ノイズ

伊瀬谷照

ノイズ


 それは、山に隠れた太陽の残滓が、西の空を僅かばかり赤く彩る、黄昏時ももう夜に変わろうかといった頃のことだった。

 僕は単線の古びた電車を降りると、人気の疎らなホームに出た。耳にはめた古びたヘッドホンの隙間から、平坦な構内アナウンスが聞こえてくる。

 山間の田舎の空気は、都会のそれよりよく冷える。薄いシャツをまとった腕を擦りながら、改札に続く連絡通路を駆けた。


───────?


 違和感を覚え、振り返る。しかしそこにいたのは、スマホを眺めながらゆらゆらと歩く若者がひとり、疲れた様子のサラリーマンがひとり。会話をする素振りはない。誰かを呼んでいるような声が聞こえた気がしたのだが─

 僕は不思議に思いながらも、足元でひっくり返ってるカナブンの姿勢を戻してやってから、再び走り出した。考えてみれば、ヘッドホンで音楽を聞いているのに、人の小さな囁きが聞こえるはずもないのだ。

 改札を出ると、最寄り駅の周囲には小さな商店と、畑以外に目につくものがない。都会でカラオケをしてきた後なので、余計にこの町の夜の濃さと静けさが際立つ。疎らに立つ街灯は周囲を僅かに丸く照らすだけで、かえって夜の不気味さを煽っているように見えた。


「ただいま〜」

「おかえり、早く乗んな」


 一緒に電車に乗っていた僅かな客たちは、家族が駅前につけていた車の中に入り、悠々と帰っていく。

 あっという間に、その流れから置いていかれ、ひとり駅に取り残されてしまった。

 湿気た風が頬を撫でる。夕日の残滓は殆ど夜に飲まれ、山の稜線を僅かに染めるばかりだ。


おっかねえな。


 ふ、と湧き上がった考えを、頭を振って強引に払う。高校生にもなって夜道を怖がり、母親に迎えに来てもらうよう頼むのは恥ずかしかったのだ。

 ヘッドホンの音量を上げる。購入してから5年経つそれは、軽快なメロディと共にノイズを強くした。最近、故障してきたのかガリガリと機械的なノイズが混ざることが多い。早く買い替えたいとは思うが、高校生の小遣いでは些か高すぎる買い物だった。


たっ、たっ、たっ、たっ


 恐怖を振り払うように走る。朝母が言った、「自転車、修理中なんだから早く帰らいね」という言葉が脳裏をよぎる。夜道を歩いても別に平気だとあしらったが、母は僕の臆病な気質をよく理解していた。

 畑の中にぽつぽつと立つ街灯と、丸く照らされる地面。その元に真っ黒い影が立っているような妄想が頭の中で膨らんで、僕はより足を早めた。雑音の交じる流行りの歌に意識を集中させ、スニーカーで地面を蹴る。


ぼそ、ぼそ、ぼそ、


 ヘッドホンから一際明瞭なノイズが聞こえた。ポケットの中のスマホと繋がったコードが走るたびに跳ねるせいで、接続が悪くなっているのかもしれない。やはり買い換えどきかと思いつつ、僕は畑の脇道を抜けて雑木林へと入った。

 山から降りる風に揺れ、木々がざわめく音がヘッドホンの隙間から滑り込む。

 サビに入った楽しげな曲が立ちどころにかき消され、僕は再び音量を上げようと立ち止まった。


ぼそ、ぼそ、ぼそ


 そこで、はたと気付く。

 曲は木々のざわめきに掻き消されているのに、それと共に走るノイズは、音量を変えることなく耳に届いてくることに。

 途端、僕は全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。


ぼそ、ぼそ、ぼそ、ぼそ


 日頃感じていたノイズは、このようなものだっただろうか。もっと機械的で、単調で、意識の外に容易に落とし込めるようなものではなかったか。


ぼそ、ぼそ、ぼそ


これは─


……さん、……さん?……どこに……


人の声だ。


 そう気が付いた途端、風が止んだ。掻き消されていた曲が鼓膜を突き、僕は慌てて音を下げる。しかしそれでも、ぼそ、ぼそと何かを囁くようなその「声」は途切れない。

 誰かを呼んでいるように聞こえた。うまく聞き取れないが、少なくとも僕の名前ではなかった。ヘッドホンを首まで引き下ろし、僕はスマホをお守りか何かのように握りしめた。なおも声は聞こえ続ける。

 周囲を見回そうとした視界の端に、チカ、とオレンジの光が瞬く。

 駅の方から、ゆらゆらと懐中電灯のような明かりが近づいてきていた。しかし僕は知っている。数少ない乗客は、僕以外は全員、車に乗って帰宅したはずだと。


ゆら、ゆら、ゆら


 何かを探るように、探すように、光が揺れる。どこからともなく声が聞こえる。

 誰かが、何かを探している。そしてその対象は自分ではない。そう分かっていても、身体の震えを止めることはできなかった。


「っ……!」


 ヘッドホンを首に引っ掛けたまま、僕はめちゃくちゃなフォームで坂を駆け上がる。

 そして殆ど止まることなく人気のない町を走り抜け、転がるように家へと帰った。

 汗だくで玄関に飛び込んだ僕を見て、母は血相を変えたが、事の次第を話すとけらけらと笑い出した。


「遅くまで出歩くなって言ったべや。夜は何が居っか分かんねから」


 自転車が戻ってきて以来、僕は遠回りをして帰るようになった。

 あの道では、夜になると誰かを探す声がするからだ。きっと今も。これからも。探し人が見つかるその日まで。










 

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ノイズ 伊瀬谷照 @yume_whale

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