。


 消えた? 本当に?

 消えたのではなく、そもそもあんなやり取りなど、最初からなかったのではないか。母が死んだ時のように、夢か現実かの区別が付かなくなってしまっているのではないか。


 私はいま不安に怯えている。

 もしもこれを読んでいるあなたがたの中で、私とこんなやり取りを経験した、という記憶がある者がいれば名乗り出て欲しい。私は別に怒っていない。


 ただ真実が知りたいだけだ。



〈追記〉


 これは後日談になるのですが、作中のアカウントと同一人物だと思われるアカウントより、ふたたびメッセージが届きました。

 以前のやり取りについて話すと、彼は何も覚えていませんでした。では、『なぜメッセージをくれたのか』と問うと、私の作品を読み、どうしてもメッセージを送らねば、という感情に突き動かされた、とのことでした。本当に彼は何も覚えていなかったのでしょうか。本当でしょうか。嘘をついているのかもしれません。いや嘘に決まってる。

 許せない。絶対に。

 この文章を書きながら、私ははらわたが煮えくり返るような心持ちでいます。嘘だったのだ。どこから? あぁそうだ。私が彼の家にたどり着いた、あの時点から。そう、家主は嘘をついていたのだ。今度、私はもう一度、あの家を訪ねようと思っています。たとえ家主が拒んだとしても、それは嘘なのだから。

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母の死んだ家 サトウ・レン @ryose

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