ほるにっせ
ムラサキハルカ
夏の日々の思い出
ある夏休みの午前中、
バナナを餌にすれば、クワガタやカブトムシがザクザクとれる。木にかけられたビニール袋に入ったバナナに群がる魅力的な昆虫たちの群れは、朝太を興奮させるには十分だった。
朝太の住むマンション。そのすぐ近くには古ぼけた神社の裏は木々に覆われた山になっていた。マムシ注意という看板が立てられた茂みは、夥しい未知の昆虫の存在を窺わせた。
森があるなら、きっとかっこいい虫がいる! 夏になるたびにこんな期待が膨らませては、友人や近所のお兄ちゃんたちを引っ張るかたちで虫取りに行き、気が付けばおびただしいアブラゼミハンティングをしているというのが、小学生高学年の今現在にいたるまでの朝太の虫取りに対する実情だった。茂みの中でもせいぜい少しばかり珍しいセミを見るくらいで、派手な虫を見かけることはなかった。そしてこうした森の中への大冒険は大抵、神社の職員や神主にみつかって追い立てられたり、ハチの群れに襲われ終了した。
裏山から出たあとは大抵、太い道路一本を境としてある小さな公園の草原や木で虫取りをする。そちらに関しては、綺麗なアゲハ蝶やカマキリ、カミキリムシやタマムシなど戦果も悪くなかったが、朝太の中で、テレビや図鑑、デパートの特集コーナーで見かけるような、虫を捕ってみたいという欲望をより膨らませることとなった。
こうした経緯もあり、今朝のテレビ番組で扱っていたバナナを餌にする狩りにはおおいに希望を抱いた。
きっとオオクワガタだってとれる。そう意気込んだのも無理はない。
その日の夕方、朝太は近所の公園のぶっとい木に、細かく切り分けたバナナを入れたオレンジ色のネットを、タコ紐でくくりつけていた。
なぜ、裏山の木に仕掛けなかったかといえば、つい数分前に神主にみつかって睨まれたからに他ならない。ここで同志たる近所の友だちが数人いれば、攪乱作戦をしかけ、仕込みだけでも済ませられたかもしれなかったが、夏休み中とはいえ日曜日だったせいか、ほとんどが親と出かけてしまっていた。残った数少ない暇そうな子供たちに、絶対にとれるから、と力説したものの、チョウちゃんって乗せられやすいからなぁ、という絶妙な信頼の無さから、誰も付き合ってくれなかった。
おれって、もしかして友だち少ないのか? 微妙に自尊心がぐらつきつつも、粛々と仕掛けを作成していく。夏場の熱にやられてバナナがやや腐りかけのものだったのと、ちょうどいいビニール袋がみつからず、どこからかでてきたみかんを包んでいた赤いネットで代用することになったものの、朝太自身はこの狩りの成功を疑っていなかった。当初に予定していた仕掛ける場所でないという問題も、比較的神社の裏山が近い立地条件である以上、大物な虫たちもたやすく飛んでこられるだろう、と思っていた。
もしも、オオクワガタがとれたらどうしようか。すっごい金になるらしいし。そしたら、ステーキ何枚も注文できそうだな、ふへへ。
後半は欲望が駄々洩れになりつつ、仕掛けを終えたところで一息をつく。
ふと、背後から視線を感じて振り向く。
立っていたのは半そでの黒いセーラー服を着た少女だった。年齢はよくわからないが、着ている服からおそらく中学生か高校生なんだろうと判断する。
ニコニコしながら朝太を見つめる少女の目はどこか糸のように細く、穏やかな印象を与えた。その印象とは対照的に、左右両側に結われた髪はオレンジ色でやたらと目を引いた。夕日で染まっているのだろうかと一瞬、疑いかけたものの、何度か確認した末に見間違いなくオレンジだと判断する。
それにしても、だ。少女は綺麗な顔立ちで微笑んだまま、朝太を見ていた。見つめ返しても、目を逸らさず態度を変えない。
「あの」
この人はなんなんだろうか。当然の疑問を抱いた朝太が尋ねると、少女は結った髪の左側に細長い指先をかけた。
「なに?」
「お姉さんは、なんでおれのことを見てんの?」
「みちゃいけない?」
「いや、そんなことないけど……」
どうにも、話が噛みあわない。
やりにくさをおぼえる朝太に少女は気を悪くした様子も見せず、赤いネットに包まれたバナナを指さした。
「それ」
「はい」
「たべたい」
一瞬、何を言われているのかわからずキョトンとする。そして、わずかな時間で頭の中に言葉の意味が浸透したところで、首を横にぶんぶんと振った。
「ダメだよ」
「なんで?」
「おれ、これでクワガタとるんだから」
「くわがた?」
どことなく慣れない調子で単語を口にした少女は、なにそれ、と付け加えた。
まじで言ってんの? 同じ国に住んでいてクワガタを知らない人間がいるというのは、朝太の中で大きな衝撃として迎え入れられた。
「本当に知らないの」
「うん」
応じる少女の言を、本当らしいと判断した朝太は、見てて、と口にしてから、木の枝を筆に見立てて、地面にクワガタの絵を描いていく。終業式でもらったばかりの通知表でも、図画工作は◎をもらっていたので、それなりに自信はあった。そして、午前中にテレビで見たばかりのオオクワガタを思い出しながら線を引いていけば、いかにもそれらしい絵を描くことができた。
「こういうの。見たことない?」
「ああ……これか」
少女は腑に落ちたらしく、屈んで絵を眺めていた。
名前を知らなかっただけみたいだ。朝太の常識的にはそれだけでも十分に奇妙だといえたが、あまり突っこみすぎるのもどうかと思い、わかってくれた? と言うに留めた。
「うん」
「だから、おれはこれでクワガタをとって……」
「くるかなぁ」
さも不思議そうといった調子で少女が口にする。出鼻をくじかれた朝太は、女性を睨みつける。
「おれのシカケはカンペキだろ。だったら、クワガタだって」
「それ、おいしそうだから」
少女はネットに包まれたバナナを指さしながら言う。
「おいしそうだからいいんだろ。だから、クワガタも」
「みんなそれをおいしそうだって思ってるから……」
口にしてから、少女は地面に描かれたオオクワガタの絵を見下ろす。
「これがくるとはかぎらない」
言われてみれば、当然の疑問だった。少なくとも朝太はこれまで近所で野生のクワガタを見たことがない。深い茂みがある裏山なんだからいるに決まっている、という希望に身を任せているだけ。むしろこれまでの傾向からすれば、今まで見たことのある虫の中でバナナを好物とするものがやってくる方が断然ありえそうだった。
「やってみなきゃわかんないだろう」
「それは……そう」
「だったら、おれは明日の朝まで待つよ」
朝太の冒険心を支えるのはこの、やってみなければわからない、という希望だった。クワガタは来るかもしれないし来ないかもしれない。まだ、確定していない可能性に縋りつきつつも、なんとしてでもクワガタやカブトムシがやってきて欲しいと思う。
「そう……」
その答えに何を思ったのか。少女は朝太の方へと一歩、距離を詰めた。
おお、やんのか! 少し前に、父親所有の古い不良漫画に出てきた不良を思い浮かべながら睨めつけつつも、急にやってきた自分よりも大人と思しきお姉さんの迫力に明らかにたじろいでいた。少女は朝太の顎に指先をかけた。どことなく黒く汚れた細長い指だった。
「じゃあ、あしたまで、それはたべない」
「ああ、うん。はい……」
間近に顔を寄せる年上のお姉さんにどぎまぎしつつも、なんとか返事だけはする。そのかたわら、朝太の心の冷静な部分は、いやいや明日になってもお姉さんにはあげないから、と叫びたがっていた。ちょっと腐り気味のバナナなど、人に振舞えるものではないのだから。
「もし、それ、がなくなってたり、すくなくなってたら」
顔を反らし気味になっている朝太の耳に、少女は顔を寄せる。
「ちょうだい、ね」
なにを? という素朴な疑問は不思議と出てこなかった。ただただ、朝太は頷いていた。我慢してくれるのだから、もしも、お姉さんに報いれないのであれば、代わりのものをあげよう。そんな思考に基づいて。
近くの木からはどことなく控えめなアブラゼミの声が響いている。女性が舌なめずりをした。
「みていたのはね」
少女が口にしたことが何を指すのか、一瞬、わからなかった。そんな気持ちをどこまで理解しているのか、彼女は朝太の唇を細い指の先端でなぞる。
「おいしそうだったからだよ」
言葉にこそ出ていなかったが、朝太は、おいしそうだったからだよ、の前に、君が、という主語を聞いた気がした。
夜中。帰ってすぐに疲れて眠ってしまった反動か、目が覚めた。
仕掛けはどうなっているだろう?
寝転がりながら時計を見れば、まだまだ朝まで大分、間があった。寝直そうとしたものの、大分頭がすっきりしてしまっているため、なかなか、眠気がやってこない。
ふと、両隣を見やれば、父が大きめのいびきを、母が微かな寝息をたてていた。
しばらくの間、両親が起きる気配はない。朝太はごくりと唾をのむ。
カブトムシもクワガタも夜に活動している。テレビ番組や子供用の本で得た知識を思い出す。
ひょっとして、ちょうどいいのでは? 思いたってしまえば、衝動は止められない。なるべく、気配を殺すよう心がけて布団を抜けだすと、素早く着替えを済ませ家を出た。今のところ、勝手に夜に外へと行く言い訳は思いつけなかったものの、とにかくクワガタが仕掛けにかかっているはずだという確信が、公園への足を急がせた。
大人に見つからないよう忍び足、それでいて足早で歩くこと数分、公園にたどり着いた朝太は、懐中電灯で仕掛けをしたはずの木の辺りを照らしていく。
光に集まるらしいから、こっちに飛んでくるかもしれない。そんな妄想をしている間に、バナナをしかけた木をみつける。その手前には、少女が座っていた。薄暗くて見えにくかったものの、両側に髪を結んでいるところや、服装の色合いが同じだったのもあり、夕方に話した彼女だと判断した。
少女は両手でなにかをコネコネすのに夢中になっていたが、程なくして、懐中電灯の光に気付いたらしく顔をあげた。相も変わらず糸みたい細められた目を向けたあと、再び手元へと集中しはじめた。
なにをしているんだろう。疑問はあったものの、朝太は女性の横を通って仕掛けになにかがかかっていないかを確かめようとする。だが、ぱっと見たところ、カブトムシやクワガタはおろか、コガネムシやアリすらいない。期待が大きかっただけに、ただならぬ失望にため息を吐きそうになる朝太に、
「すごいね」
何に感心しのだろうか? 少女がそんなことを呟く。
「なんのこと?」
「さっきいってたこれ」
「これ?」
何のことかわからないまま復誦してから、そういえば彼女が、クワガタを、これ、と呼んでいたなと思い出す。
「きたね」
きた? ……! 来たって言ってるのか? 少女の物言いには相も変わらず、よくわからないところはあったものの、どうやら、クワガタは仕掛けまでやってきたということだろうか。そこまで読みとったところで、では、そのクワガタは今どこにいるんだろう、という疑問が湧く。
「それで、クワガタは」
問いかけに、彼女は不思議そうに、ううん? と唸る。
「あるでしょ」
「ある?」
「うん」
朝太の言を肯定しながら、少女はコネコネを再開する。
ある、と言った。そこから考えれば、彼女にははっきりとわかるかたちで、クワガタはここにあると見て間違いないだろう。では、どこに? 不思議に思いながら懐中電灯とともに辺りを見回す。すると、少女の足元にいくつか小さく丸いものが転がっていた。
でっかいダンゴムシ? それとも泥団子? ピンぼけたことを考えつつ照らしてみれば、どうにもそうではなさそうだった。そして、彼女が今やっているのは、この小さく丸いものの作成なのだと理解する。
ふと、朝太が思い出したのは、先日、母の手伝いで台所に立った時に、こねこねとハンバーグの種を作った時のこと。今の少女の手の動きとも、重なる。まさか、と思い、照らしたまま近付けば、何かの肉のようなものを丸めたものであるのがうかがえた。途端に背筋が寒くなる。
「まってて」
彼女は楽し気な様子のまま、コネコネコネと手を動かす。
「これが、たぶん、いちばんおいしい」
かるのも、たいへんだった。こころなしか感慨深げに呟きながら、団子を形作っていく。朝太は、少女の手元にある丸いものの正体を半ば確信しつつも、
「今、お姉さんが丸めてるのが、クワガタ?」
尋ねざるをえなかった。彼女はきょとんとした様子で、
「どっからどう見ても、これはこれでしょ」
と朝太の疑問に、なにを当たり前のこと、をと言わんばかりの態度で応じた。つまりは、そういうことだった。
なんでそんなヒドいことするんだよ! 心の叫びは、未知の恐怖に上書きされる。朝太には少女の心が一から十までなにもわからなかった。自然と後退ろうとする少年の前で、彼女が手を止めた。
「できた」
そう告げるや否や、彼女は一瞬にして距離を詰めてきた。その指先に挟まれているのは、できたてほやほやの、これ製の肉団子。
「はい」
そして、朝太の口元に団子を近付けてくる。雑木林と肉が混じったような臭いがむわっと漂ってくるのと同時に、顔を背けた。
「ほしかったんでしょ?」
不思議そうに尋ねてくる少女の前で、ふるふると首を横に振る。
欲しかったのは生きているクワガタであって、その肉で作られた団子ではなかったが、今の朝太はそこまで口が回らなかった。
「えんりょしないで」
少女の口ぶりには欠片の悪意もうかがえず、細くどこか刺々しい指先で無理やりこじ開けられる。なんとか閉じようとしても、ビクともしなかった。
「めしあがれ」
そう告げられると同時に、クワガタ団子が口内に突っ込まれた。途端に口内に広がった味が付いていないタンパク質そのものな味とどこかじゃりじゃりとした食感が、吐き気がもよおさせた。その間、少女はその力強い手で、朝太の口を開け閉めさせてきたため、飲みこんで済ませることもかなわない。
そんな生き地獄のような時間を経たあと、ようやく解放された朝太の前で、彼女はニコニコしながら、
「これもあげたし、もらうね」
などと告げた。わけがわからないまま嘔吐感を抑える朝太の顎をくいっとあげる彼女。その際、細長くしていた目蓋が開かれ、懐中電灯に照らされる。
楕円形のそれは、光沢を伴った薄茶色のみで染められていた。少なくとも、朝太の短い人生の中で会った人間で、こんな目をしている人間はいなかった。更に、額にも三つの小さな目のような点も見受けられた。
そんな驚きに思考を奪われた朝太の唇に、少女は自らの唇を押し付ける。生温かな感触により考えることを忘れた少年を無視したまま、口の中を舐めあげていく。その際、朝太は何かが吸いあげられているような感覚をおぼえる。なにか大事なものが損なわれていっている……そんな気がした。
どれだけ、そうしていただろうか。唇を離した彼女はニコニコしたまま、
「ごちそうさま」
と口にしたあと、残っていた肉団子を地面から拾いあげた。そして、ぼんやりとする朝太の耳元に、
「また、ちょうだいね」
などと口にする。朝太は一も二もなく頷いたあと、公園から出て行く少女の後姿をぼんやりと見送った。彼女の姿が裏山の中へと消えていくのを確認したあと、口の中に残るひどい味と、心地よい脱力感に身をゆだねる。
肉団子はごめんだったが、唇はまた欲しかった。
そうして夏休みの夜中、朝太と少女の交流は続いた。
出会う度に、吐きそうな味のする肉団子を食わされたあと、彼女の食事に付き合う。暗がりの中で行われる二人だけの時間。肉団子の正体は、日ごとに異なっているらしかったが、怖くて、なにでできているのか確認できなかった。とはいえ、少年にとってはその酷い味の肉塊は、どうでも良かったといえる。
彼女の唇を味わいたい。そのことばかりが、頭の中では先立っていて、もはや当初の目的であったはずの虫取りに対しての興味もすっかり薄れてしまっていた。ただただ、少年の唇を持ってして食事を済ませる少女のニコニコとした笑顔が見て、火照りそのままにぽわぁんとしたかったのだ。
夏の終わりが近付いたある日。
「もう、いらない」
唐突にそう告げられた。その日も例のごとく、夜中に家を抜けだしたあと、ドキドキしていた朝太は、わけがわからず、なんで、と詰め寄った。女性は煩わし気に、
「もう、おいしくなくなったから」
などと告げる。
「おとなのは、まずい」
どことなく蔑むような目で付け加えられては、朝太としても黙りこむしかない。
実際のところ、少女が何を言っているのかはよくわからないままだ。ただ一つはっきりしているのは、もう必要とされていないということのみ。事実、既に見慣れた、光沢を伴った薄茶色の目からは、朝太に対する一切の興味が失われているように見受けられた。
無言で彼女は踵を返す。その動作には何の躊躇いも感じられなかった。直後に、朝太はその体に縋りつこうとする。どうすればいいのかはわからない。ただただ、行ってほしくなかった。
直後、少女の尻が大きく動いた。それに体当たりされるようにして尻持ちをつくのと同時に、腹に焼けるような痛みが広がっていく。何が起こったのかわからずに呆然としている朝太を一瞥することもなく、彼女はいつも通りに裏山の方へと去っていった。
翌朝、公園で発見された朝太は入院することになった。腹の辺りにある虫刺されらしき腫れとそれに伴う発熱が原因だった。後々、両親から聞いたところによれば、命の危機もあったらしかったが、奇跡的に助かったらしい。
もう、虫取りなんて止めなさい、森に入るのも控えるように。父親に厳しく諭された朝太は、ベッドの上で一も二もなく頷いた。実際のところ、虫取り自体への興味はなくなっている。とはいえ、森に入れないのは困った。それでは、目的が果たせない可能性がある。
ならば、どうするべきか。病院のベッドの上でたっぷり考える時間を与えられた朝太は、差し当たっては両親の言う通り、清く正しく大人しく過ごすことに決めた。その甲斐あってか、さほど時を置かず退院することができ、新学期にも間に合った。
教室では、虫刺されで入院したことはもう既に広まっていたらしく、親しい友人たちに無事を確かめられたあと、オオクワガタは捕れたのか、と尋ねられた。
それがさぁ、全然だったんだよ。笑って応じる朝太を、友人たちは気の毒そうに眺めたあと、なんかあったら何でも協力するからさ、と力強く告げたあと、近所の駄菓子屋で豪遊しようとしきりはじめた。それらの友人たちの気遣いに、朝太はニコニコとしつつも、全てはどうでもよくなっていた。そう、もう、虫取りも、両親も、友だちもどうでもよくなっていたのだ。どうでもよくないのは――
新学期が始まってからしばらく経ったあとの夜。両親が寝静まったのを確認した朝太は、外へと抜けだした。まずは公園に向かったが、もう仕掛けがなくなった木の近くには予想通り誰もいない。となればと神社の裏山へと目を向ける。あそこにいるのだろう、と思い、かつての少女の後を追うようなかたちで歩きだし、森へと踏み入った。
当然の深夜の森などはじめてであるうえ、毎回、彼女が侵入していたとおぼしきあたりは、獣道とも言い難いほど細く、ほとんど茂みを切り開くようなものだった。その間、明かりに反応したらしい羽虫の類やとぐろを巻く蛇に遭遇したりもしたが、朝太の心は動かず、ただただ目指すもののために逸る気持ちを抑えきれずにいた。
頬や腕に切り傷を作りながら、宛もなく進んでいく。それでいて、たどり着けるのだろうか、という不安はどこにもなかった。何の根拠もなかったが、歩いた先があの少女に繋がっているはずだ、という妙な確信があったのだ。
そうして歩いて歩いて歩いた先で、一本の大きな木の枝に巨大な逆さ徳利のようなものがつり下がっているのをみつけた。その下の木陰に座りこむのは橙色髪を二つ結びにした少女だった。夏の頃と変わらず、黒い半そでのセーラー服を身につけた姿をみつけた瞬間、走り出す。ただただ、会いたくてあの唇を味わいたくてまた一緒にいたくて――
直後に開かれた彼女の目蓋から薄茶一色の目があらわれ、
「だれ、おまえ?」
――なにそれ?
しびれる体。ぼうっとする。
――しらない。
右腕をもがれた。
――すにちかづいたからやった。よわっちかった。
左腕もひっこぬかれる。
――そこらじゅうにいっぱいいるね。よわっちいのに。
右足を切り裂かれた。
――つかまえても、おいしくないのがさいあくだね、おとなは。
左足が嚙みちぎられる。
――けど、あかちゃんへのみつぎものにはいいかも。
腸がぐちゅぐちゅとかき混ぜられる。
――うん。あかちゃんからのおれい、たのしみ。
内臓がそこら辺に捨てられる。自分の中身がなくなっていく感覚。
目の前には見慣れた女性の顔。その隣にも同じ顔の女性。いっぱい、いる
――そうだね。だから、ちゃんと、おだんご、つくってあげないと。
首に細長い指先がかかる。その際に首に手をかけた女性の顔がニコニコしだした。
思い出してくれたのか、と朝太はほんの少しだけ救われた気分になる。
――しね。
喉笛に鋭い痛み。荒くなる呼吸の中で、朝太の目に最後に映ったのは、顔のそこかしこに赤い雫が付着した少女の、実につまらなそうな顔だった。
ほるにっせ ムラサキハルカ @harukamurasaki
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