電車事故――。全線停止路線車両内0805、それから06の夜空を望みながら

一理

電車事故――。全線停止路線車両内0805、それから06の夜空を望みながら

 冷房の止まった箱に閉じ込められてから、もうすでに二時間以上が経過していた。


 前を走る電車が、電柱に衝突したことによる停電トラブルだった。該当の区間を走る上下線の全てが機能停止した、それは運航ダイヤの話だけではなく、電源を用いたあらゆる機能という意味で。


 せめて、夜だったのが際した。真夏である、昼であれば冗談ではなく死人が出ていただろう。


 外には出れない。感電の危険性があるため、車内にてお待ちください――。同じアナウンスがもう数度繰り返されていた。


 今はアナウンスさえ流れなくなった、長い時間が経過した、蒸し暑い箱の中である。


「大変ですね」


 目の前に座る女性が、私に苦笑を向けた。

 そうですね、と愛想の良い返事を返す。愛想の良い。この不都合な空間では、うっかり理性を失いかねないと、そのような人間性が殊更に意識された。


 実際、他の車両ではそのようなことも起こっているかもしれない。夜である、酒を含んだ者もあるだろう。それでいうと、少なくとも先頭車両であるこの箱内は平和なものだった。


「先程は、ありがとうございました」


 礼を受けて、私はなんでもないとまた愛想を表情にした。

 女性の隣には、母にもたれて眠る娘がある。


 車内は蒸して異様に熱かったが、飲み物が配られるなどの対処はなかった。やがて具合を悪くしてしまったこの子に、たまたま封を開けずに持っていた飲料を渡したのだ。

 少女の呼吸と顔色は戻ったが、その限界の姿に冷や汗が出た。一歩間違えればこの幼い少女が、熱中症を発症していた。


 それにしても、まるで異空間である。

 一つのトラブルでここまでの環境が生み出されるということが、なんだか信じられなかった。

 ともすれば、酷く生きにくい環境とは薄紙一枚を隔ててそこにあるということを、改めて認識させられる。――仕事場のクーラーが一斉に故障したあの時も、簡単に地獄が形作られてしまった。


 冷房も失せた頃合いに、アナウンスで窓を開けるよう指示されるや、どう行動してよいのか分からない皆に代わって素早く車両内の窓を開けて周っていた、あの聡い女性のことを思い出す。私もそのような善行に一つ加担できただろうか?


 逆に、なんだか悪戯に喚く輩がいなくて本当に良かったなと、そのことは地獄の中の光のように思っていた。だからこそ、自分もしっかりしなくては、と気も引き締まる。


 ただ、そこからが長く辛い時間だった。

 もう十分に時間は経過したと認識した頃合いから、苦痛がますます重さを確かにして圧し掛かってきた。


 とにかく辛かったが、話し相手がいたのはさいわいだった。

 今日も心身を削った仕事帰りだったが、このような環境では、とても休めない。何も無くただ耐えるというのはいかにも苦痛であったことだろう。


 救急車の音がまた近づいてくる。誰かが熱中症で倒れたのだろうか。無理もない、大勢が倒れないことのほうが不思議なくらいだ。私も相当に疲労している、明日が休日で本当に良かった。


 具合の悪さを申告して救急車に乗ったほうがいくらかマシではないかと、ふとよこしまな考えが過ぎる。自身に活を入れ、この環境の中、目の前で頑張っている幼子を思い、心を強く持つことを誓う。


 時間はまた過ぎた。

 時折吹く風が冷房のように感じられて、もしや、と思うことを数度繰り返して。期待することも少なくなり、ひたすらに耐える体勢をとうに覚悟したその時間の先、ようやっと――、歩行誘導の順番が来たことをアナウンスが告げて、私たちは一息をついた。


 停車した場所が良かった。

 先頭車両が丁度、架道橋が渡された地点に停まっていたため、路線内を少し歩いた先に、雑草生い茂りながらも脇道に抜けれる箇所があって、足場の悪い路線を歩くことにはならずに済んだ。


 都合良く、私たちが乗車したこの車両が、先頭車両であった。

 また二、三、世間話を交わした後、親子に整列の先を譲り、私も立ち上がる。外気の温さを期待しながら、誘導を待つ。


 足場の不安定な組み立て階段に、仄かにワクワクしたものを覚えながら、路線に降り立つ。――海辺を歩いているような感覚に浸る。


 そういえば、海に足を運んだことなど久しくなかったなと、ふと物思いに捕らわれる。

 休日出勤の今日、明日休めば、また仕事である。

 海へ赴く余裕はなかった。


 二本揃えで敷かれた鉄の路線は、踏み締めてみるとなるほど、人を四千人超乗せて走る鋼鉄を支えるに納得のいく安定感が伝わってきた。


 歩道へ出る。停まった電車を携帯で撮影する者が数名集まっていて、架道橋から離れれば、駅へと続く大通りへと抜けれた。

 そこからは誘導もなく、さて、あとは疎らな列を作りながら、夜道を歩いてゆくだけだった。


 先頭車両であることが幸いした。過度の混雑もなく、道にあった自販機で飲み物などを買いながら、私たちはのんびりとその道を歩き始めた。

 駅からの距離を見ても、停止した場所がよかった。せいぜい、駅まで一キロ二キロといったところか。

 もう歩く気力も残らないではないかと、長時間苦を堪えていた車内では考えていたが、いざ外に出てみると開放感が心地よく、むしろ少し歩きたいとすら思えてきたのだから不思議だ。夜道を楽しむにはうってつけな距離を、私は気楽に散策していた。


 適当に、ぶらぶらと歩く。

 藍色の空、本当にいくつかの星、流れる雲、川の流れの香り、祭りの後みたいな、丁度よい、疎らな人の列――。

 歩くうち、想像以上に今を楽しんでいることに気付き、私は一つのことに、思い至る。

 そうだ、こうして気ままに散策をすることさえ、私には久方のことだったのだ……。


 ため息をつき、心地よい夜道を見渡す。


 まあ、いいか、と思えていた。辛かったけれど、今こうして時間を楽しめていることが、本当に幸いであったな、と。


 私は気ままに、夜道を歩いた。

 夜を、楽しんで。

 そう――。


 駅にて、第二の地獄が待っていることは知らずにいたから、その時間を、存分に楽しめていた。



『――――えーJR、JR東海道線の運行状況ですが、現在、運転再開の目途は立っておりません。現在、運転再開の目途は、立っておりません。えーつきましては! タクシーにて料金負担の代行輸送を行っております。定期券、または切符をお持ちの方、タクシーにて、料金負担の代行輸送を行っております。本日、運転再開の目途は立っておりません――!』



 さすがに、想定して然るべき状況であった。


 電柱を破損した路線は機能を失い、本日は動きそうにもない……。


 タクシーの代行輸送を受ける気にはなれなかった。今程、駅の通り道沿いに、テーマパークでも見ないような並び方をしているタクシー待ちの行列を見てしまったからだ。

 タクシーもなかなか来ない様子であったし、路線復旧のほうが絶対に早い。


 かといって、と急いだが――、そう、予感通り、ホテルも漫画喫茶も、もうすでに軒並み満席であった。私たちは三時間近く電車内に留まり、出遅れていたのだ。


 あの親子は大丈夫だったろうか、と考えながら、夜の街を歩く。


 居酒屋も満席、この分だと、カラオケといった他の場所も、見るまでもないだろう。


 とはいえ。

 息苦しさもない。所詮、男の独りである、どうとでもなるという気楽さはあった。


 都合良く、居酒屋の席が空いて、しばらくそこで時間を潰した。


 それから街を歩くに、駅付近の座れるところで時間を潰す者や、もう朝まで飲むことを決めて笑い合う一団、または音楽をかけて踊る若者、その中で、街中で横になって眠る男の姿も多く見られた。


 悲壮感みたいなものは、意外に見られない。


 駅構内に赴いてみれば、疲れ果てた者が床に腰を降ろして眠っていて、そこはトラブルに遭ったそのものの疲労が見えていたけれど。旅荷物を携える者は本当に大変そうだった……。


 外に関して言えば、ヤケクソながらも活気があるくらいだった。……タクシーを待つ、長蛇の列を除いて言えば。


 タクシーなんて無い無い、来ないよぉー、と指示を待ってか、車を路肩に停車させたタクシー運転手の声を聞きながら、さてどうするかと考える。朝まで飲むような気分ではなかった。


 結局、多くの人が集まった、ショッピングモールの玄関口へと足を向けた。

 手頃なところに座って話す者、持ち運び型充電器を差した携帯で何かしらの動画を見ている者、横になって寝ている者も多数ある。


 ショッピングモールの管理者に悪いと思いながら、私も鞄を枕に、横になった。


 ――――空が見える。


 もうずっと、こうしてじっくりと見上げて見ることなどなかった、雲の流れる遥か高い空だ。


 私は今、最近過ごしたどんな休日よりも休日とした、そんな時間を過ごしているのだと今になって気付く。


 ゆっくりと、本当にただ精神を休めてゆっくりとしたことなど、近状では無かったのだと、空を見上げながら、それを理解した。


 今に限っては、街中で横になることを咎める者も無い。それでも倫理的にどうかという話はありそうではあるが、ひとまずは。


 深い夜を、誰に咎められることもなく、じっと見上げながら。

 今はただ、本当の意味でゆっくりとした時の中にいた。


 海に行こう。

 目を瞑りながら、思う。


 別に遊びに行くわけでもない、ただ眺めるだけでもいい、どこかで無理矢理にでも有給を取って、そして一見無意味に、ただ、眺めるためだけの時間を過ごそう。


 本当にそうするかは分からない。


 ただ、今はそれを身近な現実として考えることができて、だから安らかに、私の心は休まっていた。





 結局、朝も明けてから、JR路線の運転が再開されて。


 私は眠気を覚えながらも目の冴えた、そんな心弛びで帰宅路についた。


 家に帰ると、まず真っ先に、この夏日に熱くしたシャワーを浴びて、それからエアコンを利かせた部屋で、眠ることなくもうしばらく、かといって特別な何かをするということもないまま、私は思いがけず体験することのできた、休日の延長を過ごしていた。



 

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電車事故――。全線停止路線車両内0805、それから06の夜空を望みながら 一理 @itiri-yuiami

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