第2話狂祭の口笛

 階段を下りた先は地下駐車場だった。

 結構広いスペースがあり、目算で10台くらい駐車できそうだ。

 ただ、実際に止まっている車は1台だけで酷くガランとしている。

 その車の前に一人の男が立っていた。

 少し病的な感じのするひょろっとした痩身の中年男であり、安っぽいグレーのスーツに丸眼鏡という格好だ。パッと見た感じリストラされたサラリーマンである。ただ、こちらを見る表情があまりにも常軌を逸していて、目が合った瞬間、背筋が凍りつくくらいの恐怖と胃が煮え立つほどの吐き気を覚えた。男が私の姿を見てニタリといやらしい笑みを浮かべたのだ。

「んふふっ、『トゥラの口笛』に導かれてしまったようだね。可哀想に……」

 口の端に笑いを堪えるように、どこか小馬鹿にするような口調で言う男。声に同情を孕ませつつも、その表情には嬉々とした笑みしか浮かんでいない。禍々しい狂気すら感じさせるバケモノじみた笑みだ。人間味を欠片も感じない。

「ええと……その制服は、確か……詩海高校のものだったかな? その様子から察するに、雨宿りをしようとしてこの建物に入ってきて、偶然に口笛を聞いてしまったのだろうね。実に運が悪いとしか言えないが……私にとっては幸いだよ。久しぶりの上物だ、偶然の夕立ちに感謝せねばならない。んひっ……ひひっ、んひひひっ……」

 狂っていた。完全な狂人。言っていることもおかしいが、自らの肩を抱いて小さく震えながら笑いをこぼす様は、もう到底、健全な心を持つ真っ当な大人の姿ではない。

 というか、この男は犯罪者的な視線で私を見ている。

 加虐嗜好が飽和して堪えきれない感じのヤバイ奴だ。

 ここは無理に虚勢を張ってでもこの狂人を追い払うべきである。

 その結論を即実行する。

「あ、あなたは、何を言ってるんですか?! おかしなことをしたら人を呼びますよ! 大声出しますよ!」

 声帯よ壊れろというくらいに強く声を張ったつもりなのに弱々しく震えてしまう。

 男は喉の奥で小さく笑った。

「んふふふふっ……口笛の魔力に惹かれて来たわりには結構な正気を保っているんだね。驚いたよ。相当に精神力が強い子なのかな? 一般的にトゥラの口笛を耳にしてしまった者は、ほぼ催眠状態に入ってしまい、こちらの意のままにできるのだけど……」

 そこまで言ってニタリと邪悪に笑う。

「まあ、それでも、釣れてしまったからには、君の状態など無視して捌いて食うつもりだよ」

 衝撃的な発言だった。

 人間に対して吐いていいセリフではない。

「食う?! って……えっ? 食べ……私を食べる?! あ……あの……そ、それ以上、近づいてきたら大声を出しますよ! 本気ですよ!」

 大声で怒鳴りつけて威嚇しているつもりだった。

 しかし、男は嬉しそうに、そして心底楽しそうに柔らかな笑顔さえ浮かべて見せた。自分の味わっている楽しさを共有させてあげようとでもいうかのような表情だ。

「ああ、構わないよ、思いきり大きな声で悲鳴を上げるといい。そして苦しみ藻掻き泣いて喚きながら殺される過程を思う存分に堪能してほしい。せっかく意識が鮮明なのだからね、是非とも、殺されながら食われる稀有な時間を楽しんでもらいたい」

 勿論、そんなのゴメンである。

(ダメだ……この人、狂ってる。マトモじゃない。きっと説得とか脅し文句なんか無視して襲ってくる。逃げなきゃ!)

 判断するや私は踵を返して駆け出した。

「おーや、おや、逃げちゃうのかい?」

 残念そうな声が背後から聞こえるが無視。

 走る。

 ひたすら外へ向けて走る。

「あー……いや、この状況で逃げだせるだけでも大したものだ、と言うべきかな」

 称賛の言葉も無視して地下駐車場から逃げ出す。

 一歩、二歩、三歩、と足を高速で交互に動かして進む。

「でもね、無理なんだよ」

 憐れむような声とともにヒュルルルという口笛の音が地下に響き渡った。

 次の瞬間、目の前に男が立っていた。

 走って逃げたのに、一生懸命逃げたのに、そのつもりだったのに、男は目の前でニタニタといやらしく笑っていた。

「口笛が空間認識を狂わせているんだよ。んふふっ……終わりだ。諦めて一緒に楽しもうじゃないか。私がとびきりの死を奏でるから、君はできうる最高の死を描いてほしい」

 男は鉤爪状の刃物をどこからともなく取り出して、振りかざして見せてニタリと笑う。

 最悪の展開だった。

 そして、男は奇声を発しながら駆け寄ってきた。

「んひぃぁあーひひひーっ!」

 信じられない速さだった。

 いや、それは足が速いというレベルではなくて、瞬間移動レベルだった。数メートルの距離を駆け寄って詰めたのではなく、目を離した一瞬の間に真後ろに移動していたのだ。オリンピックの短距離選手ですら不可能だろう。それが恐怖による錯覚でなければ、相手は絶対に人間ではない。そういうレベルのスピード。

 でも、私には逃げるという手段しか自己防衛のすべが思い浮かばなかったので、回れ右をして一歩でも遠くへと全力疾走する。いや、そうしようとしたのだけど、相手の人間を超越したスピードの前には、運動能力に自信のないごくごく普通の女子高生のダッシュなど逃走の意味をなさなかった。

 ひゅるるっっと口笛が鳴り、その回数だけ相手が背後に回り込む。

 男は恐怖を煽っているのか、これだけスピードの差を見せながらも、最短で獲物を仕留めようとはせずに、ちょっと近づいては奇声を発して恐怖を演出し、回り込んでは奇怪に笑い放つ。

(助けて……誰か、助けて!)

 死を背中に感じた瞬間、心の中で助けを求めた。

 助けてくれるのなら誰でもいい、一秒でも長く生き延びられるなら何でもいい、背後の死を刹那的にでも退ける何かしらが起こってほしい。それが何か大きな代価を支払うことになったとしても。

(誰かっ!)

 必死で逃げながら助けて下さいと心の中で泣き叫ぶ。

 だが、誰にも届かなかったようだ。

 男の笑い声が真後ろから聞こえた刹那、肩をどんと突き飛ばされて無様に転倒してしまう。スカートの短さを考慮すると背後の男からは私のパンツが丸見えの状態だろうが、そんなこと気にしている場合じゃなかったし、彼の方もそれについてのリアクションを取らなかった。

「いや、いや、気丈な子だ。君がもう少し狂乱してくれるならまだしも、こうも静かで単調な鬼ごっこはね……長引かせてもあまり面白くない。面白くしようがない。ここは潔く君の負けってことで終了だ。いいね?」

 私がもたもたと起き上がるのを少し冷めたようなマジメ顔で見降ろしながら勝手な宣言をして同意を求めてくる。

 それを拒絶する猶予も権利も与えてもらえなかった。

「さあ、解体と拷問の時間だ!」

 男は大きく目を見開いて会心の笑みを浮かべてみせると、鉤爪状の刃物を振りかざして高らかにうたい上げる。

「そして、たのしいたのしいお食事の時間が始まるぞぉおおおおーっ!」

 狂喜の叫びとともに振り下ろされる異形の刃物。

 私の口から迸る、形にならない悲鳴。

 頭上に迫る圧倒的な死。

 しゅっ、という刃走りの音を首筋近くで聞いたような気がした。

 死。

 私は死ぬ。

 ここで殺される。

 残酷に無慈悲にもてあそばれて命を失ってしまう。

 それを防ぐすべも退けるすべもない。絶望とともに受け入れるしかない。

 諦観が深く広く心を満たす。

 その時、周囲の空気がパンと弾けるような感じがして私の脳を揺さぶった。

「そこまでです」

 第三者の声。

 それが、死で満たされた空間を吹き払って私の心を優しく包んでくれた。

 静かな声音だった。

 ただ同時に、それは悪鬼羅刹をも震え上がらせる鬼気を宿らせていた。

 まるでその声に縛られたように死が制止する。

 男は階段の方を睨んだ。

 私もつられてそちらを見た。

 誰かが階段をゆっくりと降りてくる。

「何者かな、私の楽しみを邪魔する無粋なやからは?」

「雨宿りをしているだけの、ただの高校生ですよ」

 そう答えて緊張感の欠片もない他愛ない笑顔を見せたのは、丈高い美少年だった。

 しかも、つい先日に転校してきたクラスメイトの塩谷克己だった。

 その端正な容姿を見紛うはずもない。

「塩谷君!」

 かすれた叫び声を聞いて少年がこちらを見た。

 その理知的な美貌に驚きと親しみが宿った。

「おや、キミは……確か、香月さんだったかな? こんな時にこんな場所で会うなんて何とも運命的だね」

 相手もこちらを認識してくれたようだ。頼もしい笑みが浮かぶ。

 もう大丈夫なんだと思わせてくれる、そんな笑み。

(ああ……助かったんだ……)

 私は安堵とともにその場でへたり込んだ。

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冤罪リベンジメイト 地雷屋 @kazamin

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