冤罪リベンジメイト
地雷屋
第1話始まりは夕立の下に
酷い夕立に見舞われた。
まるで街の上空に大きな滝が出現したかのような凄まじい雨だ。ざーっという雨音とともに水のカーテンが視界を遮り、一瞬で路上を水浸しにしていく。それまで平和だった街路が阿鼻叫喚の地獄絵図だ。買い物途中の主婦や仕事帰りのサラリーマン、楽しげに会話していた女子高生たちが悲鳴を上げながら屋根のある場所を求めて走っていく。それこそ蜘蛛の子を散らすような光景だ。
そんな中、私は悠然とバッグの中から折りたたみ傘を取り出して差そうとした。
しかし、バッグの中で使用される時を待ち焦がれているはずの傘がない。手探りで中を漁るも、バッグの中には勉強道具やらノート類やらの今はまったく役に立たないモノしか入っておらず、雨を凌ぐためのアイテムは発見できなかった。
(入れ忘れ……?)
どうやら今日に限って折りたたみ傘をバッグに入れていなかったらしい。どこか楽しげな悲鳴を上げながら雨の中を行き交う人たちを見ながら、なぜ折りたたみ傘を入れ忘れたのかを記憶の中にいる早朝の自分に問いかけるが、常に携帯しているはずのものをわざわざ取り出して登校した記憶はない。
(おかしいなあ……)
内心で首を傾げながら、私はスマホを取り出して妹に電話をかけた。傘を持ってきてもらうためではなく、今いるビルの軒下で雨が止むまで雨宿りをするので少し帰る時間が遅くなると伝えるためである。妹が姉思いの心優しい子であれば、傘を持って迎えに来てくれるのだろうけど、そういう期待は無駄だろう。
妹が電話に出た。話によると既に帰宅しているらしい。夕方にヤバいくらいの雨が降ることを天気予報で予め知っていたそうで、友達と遊び歩くのを早々に切り上げてさっさと帰ったのだという。そして、さり気ない妹の告白。
『万が一のためにお姉ちゃんの傘、借りといたから、途中で雨が振ってきても楽勝で帰ってこれたと思うよー』
能天気さマックスの明るい声が聞こえてくる。
なるほど、だから私のバッグの中に折りたたみ傘が入っていなかったのか……と納得し、同時に怒り頂点でスマホの向こう側にいる妹に怒鳴った。
「ちょ、ちょっと、私の傘を借りたって、どういう―――」
怒りが言葉をなす前に通話が立たれた。
耳に残ったのは「ごめーん!」という謝罪の意思を感じさせない半笑いの叫びであり、それは私の怒りに燃料投下する効果しか生まなかった。
(帰ったら絶対にとっちめてやる!)
久しぶりの姉妹ケンカだ。
そう心に決めてスマホをしまう。
そして、小さく溜息。
奇跡的な天候の回復を祈って空を見上げるも、私の心の力では天候を急転させる効果など発揮できるはずもなく、びしゃびしゃと音高く降り注ぐ雨は逆に強さを増した感さえあった。
(すぐに止むよね……)
ドス黒く染まった邪悪な空を見ると、その期待も虚しく萎んでいってしまう。
どうやらしばらく降り続きそうだ。
(駅ビルの本屋まで走れれば時間潰しもできるけど……)
そこまで辿り着くには全身ズブ濡れになる必要がありそうだ。そうなれば、きっとシャツが透けてブラやら何やら色々と見えてしまうに違いない。そんな状態で本屋に入ってく勇気はないし、それを許容して今ここから走り出す意思もない。
(クラスの誰か、通りかからないかな……)
学校から少し離れてはいるものの、駅周辺の繁華街は私たちのテリトリーなので、クラスメイトが通りかかる可能性は低くない。しっかり者のクラス委員長が豪雨の中を悠然と歩いてきてもおかしくはないのだ。
私は強く降り注ぐ雨を避けるべく、少し後ろへ下がった。背後には地下の駐車場へと続いているらしい階段がある。もし風が強くなってきて今自分が立っている場所まで雨が振り込んできたら地下へ向かってもいいが、ちょっと不気味な雰囲気があるので切羽詰まった状況に追いやられるまでは行く気にならなかった。
(ここを降りるくらいなら雨の中を走った方がマシのような気がする……)
一歩下りたら地獄、そんな予感。
階段を下りていく自分を想像するだけで背筋が凍る。死すら覚悟しなければならないという、そういう絶望的な雰囲気だ。ずぶ濡れになっても行くべきではない。
ここは耐えの一手だ。
そう思った、その時、遠く階段の下の方から口笛のような音を聞いた。そんな気がした。
(階段の下……地下に誰かいる……?)
訝しみつつ耳を済ませる。
確かに口笛の音だ。何者かが地下の駐車場で口笛を吹いているのだろう。雨の音が邪魔して聞き取りにくいが空耳ではない。
しかし、この雨である。同様に雨宿りの場所を求めて駆け込んでいてもおかしくはないし、雨が止むのを待ちながら口笛を吹いて時間を潰していてもおかしくはない。
ただ……。
(嫌な音色……)
それにメロディが独特で嗜好に合わない。
場所が地下ということもあって、反響音が幾重にもこだましたせいもあるだろう。それは、とても印象深くて、飛び切りに耳障りで、極めて不快であって、今まで感じたことのない負の感情を掻き立てさせる禍々しいメロディだった。
嫌な予感も相まって本来なら地下へ向かうという選択肢は存在しないはずだった。けれども、そのあまりにも不吉で不安定なメロディが印象的であり、悪い意味で好奇心を掻き立てる存在感は強烈な衝動となって私を地下へと誘おうとする。それが致命的で絶命的な選択肢だと薄々察しているのに、心を洗脳していくかのような口笛のメロディがじんわりと染み渡ってきて、地下へ向かうという以外の選択肢を徐々に駆逐していくのだ。
(何これ……すごく、変だ……)
すでに私は地下へ下りたくてしかたがない心持ちになっていた。
今更ながらに催眠という言葉が脳裏をよぎるも、片足はもう階段の一段目を下りてしまっていて、引き返さなければ命にかかわるという確信的な予感も足を止めるほどの拘束力を持ってはいなかった。そして、一歩目を踏み出してしまったら、もうなし崩しも同然であり、二歩目、三歩目と階段を下りてしまっていた。
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