駅前の案内所にて紹介された温泉宿は

烏川 ハル

駅前の案内所にて紹介された温泉宿は

   

 今から語るのは、俺が大学生だった頃の話。昭和感もまだ漂う平成初期だから、三十年以上も昔の出来事だ。


 俺がかよっていた大学は京都にあり、東京の実家からでは新幹線でも三時間か四時間くらい。当然ひとり暮らしになるわけで、実家に帰るのは夏休みや冬休みなど、長い休みの時だけだった。

 しかし帰省のたびに新幹線を使っていたら、結構なお金がかかる。片道だけで一万円は軽く超えるほど。

 そこでお世話になっていたのが「青春十八きっぷ」というやつだ。


 特急や急行には使えないけれど、普通や快速電車ならば、二千円ちょっとで一日中いちにちじゅう乗り放題。そんな便利な切符が「青春十八きっぷ」だった。

 今は一枚が五回分になっていて、一人で五日間使ってもいいし、一緒に乗るのであれば五人で一日でも構わないらしい。とはいえ「一人で五日間」も乗るのは、よほどの電車好きばかりかもしれないが……。

 これが昔は少しシステムが違っていて、乗り放題云々の基本は同じでも、切符自体は「一枚が五回分」ではなく、一回一枚の五枚セット。しかも大学生協などでは「五枚セット」を一枚ずつバラ売りしていたので、鉄道マニアでも何でもない学生たちが、帰省に必要な分だけ購入して「青春十八きっぷ」を利用していたわけだ。


 俺も最初は「帰省に必要な分だけ購入」だったが、だんだん二、三枚余分に買うようになった。新幹線で帰省するのに比べたら格安なのだから、浮いた分のお金の一部で旅に出るのもいいじゃないか、と思いついたのだ。

 ほら、俺は元々関東の人間だ。西日本の地理には疎いからこそ、京都を拠点にして出かければ、行ったことのないところばかり。新鮮な面白さがあったのだ。

 でも鉄道マニアとは違うから、電車に乗ること自体を楽しんだり、乗り継ぎに妙味を感じたりするほどではなかった。だから時刻表も持たず、行く先も特に決めずに、ぶらり一人旅というわけで……。


――――――――――――


 その日の俺が乗っていたのは、山奥を走るローカル線だった。

 電車ではなく気動車というやつだ。見た目は電車そっくりなのに、ディーゼルで動くからそう呼ばれるらしい。……というのは小さい頃に鉄道模型を遊ぶ中で得た知識であり、ちょうど模型で走らせたのと同じく、窓枠あたりが朱色で全体はクリーム色という車両だった。

 なんだか子供の頃のおもちゃに乗るみたいな気分で、乗り込む際にはちょっとした興奮もあったけれど、車内のシートに座れば消えてしまう程度。

 窓下の小さなテーブルに片肘ついて、ボーッと外の景色を眺めながら、列車に揺られる。時々は民家も視界に入るけれど、ほとんどは畑や雑木林ばかり。

 のどかな時間を過ごすうちに、何度目かの停車駅のホームで目についたのが、看板に書かれている「温泉」という文字だった。


 行き先も決まっていない一人旅とはいえ、自分が今どこにいるのか程度は、なんとなく意識していた。

 俺の乗る車両がその時走っていたのは兵庫県で、兵庫県といえば関西では屈指の温泉地だろう。温泉の数が関西で最も多いのは兵庫県であり、日本全国の都道府県別ランキングでも上位に入るはず。

 例えば「有馬温泉」や「城崎温泉」も兵庫県だし、そこまで有名な温泉ではないにしろ、そのローカル線の沿線にも温泉地があったらしい。

 そんなことを考えると、急に温泉にかりたい気分となり、俺はその駅で列車から降りるのだった。


 木造の駅舎を出れば、街路樹の植え込みの周りがロータリーになっている。駅前広場……と呼ぶには大袈裟で、数軒の個人商店と安食堂らしき建物が一つ。最も目立つのは駅舎の隣にある観光案内所という有様ありさまだった。

 温泉地というよりも、何もない片田舎みたいな雰囲気だ。でもとりあえず案内所があるならば、そこで尋ねればいいから、今晩の宿については心配ない。最悪の場合、野宿できそうなスペースを教えてもらおう。

 そんな予定を立てただけで、既に今晩の宿を確保できた気分。実際に案内所に立ち寄るのは後回しにして、まずは周辺を少し歩き回ることに決めた。


 駅前から続く一番の大通りは、十数分くらい歩いただけで、商店どころか民家すら見えなくなる。道の両側に広がるのは青々とした田畑ばかりで、その「青々とした」という感じの匂いが、鼻をくすぐるほどだった。

 さらに進むと、左側は相変わらずだが、右手には小高い丘が並ぶようになった。後で温泉に入るのであれば、その前に軽く山登りで一汗ひとあせかくのも気持ちよさそうだ。

 そう思って登山道を探せば、それらしきものが視界に入る。ただし、丘を登る道ではあるものの、その麓には赤い鳥居が立っており、登山道というより神社の参道なのかもしれない。

 俺にしてみれば、どちらでも構わなかった。むしろただ丘を登るよりも上でお参りできる方が、行動目的が一つ増える分、好都合なくらいだ。

 そう考えて、そこから山道やまみちに入ってみる。道なりに進むと、途中でさらに二つ、鳥居をくぐる格好になって……。


――――――――――――


 十分じゅっぷんくらい上がったところで、その参道はおしまいになった。

 たいらに開けたスペースで、普通の民家ならば二、三軒分だろうか。敷地の一部には、寺や神社にありがちな石畳も敷かれており、それっぽい場所なのだが……。

 石造りの建物が、ポツンと一つ鎮座しているだけ。拝殿やら本殿やらの神社らしき建物は全く見当たらなかった。

 他に目に入るのは、右手の奥にある池だ。風呂の浴槽程度の大きさだが、よく見れば半ば干上がって、雨水だけが溜まっている状態だった。

 どうやら現在機能している神社ではなく、とっくの昔に潰れてしまった跡地のようだ。


 それでも「せっかく来たのだから」と考えて、パンパンと手を叩いてから、小屋なのか蔵なのか不明の石造りに対して一礼。

 ちょうどその時、ヒューッと風が吹くのを感じて、一瞬ギョッとする。タイミング的には、何か神様的なものが俺のお辞儀に反応した……とも思えるが、おそらくは偶然だろう。ここは丘を上がった分だけ高台だから、その分だけ風が吹きやすいのだ。

 登りでかいた汗も引いて、肌寒くなってきたので、急いで参道をくだっていく。ふと気づけば、既に夕方も遅い時間。これ以上の散策はめて、駅の方へと戻った。


 駅前広場に着いたのは、午後六時過ぎ。わざわざ時間を確かめたわけではないけれど、木造駅舎の正面に設置された時計が、たまたま視界に入ったのだ。

 観光案内所に駆け込むと、受付窓口にいたのは痩身の男。青白い顔もあいまって病弱そうな印象であり、余計なお節介ながら「こんなところで働くよりも、家でゆっくり休んでいた方がいいだろうに」と思ってしまった。

 ただし当然それは心の中にとどめて、実際に口にしたのは用件の方だ。

「すいません。どこか適当な宿を紹介してくれませんか? なるべく手頃な値段の温泉宿がよいのですが」

「ああ、それでしたら……。ここなんていかがです?」

 痩身の男は笑みを浮かべながら、いくつかの旅館が書かれたリストを示す。宿泊料金も付記された一覧であり、彼が指さしたのは、最も安価なところだった。

 もしも高い宿を勧められたら野宿の方針に切り替えるつもりだったが、これならば大丈夫。俺が満足そうに頷くと、男はニヤリと笑った。

「お客さん、運がいいですね。駅前から送迎バスが出ていますし、ちょうど今なら間に合いますよ」

 彼は受付カウンターから身を乗り出して、駅前ロータリーの左側に指を向ける。

 先ほどは注意していなかったために、視界に入らなかったのだろうか。灰色のワゴン車が一台、いつのまにか駅前に停車していた。


――――――――――――


「……では出発します」

 運転席の男が低い声で呟き、車が走り出す。

 三列シートのワゴン車だが、乗客は俺一人だけ。まるで、わざわざ俺専用に用意された送迎車みたいだ。ちょっと贅沢な気分になりながら、窓の外に視線を向けると……。

 ワゴン車が進むのは、見覚えのある道路だった。ついさっき俺が歩いたところだ。

 田畑ばかりの景色なんて区別できないとしても、遠くに見える山々の配置なども一致するのだから間違いないだろう。

 しばらくして、

「……到着です」

 と運転手が車を停めたのは、あの廃神社があった丘の麓。温泉宿は丘の上にあるけれど、そこまで車は入れないので、ここから徒歩で行くらしい。

 今度は鳥居は見えないから、あの参道とは違うルートなのだろう。そんな山道を登って……。


 辿り着いた先にあるのは、小さな旅館だった。木造の建物で、一棟の安アパート程度の規模だ。部屋数は多くないとしても、温泉地独特の硫黄臭は漂ってくるので、とりあえず温泉があることだけは確実なはず。

「いらっしゃいませ」

 女将おかみなのか仲居なのか、紺色の着物姿の女性が出迎える。すらりとした体つきの彼女に案内されて、客室へ向かった。


 もう夕方も遅い時間だったため、すぐに夕食が運ばれてくる。部屋は少し狭いくらいだが、料理は満足できる味だった。

 食事の後は入浴だ。緑の木々に囲まれた露天風呂で、ぬるめのお湯が心地よい温泉だった。

 入浴中は誰にも会わなかったけれど、貸し切りというわけではないらしい。風呂場までの行き帰り、パタパタと廊下を走る足音が聞こえたように、泊まり客の気配も感じ取れたのだから。

「うん。行き当たりばったりの一人旅で、良い温泉宿に巡り会えたじゃないか」

 布団に入る時には、思わずそんな独り言が口から飛び出したくらいで……。


 何か変だ。

 一種の「虫の知らせ」みたいなものだろうか。

 不思議な感覚にとらわれて目が覚めたのは、一眠りした後だった。

 窓の方へ顔を向けずともわかる。外には夜明けのきざしすらなく真っ暗なので、まだ真夜中に違いない。

 その程度の理解で目を開けた途端、枕元に何者かの気配を感じた。驚きと共に、そちらへ視線を向けると……。

 一人の少女が、俺の顔を覗き込んでいた。


――――――――――――


 暗闇でもわかるほど艶やかな黒髪を、肩にかかる程度の長さにして、前髪はおかっぱ風に切り揃えている。年齢は四つか五つくらい。何かの花をあしらった模様の赤い着物に身を包み、まるで日本人形みたいな雰囲気を漂わせていた。

 動揺が大きすぎると、かえって逆に、頭の一部が落ち着くのかもしれない。冷静に観察する余裕なんて全くなかったくせに、最初の一瞬で、俺はそれだけのことを見て取れたのだ。

 しかも俺の方から、彼女に声をかけていた。

「お嬢さん、部屋を間違えたのかな? ここは君の部屋じゃないからね」

 現代の洋風なホテルとは異なり、昔の和風の旅館ならば、客室に鍵はかからない。隣室の客がうっかり入ってくることも、十分に考えられた。

 ……などと思ってしまうのは、まだ俺が半分寝ぼけていたからだろう。昼間ならばまだしも、こんな夜中に、宿泊客の子供が部屋を出入りするはずもないだろうに。

 その点に俺が思い至るより先に、少女が口を開く。ただし、俺の問いかけに対する答えではなかった。

「見つけた……。ありがとうね!」


 何を「見つけた」のか、何に対しての「ありがとう」なのか、俺には全くわからない。

 戸惑う俺とは対照的に、言いたいことを言っただけで満足したらしく、少女は枕元から立ち去っていく。

 不思議なことに、足音どころか、部屋の戸を開ける音すら聞こえなかった。

 まともな状態の俺ならば「スーッと消えるなんて、あの子は幽霊か?」と驚き慌てるところだが……。

「ああ、座敷童子だったのかな?」

 好意的な解釈の独り言が口から出たのも、きっと寝ぼけていたからだろう。

 そのまま俺は、再び眠りにつくのだった。


 翌朝。

 目を覚ますと、そこは旅館の一室ではなく、薄汚い蔵みたいな建物の中。

 今度こそ驚いて飛び起きて、急いでその蔵からも飛び出して、自分の居場所を確認すると……。

 前日の夕方に訪れた神社跡だった。俺が一泊した蔵は、一つ残されていたあの石造り。あの時「せっかくだから」と二拍一礼した建物だったのだ。


 慌てて参道を駆け降りる。

 三つある鳥居の二番目をくぐった際、ふと頭に浮かんだのが「鳥居は霊道の目印だ」という話。悪霊の出没に悩まされた場合、近所の壁などに鳥居のマークを書くことで、そちらへ霊を誘導することが出来るという。

 ただし「神社は神様の場所だから、霊たちは神社の鳥居をくぐれない」という考え方もあるらしい。神様の通り道という意味での「霊道」だ。

 同じ「霊道」と呼ばれるものであっても、幽霊の通行という観点からは、全く真逆まぎゃくの概念になってしまうが……。

 どちらとも矛盾しない解釈として「神様のいる神社の鳥居ならば、幽霊は通れない。逆に神様のいない鳥居ならば、幽霊は積極的にそこを通る」という考え方はどうだろう?

 この仮説が正しいとしたら、例えばこの神社みたいに既にすたれて神様不在のところにある鳥居は、それこそ幽霊たちを惹きつける絶好のスポットとなるはずで……。


――――――――――――


 丘を降りた俺は急いで駅前まで戻り、前日以上の勢いで、観光案内所へ飛び込んだ。

 中にいたのは、前日とは別人。気さくな田舎のおばさんといった感じの中年女性だった。

「すいません。昨日の人に紹介された温泉宿が……」

「はあ? 何の話でしょうか……?」

 俺の言葉を途中で遮り、彼女は怪訝な顔をする。

「ええっと、昨日の夕方にここを訪れて、その時いた担当の人に、温泉宿の一つを教えてもらって……」

 食事も温泉も問題なかったけれど、夜中よなかにおかしな子供が現れたこと。目が覚めたら神社の跡地に放り出されていたこと。

 そこまで説明したところで、再び話を遮られた。

「ちょっと待って。そもそも、その『担当の人』って、いったい誰のこと? ここに詰めてるのは、いつもあたしだけですよ」


 俺が訪れたのは午後六時過ぎ。そこが大きなポイントだったらしい。

 この観光案内所が開いているのは夕方五時までであり、昨日も彼女は定刻ちょうどに、きちんとドアを施錠して帰ったと主張するのだから。

「え? え? じゃあ昨日、俺が会ったのは……」

「狐か狸にでも化かされたんじゃないですかねえ。お客さん、何かられてませんかい?」

 肩をすくめながら言う様子を見れば、他愛ない軽口なのは俺にもわかる。

 こちらは真剣なのにそんな態度をされると、少しムッとしてしまうが……。ここで怒るのも大人気おとなげない。そう思って、冗談には冗談で返すことにした。

「この辺りの動物って、追い剥ぎみたいな真似するんですか?」

「バカ言っちゃいけません。人を化かすような狐や狸は、もはやけだものでなくあやかしのたぐいだし、あやかしなら人間の金品は必要としない。彼らがるのは、命か寿命に決まってますよ」



 その後。

 あの温泉地を訪れる機会は二度となく、別の場所で幽霊や妖怪っぽいものに出くわすこともなかった。

 あんな不思議な体験は、俺の人生において、あれ一度きり。結局あれが何だったのかも不明のままだ。

 でもとりあえず、こうして俺は、五十代の今もピンピンしているのだから……。もしも案内所のおばさんの言う通り、狐や狸の化け物に寿命をられたのだとしても、そのられた分はごくわずか。人生には影響しない程度だったに違いない。




(「駅前の案内所にて紹介された温泉宿は」完)

   

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