追憶

@keisuke18

追憶

 大海原に、それは突然あらわれた。

 細くて長い針。

 プカプカと水面に浮かんだと思ったら、深く底に沈んでいく。

 自由気ままで、掴みどころがない。

 そんな針だ。


 彼があらわれた理由は、誰も知らない。

 でも、ごく一部の人間だけが、知っているらしい。

 針の誕生を心から喜んでいるからだ。

 とはいえ、針、本人はまだ、自らがそうした状況にあることに気づいていない。

 自分がこうしてあらわれたことを、喜ぶ人がいるだろうとは知っているけれど。


 針の周りには、何もない。

 あるのは、どこまでも続く海だけだ。

 そこは心地よく、幸せで満たされている。

 ずっと、この生活が続くだろう。

 針は信じて疑わなかった。


 ところがある日のこと、針はふと思い出した。

 自分には、課題があったことを。

 それは、映画のワンシーンのように、次々と頭のなかに浮かんだ。

 子どもの頃からの夢を叶えること。

 仕事ばかり優先せずに、子どもと遊ぶ時間を増やすこと。

 妻を大切にすること。

 家族を最優先にすること。

 家族、家族……。


 そうだ。

 針は思い出した。

 人間として生きていた頃、死ぬ間際に何を後悔したか。

 無念だったのは、家族と過ごす時間が少なかったことだった。

 次に生まれかわるときには、家族と過ごす時間を大切にしたい。

 どんなに何かに忙しくとも、家族を最優先にしたい。


 心地よくて柔らかい風が、針に向かって吹いた。

 懐かしくて、とても気持ちがいい。

 針が、そう感じた瞬間、誰かの声やリズミカルで楽しい音楽が聞こえてきた。

 どくんという衝撃とともに、美味しい食べ物が体中を駆け巡っていく。

 針はそれを感じながら、今ここを味わった。


 見たことのない細い線があらわれた。

 それもまた、突然のことだった。

 線は「糸」だと名乗った。

 初めて会ったのに、どこかで会った感じがする。

 油断している隙に、糸はすぐ隣まで近づいてきた。

「やっと会えたね」

 糸が言う。

「ぼくのこと、知ってるの?」

 針がこたえると、糸は、くしゃっと笑って言った。

「ぼくは、君の夢を叶えるために来たんだよ。信じられないだろうけど」

「うん、信じられないよ」


 何が起きているのか、針は、わからなかった。

 そもそも、気持ちが悪かった。

 急に糸があらわれて、くしゃっと笑い、夢を叶えるために来たと言うなんて。

 そんな奇妙な話、聞いたこともない。

 針は顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら糸に言った。

「わけわかんないんだよ、帰ってくれよ!」

 顔に飛んだ飛沫を拭うと、糸は続けた。

「気持ちはわかる。でも、どうしても伝えたいことがあるんだ」

 射るような視線で糸が言うと、針は黙った。

 その迫力が怖かったのだ。


「君はもうすぐ、人間として生まれかわる。いいかい? 生まれるってことはね、大海原に浮かぶ針の穴に、糸が通るくらいの確率なんだ。『生まれたい』と思っても、それが叶わない人のほうが多い。だから、どうか命を大切にしてほしい。そして、生まれたあと、思い出してほしい。なぜ、人として生まれたかったのか、を」

次の瞬間、針の頭にある穴に糸がスッと通った。

「あっ」

 針は全身が温かくなり、意識がもうろうとした。

 穴を通ったはずの糸は、すでに影も形もない。

 でも、声だけ聞こえてきた。

「人間として生まれたら、これまで起きたことはすべて忘れるようになってる。でもだからこそ、必ず思い出してほしい。何を体験したくて、人として生まれたのかを」


 目が覚めて、驚いた。

 その部屋には、すべてが揃っていたからだ。

 彼はぐるりとあたりを見回して、大はしゃぎしたい衝動にかられた。

 毎日ご飯が食べられて、好きなときに寝られる。

 音楽が流れてきたときは踊り、たまに話しかけてくる声と遊ぶのが楽しかった。


 でも、ここにいられるのは、あともう少しだけだろう。

 それは、誰かに言われたわけじゃない。

 なんとなく感覚でわかるのだ。

 そして今日、こんな声が聞こえた。

「早く出ておいで、待ってるよ」

 どこかで聞いた、やさしくて、あたたかな声だった。

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