野犬ポチ

笠井 野里

ポチ

 道の真中で野犬を見た。犬種には詳しくないが、あれは秋田犬、間違っていることは恐らくない。頭より下がガリガリにやせ細り、棒切れ四本しか体についていないのである。不気味、僕の心は醜くも、そう思う。こちらを、濁った奥の見えないような目で見るのだ。ああやめてくれ、ポチよ。


 そう、こいつの名はポチである。ガリガリの見かけによらず、可愛らしい名である。僕がつけた。


 僕が大学二年の春頃、つまり一年ぐらい前だろうか。僕はこのポチに飯をよくくれてやったのだ。魚肉ソーセージが好物で、くれてやると尻尾を振って喜ぶもんだから、僕もうれしいものだ。野犬ではあったが、このときは今ほどガリガリでなく、眼もキラキラしていた。多分元は飼い犬だったのだろう。人間なれしていて、群れるところを見たことがない。魚肉ソーセージを渡して、ひらひら手を振って帰ると、ポチは耳をクウンと垂らして、項垂れたものだ。毎回、申し訳ない気分になりながら帰る。犬を飼う余裕もなけりゃ、賃貸もペット禁止。仕方がないと言い聞かせていた。


 大学二年の夏、僕に金銭危機が訪れた。多くは語らないが、ガスが止まり、手持ちに五百円玉すらない状況になった。こうなると、ポチに飯をあげることも出来ない。大学帰りによる公園でポチと会うのだが、金もなく、飯を抜いて三日目の夕方四時半に、恐らく誰からも飯を貰わないで、舌をハアハア出しながら俯いているポチを見たとき、僕はなんとも申し訳なく思った。ポチは僕を待っているのだ。無言の信頼でつながれた、ある一人の飼い主を、健気に待っている。僕は惨めになった。ポチの元へ走って、抱いて共に泣こうとまで思った。しかし、そうはいかんのが、己の矮小な心。僕が姿を見せてポチをガッカリさせちゃならんなんてもっともらしい理由をつけて、僕はポチを見てみぬふりして去ったのだ。それがこの出会いの前に見た最後のポチの姿だった。


 一年ぶりの再会は、両者にとって望むものではなかった。ポチは腐ったような汚らしい目つきで僕を見る。僕はそんなポチを別世界の住民として、これまたやはり軽蔑した目で見るのだ。


 とてつもなく不快である。薄汚い目つきでこちらを睨む野犬を見たいのではない。魚肉ソーセージで喜び尻尾を振るポチを見たいのに、そのポチは僕を見るのである。そうしてポチはこう鳴いた。

「偽善」

 飼えないのに、己のやさしさをだれに見せるでもなく見せびらかして、自分が金に困ったら逃げてしまう、僕。そうして都合よく汚らしい野犬だとか寝ぼけたこと言う僕。それを侮蔑する目だ。情けない僕と同じ目つきだ!! 許してくれ、僕は、僕は……


 僕はポチに対して同種の悲しみを感じたのだ! だから僕は飯を上げた! 当たり前だろう、弱気を助けるのは、人として当然だ。

 保健所でも連れていけ? 保健所までは他の人がやってくれるだろうよ。僕にはそこまでの暇なんてないよ。ええ、暇じゃないさ。部屋の中でゲームやって本読んで、馬鹿みたいに過ごしてた? うるさい! 黙れ! 僕の善を否定するな!


 みな言うじゃないか、やらない善よりやる偽善って、僕のなにが悪いのさ、僕の善は確かに自己満足さ、でもそんなん大体の人がそうだろう? アフリカ人に募金したってあんなん何の解決にもならんよ、井戸の作り方も知らんのに、井戸作ったって解体されて終わりだよ。ボランティアとか行って被災地行っても、自衛隊の足手まといになってしまいじゃないか。そいつらと僕と、なにが違うんだ!!


 野犬よ、僕はお前とは違う。だってそうだろ、まず僕は君を軽蔑したんだ。あれ、ポチよ、君も僕を軽蔑している。あれ、違わないじゃないか! 頼むからそんな眼で僕を見るな。お願いします、許して、許して、お願いします。同じでもなんでもいい、もうなんでもいいからその眼で僕をいじめないでくれ、僕の醜いところを……

 しかし、野犬は僕の目で僕の顔を見て、弾劾する。醜い醜い醜い醜い!!!!


 僕はついに耐え切れなくなって野犬を蹴飛ばした。ガリガリで骨だらけの体は簡単に宙に浮き、そうして公園の芝生に叩き付けられた。キャインとも鳴かず、無言で体ふたつ分飛び、無言で口元から血を吐く。そうして二三度息を吸って吐いて、濁った眼は綺麗になって死んだ。

 部屋に帰ると、未だ午後一時。鏡を見ると、口から血を吐き死ぬ自分が写っていた。ガタガタ震え、また部屋を飛び出してポチを殺した公園に行った。

 そこには、ポチの死骸も血の一滴も落ちておらず、桜吹雪が舞う。


 わけのわからない幻覚ばかり見るのは疲れているからかしら。帰って、泥のように眠りたい、俯いてトボトボ公園を帰ると、爆音がした。バウバウと鳴く、聞き覚えのある声だった。

 音のほうを向くと、そこには、あの一年前と変わらない姿のポチが居た。いや少し太ったろうか、リードがついている。その先には、眼鏡をつけて、顔がしわだらけで腰も曲がった、七十は越すであろう、おばあさんが居た。

「この犬の飼い主ですか?」

 僕は無意識のうちにおばあさんに話しかけていた。

「ええ、そうよ。あなたもしかして、ジロウを知っているの?」

 ジロウとは恐らく、ポチが新しく貰った名だろう。

「野良犬だったときに、よく見かけたもので」

 あの幻覚を見た後、しゃあしゃあと、ご飯をあげていたことを宣伝する気にはなれなかった。

「野良のときは可哀想だったわねえ……」

 公園のブランコを眺めながらおばあさんが言う。知っているなら救ってやれよと責める口ぶりでは一切ないのにも関わらず、僕は罪人の気持ちで、俯きながら話を聞いた。


「この子、毎日ここに一人でいて、飼い主もどっかいっちゃったみたいであんまり寂しそうだったから、私が貰っちゃったのよ。とってもお利口で手もかからないし、老いぼれの暇つぶしに助かってるの」

 ジロウはくうんと鳴いておばあさんの手を舐めた。おばあさんはよしよしと言いながらジロウの頭を撫でる。


 そうして満足そうなジロウは、今度は僕の元へ寄ってきて、僕の手をペロペロ舐める。犬の舐めた後の手の臭さが、何だか懐かしいものに感じた。

「よかったなあ、ポチや、いい人に拾って貰って、本当によかった」

 あの幻覚のような野犬にならなくて良かった。そう心の中でつけ加えた。

 ジロウは、尻尾をフリフリ、舌を出して喜んでいる。ジロウの瞳には、僕が写っていた。そこには僕が写っていた。

 ジロウの頭をポンと撫でるでもなく叩いて、僕は立ち上がった。


「じゃあ僕はこれで。じゃあね、ジロウ」

 手をひらひらと、逃げるように、それでいてゆったりと感傷に浸って歩く。良かった。良かった。ポチは濁った眼なぞしていなかったのだ! あの「ジロウ」は僕の仲間ではなくなったが、しかし、幸せである。


 僕は少し、嫉妬をした。我ながらとてつもない醜さだ。鏡のように僕の同類として濁った眼をしたら醜いと罵って蹴り殺し、平穏無事を手に入れたなら、それはそれで嫉妬をする。僕にもその愛おくれと喚き散らしたくなる。犬以下だ。鏡に見えたのが自分の死体なのは言い得て妙である。犬なんかの姿で見えたらそりゃあ自惚れもいいところだ。うんうん。


 いやいや、まあいいじゃないか。世界は捨てたもんじゃないよ、君。ポチだって幸せになったじゃないか。そうして、僕が魚肉ソーセージをあげていたのも、あいつは覚えてくれたんだよ。突然消えた惨めな僕を見ても、怒った顔一つせず、それどころか僕の手まで舐めて、いい奴だよ。僕も野犬以下ならばさ、あれぐらいの心もちじゃあないとね、あいつがジロウなら僕は愚弟サブロウってとこかな。ジロウは兄貴だ。次に会ったら、ありがとうとでも言わねばなるまい。

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