カミノクグツ(終)
リビングを中継、着替え前の私と同じように窓の外を眺めていたマイアに声を掛けることはできず、逃げるように聖堂へ。
微かに聞こえていたパイプオルガンの音色は、隔たりを越えるとより強烈に頭に響く。扉のすぐ隣に置かれており、聖堂一帯に音を伝えるため音量は大きい。
それでも耳障りなはずはなく、初めて聴く曲なのに不思議と馴染みのある旋律に癒される。それは、演奏者と再会することが叶った喜びと、その者の演奏する姿を拝謁する瞬間を待ち焦がれていたからに他ならない。
いつものように、私が現れたことには気付いているはずだが、なおも彼女は目蓋を閉じて弾き続けている。どの鍵盤を、どのリズムとタイミングで押せば協奏が成されるのかを熟知している。彼女の過去に登場したかつてのマイアのように、今の私にとっては彼女こそが個性の違うそれぞれを束ねて無二の調和を司る女神に思えた。
彼女もまた、夢を見ている心地でいるのかもしれない。
それを止めるほど私も無粋ではない。声を掛けずにすぐ傍の会衆席に腰を下ろした。昨日、マイアと語らった場所だ。
私も彼女に習い目蓋を閉じて音楽に浸ってみる。この曲がかつてマイアが披露したという『サンダーバード』だろうか?素人の私には、パイプオルガンとは相性の悪い熱過ぎる曲に感じるが……。
目覚めて間もなく飲酒し、今日が休みとなると睡魔が襲ってくる。何より聖堂内が寝室同様に程良い温かさで、陽射しが絶妙にくどくないのが憎い。
あるいは二度寝も悪くない。彼女が今も迷っていて、そんな彼女に私から言葉を伝えるためにここへ来たのだが……私たちはこのような静寂でのんびり過ごすのが最適に違いないと既に確証を得ている。
私の言葉は間違いなく彼女を傷付けてしまうものだから……。
「そうだよな……」
眠気が一気に吹き飛ぶ。彼女も演奏を終えて立ち上がるところだった。
メヘルブのシスターが共通して纏うネイビーの修道服、銀色の髪を伸ばす敬虔なシスター。艶のテカる髪を揺らしてこちらを振り向く彼女は、いつものウィンプルを外していた。
……だが、鍵盤から離れた両手の指はいつも通りすぐに組まれてしまった。彼女はまだ鳥籠の中にいる。
「「お待たせしました」」
同じタイミングで同じ言葉を発し、それから同じタイミングで苦笑した。
こうして笑い合える関係に戻るために地獄を渡ってきたというのに、それが壊れていくのが怖ろしい。
マイア解放の時は初めから傷付ける覚悟を持って臨んだ。結果としてだが、辛うじて断絶は免れた。かけがえのない報酬もいただけた。
けど、今回はそうじゃない。私はこれから彼女と真っ向から語り合い、そして彼女を哀しませるというのに……その準備がまだ出来ていない。
「どうぞ、座ってください。あっ、いつもの席の方が良いですか?」
「いえ、ここで。……失礼します」
オルカさんが私の隣に座るのは本当にゆっくりに見えた。マイアと同じく、お互い会衆席の端に腰を下ろして隙間が生まれた。
シスター・オルカの横顔を覗く。その美貌に目を奪われる……より、とにかく彼女が戻ってきてくれたことへの感謝が強い。私の功績ではなく、オルカさん自身の忍耐でこの未来に辿り着けたのだと思えてならない。
「顔色も良くなりましたね」
「はい。全てはカイル様……いえ、カイルさんの努力の結果です。お礼を伝えるのが遅くなりましたね。本当にありがとうございます」
「私よりオルカさん自身ですよ。よく堪えましたね」
「いえ、実はずっと眠っていただけなのです。目が覚めたらクウラさんと男の子たちが喜んでいたので驚きました。ただ体力不足が幸いしただけで、私は何もしていません」
「そんなことは……」
謙遜でも嘘偽りでもないのだろう。オルカさんの場合、冤罪で裁かれてもこのような感想になるのか。もっと自分を褒めるか、愚痴の一つくらいあってもいいだろうに……。
神殺しは成功。メヘルブもこれから面白くなっていく見込み。大いに結構、完全なハッピーエンドだ。
……それなのに、オルカさんとだけはまだ上手く付き合えない。
マイアはあんな感じ。ヤエさんとは上手くやっていける気がする。テオとロールは心配ない。
クウラさんとは……まだ腹を割って話し合えていないが、それでも不穏になることは少ないはず。神の縛りがない世界で、あらためて友愛のシスターと関われるのが楽しみに思えるほど。
だから、あとはオルカさんだけだ。
二人きりで話す時間はこれまで多くあった。しかし、どれもこれもが曖昧で、妥協の連続だった。お互いに本心を打ち明けた仲だというのに、まだ不足しているものがある。
何と言っても彼女の信仰心の行方だ。メヘルブの神は死んだが、それで教会が解散するわけではない。
彼女はこれからも『神』の信徒で在り続けるのだろうか?
それは別に構わない。説教台でも言ったように、自己の判断によるものであれば何人も否定してはならない正義となる。聖職者としてのオルカさんについて案じることは何もない。
問題は、オルカさんが望んで聖職者になれるか。または生き方を変えられるのかだ。
「すみません、オルカさん。着替えは済ませたのですが、シャワーをまだ浴びてなくて……。臭いますよね?」
「そのようなことはありません」
「オルカさん、私はもう神官ではありません。世辞は必要ありませんよ」
「いえ、本当にそれほど臭わないのです。強いて言うなら……これはワインの香りですね?」
目を閉じて鼻を嗅ぐオルカさんに正解されてしまった。朝から一杯引っ掛けただけでも申し訳ないのに……それ以上に、バレたら終わりの不都合が推理された容疑者みたいな焦りを感じた。
「実はマイアが部屋にいましてぇ……」
「存じております。それに、たまには善いと思いますよ。今日はお休み……ですよね?」
「そうですね。汗臭さを誤魔化せたのなら何より……」
お許しをいただいた。私はこれからも彼女の慈愛に甘えてしまうのだろうか……。
それはさておき、今ので話題が尽きた……。今日について聞かれたのならもう降参した方がいいだろう。
今日これからのこと、明日のこと、私がまだ知らないオルカさんの別の顔。そういった何気ない話題を語らうためにも先に乗り越えるべき壁がある。
私はまだ誰も登ったことがない(はずの)あのコンクリートの壁の頂上で、草原に佇む彼女が壁を見据えてどう動くのかを見届けなくてはならない。
「……まず、私は貴女の敵ではありません。永遠に味方です。そこは誓えます」
「は、はい……恐縮です」
「貴女は異端の私さえも平等に包み込んでくれましたね。自らが天罰を受けることになっても最後まで祈りを捧げ続けていた。貴女こそ真のシスターに違いありません」
「そのように過大な評価を……私なんて何も……」
「いいえ、貴女は人間としても聖職者としても完成している。完璧な聖なる者だ」
「カイルさん……」
私が恐れているものを彼女も同じく恐れている。
私が急に前提の話を持ち出したのは何故か。その意図が読めてしまったオルカさんの顔色は……確かめなくても分かる。
シスター・オルカは完成している。……つまりもう、底が知れているのだ。
「しかし、まだ自立できていない……。聖人に違いないが、もうこれ以上成長しない。ただ息をしているだけで志がない。吹けば飛ぶような空っぽの器だ」
悪意で棘のある言葉を選んでいるわけではない。オブラートに包んでもこれが最低限となる。それだけオルカさんという個人は生者として欠けているのだ。
言い過ぎたと失態を恥じることもない。ただ彼女が空っぽであるのが事実で、それをひたすら惨めに思うだけだった。
聖職者としては完璧なシスター・オルカ。しかし、一人の『オルカ』としてはまだ生まれたばかりの赤子同然だ。
そんな彼女の心境は、私には痛いほどよく分かる。
「酷い言い草ですよね。何様のつもりなのか。すみません。けど、ここを乗り越えておかないと、貴女にこの先は辛い……」
「……ええ、カイルさんの仰る通りだと思います」
これからは対等な身分で全員に認められるよう精進する。その気概は誰を相手にしても変わらない。
しかし、オルカさんだけはそうはいかない。彼女が自立してくれない限り、彼女にとって私はまだ神官のままなのだ。
クウラさんのように停滞を望んでいたわけではなく、ただ主の意向に従うだけだったシスター・オルカは……神が死に、各々の選択が試される世界でどう生きる?どうすれば充足を得られる?
……どうすれば一人で歩き出すことができる?
その答えはオルカさん自身が見つけ出さなくてはならない。
優しい隣人や励ましの言葉がいくつも存在する世界の真ん中でも、最後は自分次第なのだから。生まれ落ちた環境の仕組みを受け入れ、右に倣えと促される世の中であったとしても、結局は自らそのシキタリを飛び出さなくては奴隷のままだ。そんな生涯でも幸せだと感じられるのなら……意志や救い以前に、そも、感情が無い。
私の理想を押し付けたいわけではない。ただ、このままではオルカさんが自由になれない。告解室に毎日籠る彼女など、新しいメヘルブではもう通用しないのだから……。
「……昨夜のことです。カイルさんが眠られている間にマイアさんが私の家を訪れました」
「マイアが?」
「これ以上私をこの家にはいさせられないと、両親を説得して私を連れ出してくれたのです。今後、私はマイアさんのお家でお世話になることとなりました」
「そうですか……。それは私も賛成ですが、貴女の両親は納得したのですか?マイアはもう聖女ではない、の、に……」
生じた疑問。オルカさんが何故急にこの話題を持ち出したのか理解が及び、面を上げた彼女の横顔を見つめた。オルカさんはこちらを振り向かずに再び目蓋を閉じた。
「何も変わりありません。両親としてはマイアさんが神の使徒でなくなったとしても同じなのです。マイアさんの意見こそが二人の正義。それが考えて決められたことかは定かではありませんけど……」
「オルカさんとしてはどうですか?今の話にはオルカさんの想いが一切介在してなかったように聞こえましたが……」
「私は皆さんに従い……あっ……」
迷宮を抜け出せず、同じ道を彷徨うばかりの自分に気付いたようだ。
いや、不都合ゆえに考えたくなかったのかもしれない。彼女は決して思考が停止しているわけではなく、これまでに出会った『カイル』たちの影響によりずっと悩み続けてきたのだから。
それは、知らない世界を覗くことへの興味自体は確かにあったことを意味する。
その段階まで進んでいるのなら、私も「無理をしなくていい」とは言えない。変わらず偉そうな姿勢で彼女が歩き始めるのを待つしかない。
「……私も、私なりに自分のこれからを想像してみたのです。けど、思い描くだけで叶えられるとは到底思えませんでした。やったことがないことは分からない。このままでは皆さんに迷惑をかけるばかりになってしまいます。それでも……」
「どこを目指していくのかではなく、どうやって歩き出せばいいのかも分からない。あるいは……覚悟ができない?」
オルカさんは頷かなかったが、この沈黙が図星だと言っている。二人きりの聖堂に過剰とも取れる静寂が訪れた。
歩くことなど造作もないという者は、何をこれほど躊躇っているのかと苛立つ頃合いだろうが、私はそうはいかない。
強行策に出る前に、まずは『シスター・オルカ』とここで決別しなくてはならないからだ。オルカさんが生まれ変わるその時まで、私らしく振る舞うわけにはいかない。
「カイルさんの激励の意図はよく分かります。このままではいけないということも。それでも、私では答えを出せなくて……」
「それで良いと思いますよ。正解など無いのだから、悩み続ける方が正しい。大切なのは自分を表現することです」
「カイルさんは凄いです。マイアさんから事情はお聞きしました。とても……私では無理な勇気の持ち主だったのですね」
「ハハハ……。まあ、蛮勇とも取れますから、頻繁にやらかしてますけど……」
忘れてはならない現実。変わったのはメヘルブという世界で、そこに住まう人々が変わるのはこれからだということ。私を寝室へ運ぶのを手伝ってくれた誰かにしても、まだその兆しを見せただけに過ぎない。
変わらないことだってある。私も今後の振る舞いは幾らか改めるつもりでいるが、許せるものと許せないものは変わらないはずだから。
それならオルカさんに変化を強制するのは間違っている。
思い出せ。神官としての私は誰一人として救えなかったことを。
神父・カイルは最期に信念を曲げ、自らの頭を撃ち抜いて死んだ。
これからは指導者として……いや、これからもオルカさんの世界を彩る一色として、私の個性を剥き出しにしなければならない。
……だから、もう終わりにしよう。
「オルカさん、刻限です」
「カイル様?」
無意識で私を神官として扱っているオルカさんをそのままに、私は腰を上げて彼女の前に立った。
オルカさんは私が何をするつもりでいるか見当もつかない様子だが、同時に『何か』を警戒して顔を硬直させていた。
呆然とした表情さえも麗しく、露わな銀髪は陽の光を反射してより輝きを増す。
……そこでようやく気が付いた。これまでもさして気にしていなかったから忘れていたも同然だが、最奥の壁一面に貼られた色とりどりのステンドグラスが全て剥がされていたのだ。
ここにきてまた新たな怪奇現象か、あるいは……。
解釈違いかもしれないが、私にとっては僥倖だ。オルカさんには陽の光がよく似合うのも踏まえて。
「オルカさん、試しに一度手を繋いでみませんか?」
「え?は、はい。それは構いませんが……」
私が手を差し出して、彼女がそれに応じる。その時ようやく彼女の組まれた両手が解かれる。
そう提案しておきながらも私は右手を動かさず、彼女と向き合ったまま後ろに三歩後退した。
「さぁ、おいで」
そこでようやく手を差し出した。オルカさんも不安気な様子で立ち上がった。
しかし、そこから一歩も踏み出せずに立ち竦み、気まずそうに私から目を逸らしてしまった。
オルカさん自身よく分かっているからだ。これが何気ない握手などではないということを。
狂信者のままでは誰かの手を取るに値しないということを。手錠で縛られたかのように両手を組んだままで……。
「オルカさん、信仰というのは自給自足なのです。祈る相手が実在だろうとフィクションだろうと、たとえ向こうが本当に崇高な存在であったとしても、それを信じるかどうかは自分の判断に委ねられますから」
「……はい」
「考えた上で祈祷を続けるのであれば笑いません。それは昨日言った通りです。マイアが貴女を救い、私が貴女を解放した。あとは自由になるだけですから」
「自由……。私、は……」
「独りきりがいいですか?それとも誰かと繋がりたい?別にどちらを選んでも貴女は孤独にはなりません。みんながいます。私も。けど……」
オルカさんが恐る恐る私の顔色を窺った。私が呆れているように思っただろうか?驕るつもりはないが、私は彼女より先に壁を越えていったから。
懐かしい夜の羊がまだ息をしていた。
「貴女が自ら決断しない限り何も変わりません。体は自由で、時には手応えを得られる瞬間もあるでしょうけど、今のままでは永久に魂が不自由だ。貴女は新しいメヘルブ以前に、まだあの扉の無い告解室に引き籠っているだけなのですから」
結局、私も他のやり方が思い付かなかった。手を差し伸べて、彼女がこちらへ来てくれるのを待つ。もうこれしかない。
彼女にとってはその一歩がとても重く、どうやって踏み出すものかも分からないのだ。
それを卑下することなどない。私以外の全員にとって簡単なことでも、私にはできないことが沢山あった。
皆と正面から向き合うことさえ、世界を変えてようやくその気になれたばかりだから。
「私はどうしたら……」
「私の手を取ってくれたら教えてあげる」
嘘を吐いて彼女の勇気を引き出す。
しかし、彼女の方は私の嘘を見抜いたのかもしれない。マイアとは違い、悪戯な笑みというのが私には難しく、緊張していたオルカさんの口元が緩むほどだった。
……それからどれだけの時間が経過したか。彼女がかつてない、恐怖に臨む勇ましい眼差しを私に向けてきたので、不意に「頑張れ」という言葉が漏れた。
深呼吸したオルカさんがようやく祈りを絶った。
それだけでも彼女にとっては苦しく、目蓋を瞑って震えていた。次へ進む前にもう一度呼吸を整える必要があった。
殻を破る努力をしている。シスターではなく、個人としてこれからどう生きていくかを苦悩する彼女が、私には泣き止んだ赤子のように映った。
……そう感じてしまったらもう待つばかりではいられない。
おしてやかな彼女でも追い詰められ、私の嘘に関心を持てばジッとしてはいられないよう。右足をゆっくりと、真っ直ぐ前に踏み出してみせた。その時……。
――勇気を出して歩き始めた彼女が可愛くて仕方なく、ついその一歩だけで満足して私から手を繋ぎに行ってしまった。
やっぱり暴走した……。
オルカさんが私の手に触れるまで待機するのが狙いであり、共通項だったはずなのに、私からそれを破ってしまったのだ。
しかも、オルカさんは一歩どころか次の左足も出すつもりでいた。そのため、お互いの体が衝突するのを止められず、咄嗟に余った左手で彼女の背を抑えた。
繋いだ互いの右手を真ん中に挟み、彼女を抱きしめる格好となってしまったのだ……。
「……ごめんなさい」
「い、いえ……こちらこそです……」
慌てて離れた。体を洗っていないからだ。
そう、離したのは繋いだ手のみで、今もオルカさんと抱き合っている。
「せっかくなので本物の土下座をお見せしましょう」
「いえ!やめてください!……それに、もう少しこのままで……」
「……承りました」
彼女が一人の『オルカ』として初めて誰かの温もりを知った瞬間となった。
シャワーを浴びていなくて申し訳ないが、頑張った彼女のご褒美が私で賄われるのなら快く引き受けさせていただく。
「先程の……手を取ったら教えてくれるというのは、わざと吐いた嘘ですね?」
「ええ、あの時のオルカさんはまだ昔のオルカさんでしたから。けど、これでもう噓偽りは要らなくなった。貴女のおかげです」
「では、やはり答えを知らないのですね?」
「そうです。だから教えてください。これからのオルカさんを」
「……はい。きっと見つけてみせます。貴方の心と、私の心を信じて……」
私に譲れない部分があるように、生まれ変わったオルカさんにも譲れない部分があるはず。これから時間をかけて自分を見つめ直し、その上でやはり敬虔なシスターで在り続ける場合もあり得るだろう。
それは、何て誇り高い一生か。
限られた時間。限られた空間。限られた知識の中……私たちは自らの感情に従い、生きる意味を探していく。
順調に事が運べば何よりで、それが却って退屈に感じる日もある。
けど、それが可能なら不運や理不尽もきっと愛していけるはずだ。胸を痛める想いに駆られる日も時には必要だと、開き直ってしまえばいい。
明るいカラーだけでは眩し過ぎて疲れてしまう。暗いカラーだって欠かせないに決まっている。
私などまだ生まれて五日目だが、皆は私の想像も及ばない苦難を乗り越えてきたのだから、オルカさんだってきっと大丈夫。長く悩んできた分だけ、幸福を感じた瞬間の反動は大きくなる。幸せ過ぎて困ってしまうかもしれない。
私たちは変わり、変わらず、混ざり、様々な特色を放ち、繋がっていく。それぞれの掲げる『神』を信じて、善い日と悪い日を繰り返していく。
私たちはまだ歩き始めたばかりだ。
永遠の安寧を求めて失敗を積み重ね、いつか必ず成功を収める可能性を持つ生者が集い、営みを成す。永遠など存在しないと言われても信じてしまえばこっちのものだ。曖昧なものだが、信念は半端じゃない。
――自分の感情は自分だけのもの。あなたの人生は他の誰にも真似することのできない特別なものです。そう思えば、不幸や不慣れも何とかなる気がしてきませんか?
抱擁を終えて体が離れる。久しぶりのオルカさんは頬を赤らめていた。
私も同じようなものだろう。平静なつもりで彼女の澄んだ瞳の奥を覗くも、心臓は正直だった。
「両手を組んだままでは他の誰かと手を繋げられない。たまには祈りを休めて、一人のオルカさんとして私たちの相手をしてください」
「はい。これから、よろしくお願いいたします」
今度はオルカさんから私に手を差し伸べてくれた。いつもの微笑みを超越する特別に満面な笑みだった。
私たちはまだこれからだ。特に私とオルカさんは赤子に等しい。つまりは大人たちにはない将来性を秘めているということ。
私たちがこれからどのような問題に当たり、一先ずの回答をもって開き直るのか。それを知るのはこの世界に生きる私たちに限った特権となる。
既に一つの不可能を乗り越えた私たちだ。これからやってくる未知なる困難さえどうにでも出来るに決まっている。
悪魔が司る世界の残虐なストーリー。呪われた街の罪深き人々。その地獄へ突き落された私という人形。
残る課題もあるが、それでも救いようのない現実を覆して夢のような今日に塗り替えてしまった。明確に誰かと分かり合えないままでもこれだけの事をやってのけたのなら、もう大抵のことでは驚愕できないだろう。
それでも達観することはない。結果も正解も無いのなら、永遠に飽きず時代の流れを慈しむことができるはずだから。
さあ、今日はこれから何をしようかな?
自分の意志で生きていく……その尊さと力を知っている。
私を信じてくれる人がいる。私の愛する人たちが待っている。
私たちはもう神の傀儡ではない。
カミノクグツ 壬生諦 @mibu_akira
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