七
「入れ」
無機質な声で、目の前の警官が僕に指示を出す。当然逆らう意志などあるはずもなく、僕はとぼとぼと部屋に足を踏み入れる。
「……おお」
場違いながら、変な感心の声が出る。
一面真っ白の殺風景な部屋。一つだけ特徴的なのは、中央のガラス窓を隔てて反対側にも同じような空間があることだ。
ドラマでしか見たことがなかった面会室。そこに自分が当事者として立っていることに、微かな感動さえ感じていた。
「座れ」
ロボットに命令でもするかのように、警官が僕に指示を出す。窓ガラスの前に置かれたパイプ椅子に僕は腰を下ろす。
面会希望者はあと数分で到着する、と一方的に言葉を発し、警官は扉の近くで待機し始めたようだった。凍てつくような視線を背中にひしひしと感じる。
あの日。僕が起こした事件から、既に二週間が経っていた。
電車内で逮捕された後、僕はすぐに近くの警察署に移送された。それ以来、そこの留置場で日々を過ごしている。
すべてが初めての経験だった――まあ、当たり前なのだけれど。刑事の方から何度も事情聴取が行われた。特に隠すこともなかったので、僕が知っていることをすべて話した。そのおかげか、強い剣幕で怒鳴られる、といった事は不思議となかった。
今回の事件が世間に大きく注目されていることは、何となく察していた。テレビやスマホといった端末機器の使用は許可されていないので実際どの程度のものかはよくわからない。だけど逮捕後、日が経つにつれて明らかに留置場を出入りする人の数は多くなったし、警官の何人かが「マスコミが――」とぼやく声を、何度か耳にしている。
目を閉じ、事件の事を思い返す。あたり一面に広がる大量の血潮。生気を失った顔と、恐怖の表情。被害者の方には申し訳なく思うが、不思議と罪悪感は感じていなかった。見ず知らずの二人の人生を奪ってしまったことは悔やまれる。だけどそのおかげで、僕は自分の気持ちに向き合うことが出来た。むしろ感謝しているくらいだ。
知ってしまった。今もなお胸を覆いつくす、温かな想い。あの日から頭に思い浮かぶのは、事件の事よりも彼女の事だった。
彼女の事を考えるたびに、体が熱くなる。あの日見た彼女の悲痛な表情を思い返す度に、鼓動が高くなる。
遠くから聞こえる足音が、僕を現実に引き戻す。どんどんこちらに近づく足音は、件の面会希望者のものだろうか。
面会を希望する人がいる、と告げられたのは今朝、僕が留置場で食べられなくはないが決して美味しくはないご飯を飲み込んでいた時だった。
誰が来るのだろう。結城さん――はまずないだろう。今回の事件は、彼と交わした契約を大きく違反した結果でもある。きっと向こうは僕の顔なんて見たくないだろうし、僕も見せる顔がない。
それなら祥太?彼とはあの事件の後から、常々話したいと思っていた。毎日のように僕の事をおちょくっていた彼に、素直に僕の気持ちを伝えたらどんな顔をするだろうか。父親を失ったばかりでまだ辛いこともあっただろうが、ようやく心の整理がついて会いに来てくれたのかもしれない。
扉を開ける音が、僕の思考を現実に戻す。開かれたのは僕の正面にある部屋のドアだった。
最初に入ってきたのは壮年の刑事だった。刑事だと分かったのは、彼が何度か僕の取り調べを担当していたからだ。名前は確か、逢野秀秋、と言ったか。
部屋に入ると彼は外に視線を向け、扉の外にいるであろう人物を中へ促した。
時間の流れが遅くなる。
彼女が、入ってくる。
血色の良い健康的な肌。魅惑的な細い足。控えめに主張する小ぶりな胸。雫のように光る漆黒の瞳。
髪はいつになくぼさぼさで、目元にははっきりと隈が浮かんでいたけど、それでも僕の心は彼女に惹きつけられていた。
一歩一歩、彼女がこちらに近づいてくる。その度に、心臓が一段、もう一段とギアを上げる。
足から力が抜けていく。体中が汗ばんできている。熱暴走でもしているみたいだ。
そうだ。結城さんなんて、祥太なんて、ただの言い訳だ。本当はもっと、一番に会いたい人がいた。
「紗英……」
目の前にいるその人の名前を、僕は呼ぶ。
すると、突然紗英がバランスを崩し頭から倒れそうになる。後ろに控えていた逢野が咄嗟に彼女の両肩を支える。
そして彼女はそのまま地面に座り込むと、顔をおさえて泣き出してしまった。
部屋に、彼女のか細い泣き声が響き渡る。
僕は思わず椅子から立ち上がっていた。後ろで警官が何か言っているが、気にしない。
「紗英、僕、僕さ、紗英とずっと話がしたかったんだ。紗英とさ、話したいことがその、たくさんあるんだ――」
何も考えず、一気にまくし立てる。彼女を前にすると呂律が回らない。伝えたいことを上手く伝えられないのは、もどかしい。
「こーくん」
と、彼女が一言発する。僕は口を止める。部屋が一気に静まる。
「少し落ち着けば大丈夫だと思ったんだけど、やっぱり、私だめみたい」
そう言って、紗英はこちらに顔を向ける。
浮かべていたのは、紙をくしゃくしゃに丸めたような、苦し気な笑顔。
紗英から、目が離せない。
「私、こーくんのこと、大っ嫌い」
そう語る彼女は。
どこまでも、美しかった。
恋と血潮 小森秋佳 @Shuka_Komori
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