途《みち》

花野井あす


 世界樹の森で、仔鹿こじかが産まれました。

 

 金剛石だいやもんどのようなきらきらとした瞳の愛らしい仔鹿です。

 

 無邪気に「おかあさん、おかあさん。」と言って、母親のお乳をちゅうちゅう吸っています。甘えん坊で心の優しいです。

 

 仔鹿は生れて間もなくして両足で世界を踏みしめます。柔らかな世界の感触の中に仔鹿ははしゃぎます。

 

 あるときは暖かな草花の中に、冷たい石ころや死骨しこつなぞが在って蹴躓つまずいてしまうこともあります。その都度たびにびょおびょおいて、母親に励ましてもらいます。そして元気を取り戻したらまた立ち上がって、野を駆けます。

 

 仔鹿は立派な牡鹿おじかになりました。素敵な角が生えて、体毛なんかも天鵞絨びろうどのように滑らかなで美しくなりました。

 

 母親もたいそういて喜んで、息子を外界そとへ送り出します。鷦鷯みそさざいの歌声が門出を祝っているかのように響いています。

 

 牡鹿は一人になりました。

 

 大きな楠木の間をすり抜け、せせらぐ小川を片目に、何処までも続くつづら折りの細い道を歩みます。駆け上がることもあります。

 

 そのみちの途中で狼の群れや熊の親子に遭遇して、恐ろしい思いをすることもあります。麗しい牝鹿と駆け引きをすることもあります。同じ牡鹿と睨み合いをすることもあります。

 

 牡鹿は足を止めました。

 

 険しく厳しいみち蹴躓つまずいてしまったのです。

 

 鈍色にびいろの空からしとしとと降る雨が牡鹿をとらえます。ぶるぶると凍えながら牡鹿は叫びます。「僕はここだよ、僕はここだよ。誰か僕の元へ訪れておくれ。」

 

 次第に雨脚は激しくなり、世界は真っ白になりました。小鳥たちの話し声も虫たちの呼び声も聞こえません。世界で牡鹿はたった孤独ひとりでした。

 

 牡鹿は恐ろしさと寂しさの中できました。

 

 すると鈴蘭の香りのする風がやってきました。「わたしはお前を確固たしかに知っているよ。お前のそば永遠ずっと在るよ。」

 

 牡鹿は再び立ち上がりました。母親に鼓舞されたあのときのように。

 

 青々とした楠木が暖かな陽の光を浴び、目映い木漏れ日の粒がみちを照らしました。

 

 牡鹿は再び歩み始めます。

 

 きっとまた、牡鹿は何処かで蹴躓つまずくでしょう。されどきっとまた、誰かが牡鹿の背を優しく押すのです。牡鹿は何処までも歩むのです。

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途《みち》 花野井あす @asu_hana

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