ジュースと犯行動機
詩一
140円
たかが140円の話だった。
「
オレンジが差し込む教室で下校の準備をしているときに、クラスメイトの
ボクも
「でさあ、そしたらバイト先の先輩が酷いんだぜ?」
最近のトークテーマはもっぱらこれだった。トークと言うより、
ボクは生まれてこの方バイトと言うものをしたことがなく、その大変さと言うものがよくわかってない。だが、
門に行くまでの間に自販機があった。ボクはなんの気なしに、自販機でジュースを買った。
「お疲れ」
「え?」
ジュースを差し出すと、一瞬キョトンとした顔をしてから、パッと目を輝かせた。
「やさしいじゃん! ありがとな!」
バイトをすることも彼が選んだことだから、別にボクが労ってあげる必要もないのだけれど、彼の苦労話を聞くだけ聞いてなんの労いもないのはなんだが気が引けた。働かなくても親からお小遣いをもらえる自分が、なんだか怠け者の卑怯者に思えてしまったから。貴重な140円ではあるが、この罪悪感を払拭できるならたかが140円だと思った。
今にして思えばそのたかが140円が、すべての始まりだったのかもしれない。
※ ※ ※ ※
ある日も
「ああ、誰かやさしい人が頑張ってるオレにジュースを恵んでくれねえかなあ」
わかりやすく下手クソな演技だった。ウケ狙いのそれだとはわかっていたが、ボクは上手く切り返すことができなかった。なのでそのまま自販機でジュースを買ってあげた。
「お疲れ」
「う……冗談だったんだけどなあ。まあでも、ありがとう。元気出たわ。なんていうか、バイト先で言われるお疲れと、重みが全然違うよな。あれ、挨拶みたいなもんだもんな。
「それは良かったよ」
それからも
彼のこの行為は、有り体に言えばこれはタカりだった。もちろん彼が冗談で言っていることも悪意がないこともわかっていたから、断ろうと思えばいつでも断れたのだろうけれども。
※ ※ ※ ※
自室で自分の欲しいものをスマフォで検索していたときのこと。
「やっぱりリアルなフィギュアは高いなあ」
画面には今見ているアニメのヒロインのミリエが映し出されていた。
フィギュアにハマったのは最近のことだ。初めは安くて粗雑なフィギュアでも良かったが、あれこれ気になり始めると、質が高いものが欲しくなる。質が高いものはお値段も高いけれど、自分の最推しのキャラくらいはちゃんとしたのを買いたいと思った。だから最近のネットサーフィンはもっぱらフィギュア探しだった。
今日ようやく自分が満足できるレベルの高品質なフィギュアに辿り着いたのだけれど、2万は高い。月々のお小遣いが5千円のボクにはなかなか手が出しにくいものだった。
「でも欲しいなあ。
ヒロインのミリエは、ボクが秘かに思いを寄せている
性格も似ていて二人ともとてもおとなしい。快活さがないため一軍女子には入ってないけれど、容姿だけ見たら間違いなくトップクラス。つまり、
だからこそ、フィギュアくらい欲しい。と言うか、アニメのヒロインと同じくらいの美貌って改めてすごいな。
うーん。4カ月なにも買わずに我慢すれば……。
残金を確認するために財布の中身を見て不思議に思った。大した買い物をしていないのに、とても少ない。
そしてすぐに思い当たる。
最近ずっと
ふと、もしこのまま
学校に行く日は土日を抜くから1年52週間に5日を掛け算する。260日。そこからさらに夏休みなどの大型連休合計60日を引くと、約200日学校に通っていることになる。その200日全部奢り続けたら一年間で2万8千円。結構な額だ。ここから卒業まで奢り続けたら、ざっと5万円以上は行く——ん? って言うか最初の一年間でフィギュアを買えるじゃないか……。
バイトをしていないと言うことは勤労の苦しみがないと言うことだが、同時に自由にできるお金も少なく必要なものが手に入りにくいと言うことだ。
そう言う意味ではフェアな関係なはずだ。別にボクだって卑怯な手を使って親を騙してお金を貰っているわけではない。それに、ボクの家は田舎にあるから、学校から帰るためのバスの最終便がとても早い。学校の最寄りのバス停を19時半に発つのが最後だ。物理的にバイトはできない。学校の近く、或いはバス停の近くのお店がバイトを募集しているわけでもないし。対して
バイト先では不満が溜まる扱いを受けているようだけれど、バイトをするには恵まれた環境に居る。そのイニシアチブを無視して、バイト難民のボクに対してバイトの愚痴を溢していたのだ。それは童貞に嫁の不満を零す既婚男性のようなデリカシーに欠けた行為だった。
なんだかイライラして来た。くそっ。思考がネガティブな方に回ってしまう。
ボクは『ミリエ エロ フィギュア』で検索を掛けて、出て来たエロ画像でヌいて寝ることにした。イクときには
※ ※ ※ ※
土曜日。
とは言えやることはだいたいゲーセンに行くとかそんなところなので、家でゲームをやっていても変わらないと言えば変わらない。格ゲーなら特に、ボクの家の方が良い。
以前、「たまにはうちに来てよ」と誘ったことがあるのだが「えー。お前んち遠いじゃん」と断られた。うちからゲーセンだってかなり遠いんだけどな。
「げきちーん……」
彼は近くの自販機を見上げる。
「悲しみの極致に居るこのオレに、誰か恵みをくれないかなあ」
「はあ!?」
ボクは思わず大きな声を出してしまった。
「え……マジ……?」
「あ、いや」
「嫌なら普通に断ってくれていいんだぜ? でも、なんつーか、いきなり怒るのはちょっと引くって言うか」
そりゃあそうだろう。
居心地が悪くなって自販機でジュースを買って、それを渡した。
「ごめん」
※ ※ ※ ※
ボクは少し後悔していた。ゲーセンで怒ったことじゃなあなくて、そのあとにすぐに退いてジュースを買い与えてしまったことだ。あれはどう考えても間違った選択だった。
ちゃんと言えば良かった。ストレスになっているからやめてくれって。でもその場の流れがあるから咄嗟に判断できない。ベストアンサーは常に遅れてやってくるのだ。
仮に休みの度に奢らされたらどうなる。365日に140円を掛ける…………51,100円。これを2年やったら10万円以上じゃないか。
なんの罰金だよ、これ。ボクが
冷静な今、改めてトークアプリでタカリをやめるように言おうか。いや、多分聞く耳持たないと言うか、バカにしてくるだろう。今日の彼の金遣いを見ていればわかる。「たかが140円」とか、「お前も働けばいいじゃん」とか、簡単に言うに決まっている。こっちの事情も知らないで。愚痴を吐かないとやってられないバイトを「やれば」と言って来るとはどういう心境なんだ。勧めるか? 普通。自分が嫌な思いをするようなことを。友人に。でもきっと勧めて来る。彼はそう言うやつだ。そうに決まっている。根拠はある。今まで散々奢ってもらっておいて、ありがとうだけで終わった気になっている。しかも今日なんて「ああ」だぞ。なんでボクが謝っているんだ? 今までの分を換算したらとんでもない額になっているってことに気付かない時点で、思慮が浅いことが証明されてしまっている。まして、今日ボクは一瞬だけれど、怒ったんだぞ。わかるだろそれで普通。察せよ。
……ダメだ。冷静さも失ってきた。多分この状態で連絡を取ったらケンカしてしまう。五軍男子のボクは一人で話せる友達が
やめよう。なにか別の手を考えよう。そのうち良い手が思いつくかもしれないし、或いは
ボクはまたエロ画像を検索してヌくことにした。百合原さん……!
※ ※ ※ ※
「彼女ができた」
校門までの道すがら、
「え? おめでとう。誰?」
「
——背筋が凍り付いた。
え。な、え……?
「今度、誕生日があるからプレゼントを買うんだ。ちょっと高いんだけど、頑張ってバイトやって来て良かったよ」
「高いんだ」
ボクは錯乱していて、それを抑えるのに必死で、適当なオウム返ししかできなかった。
「ああ、2万5千円」
「それは——」
ボクがあげた金じゃあないかよ! バイトやってきて良かっただって? ふざけるなよ! ボクのお金だ! 返せよ! 今すぐ返せ! 2万5千え……んまではいってないけど、1万くらいは奢っただろ! それ返したら買えないだろう!? くそっ! なんでよりによって
「高いね……」
「だろー?」
「でも、好きな人のためならこれくらいは出すよ、オレは」
——だから、お前の金じゃあないんだってそれは……!!
気付いたときにはもう
※ ※ ※ ※
いつもよりニヤニヤしていた。それに、いつもの愚痴のマシンガンも炸裂しない。しばらくは
表情的には上機嫌なのだが、無言。なんだか気持ち悪い。考えてみれば、ボクはいつも彼の言葉を待つばかりで、自分から話したことがなかったな。彼が能動的に話さないことで、初めてその事実を知った。
「なんかあったの?」
聞いてやった。実はずっと嫌な予感はしていたのだけれど。聞かないといけない気がして。
「実は、実はさ」
そう言ってへへっとまただらしのない笑顔を向けてくる。
「昨日、セックスした。
わかっていたことではあった。いつかそうなるだろうと。だからなるべく諦めるようにしていた。受け入れられるように。あれから
「きっとプレゼント作品が上手くいったんだな」
ボクのお金で買ったプレゼントで、セックスしたのか。ボクの方が先に好きだった
「記念に一杯奢ってくれよ」
記念? いつも奢っているだろう? くそっ。
「いつもより高いのがいいなあ」
いつもよりって、ちゃんと金額わかっているじゃないか。悪意がある。悪意がある。悪意がある! ずっとわかっていたんだ。タカってた意識があったんだ。こいつ、ボクのことを貯金箱かなんかだと思っていたんだ。くそっ、くそっ。
「これがいいな」
彼が指したのは170円のペットボトルだった。
「はあああああああああああああ!?」
気付いたら思い切り
「がぁあっ!」
どうやら顔面に入っていたようだ。鼻血がドボドボと落ちている。鼻が変な方向に曲がっている。折れたのか。知らない。ボクはもう一度顔面にパンチをお見舞いする。防御されたがそのまま押し倒して馬乗りになって拳を振り下ろした。何度も、何度も振り下ろした。防御されたが関係ない。一心不乱に叩く、叩く。後頭部が切れたのか、アスファルトにじわじわと赤色が広がっていく。知らない。
遠くで悲鳴が聞こえる。「誰か先生呼んで来い」と聞こえる。知らない。
今ここでコイツをぶっ殺しておかないと、ボクは一生タカられる。きっと進級したらタカられる。卒業したらタカられる。入学したらタカられる。ずっとずっとタカられる。2年で10万円なら、60年でどうなる。30倍の300万円だぞ。立派な窃盗だ。罪だ。それに好きな女性まで盗られる。今後ボクが好きになる女性を全員奪っていくんだ。ボクは結婚できない。童貞も卒業できない。人生を無茶苦茶にされる。こんな悪人殺しておかないと。さっさと殺しておかないと。いや待て悪人か? 本当に悪人か? 誰だっけコイツ……知らない。
教員が駆け付けて来て、ボクは取り押さえられた。
「大丈夫か!?」
教員の声が犯人に向けられた。犯人の方が心配されている。ボクが被害者で、正当防衛しただけなのに。
教員の言葉に犯人は震える手を上げて応えている。どうやら生きているようだ。このままだと嘘の供述をされてしまう。ジュースを一つ奢ってほしいと言ったら突然キレたと。そう言うやつだよコイツは。そしてきっとみんなボクのことは信じないだろう。どれだけ説明しても。ボクが五軍男子ってだけで差別して。そう言うやつらだよ、みんな。だってボクがタカられていることに気付かなかった。察せよ。そうやって虐めも見て見ぬふりしてきたんだろう。
これからみんなの中ではボクがたかが170円でキレたやつとして語られることになるのかな。コイツの嘘を信じて。
今もまだアスファルトに広がっていく赤い血をじっと見ていたら、徐々に冷静になって来た。とは言え、まだ自分がやったことがあやまちかどうかはわからない。あやふやだ。ボクは身の危険を感じただけだ。
ただ一つ言えることがある。
たかが140円の話だった。
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