最終話 洗われた脳
弟の心臓が大きく跳ねた。指先から血の気が引いているのか、どんどん冷たくなっていく気がした。
「昔、その女はこのあたりで美しい女として有名だった。だから求婚してくる男も多かったそうだ。だが、結婚した男はなぜか数年で死んでしまう。何人も、だ。そう、この女は結婚した男を自らの手で殺していたのだ。その白い髪を煎じて作る毒でな。本当に、腹の底からの悪党さ。その悪業に気づいた俺たちのご先祖様はその女を捕らえた。しかし、その女は殺しても死なない。それ故に、当時の役人から俺たちのご先祖様が見張り役を仰せつかったのだ」
弟の息は浅くなっている。耳鳴りがして、頭がぐらぐらと揺れている気がした。シロの手がそっと背中に添えられて、弟の身体はビクッと跳ねた。兄はそれに気づかず続ける。
「その女は老いない、死なない。でも、野放しにしておことはできない。だから蔵に厳重に繋いで、その存在を当主にだけ受け継いでいくのだ。その女を殺すための薬を作る、その使命とともにな」
兄は眉を吊り上げ、弟の背後のシロを睨んでいた。弟は振り向けなかった。シロの顔を見るのが怖かった。兄の形相はいままで見たことのないほど目が見開いていた。
「正二。そこをどけ。その女はここから出すべきではない。おまえは騙されているんだ。たぶらかされているんだ。俺は将来、必ず毒薬をつくってその女を殺す。必ず、だ。だからもういちど、この蔵に閉じ込めておかなければいけない。だからそこをどけ。正二!」
ふだんは温厚な兄の大声に、弟の体が強張った。足元が急にぬかるんで、まるで地面に沈んでいってしまうような感覚だった。何が真実なんだ。誰が言ってることが本当なんだ。俺は何を信じればいい。誰を信じればいい。ああ、このまま呑まれてしまいそうだ。頭が強く痛む。気持ち悪い。
ふらついた弟は、背後から抱きしめられた。
「正二。大丈夫、大丈夫よ」
シロの腕は相変わらず冷たかったが、壊れものを撫でるようなとても柔らかな抱擁だった。弟は彼女に初めて名前を呼ばれたことに気づき、全身の力が抜けていくのを感じた。左手で弟の身体をぽんぽんと叩くその仕草は、幼い頃、眠るのが怖いと泣いていた自分を宥めてくれた母親のそれと一緒だった。燃えるような頭痛がすうっと消えていくのを感じた。シロという化け物に抱きしめられた弟の頬に涙が一筋流れたのを見て、兄は鳥肌が立った。弟はもう自分の知っている弟ではないかもしれない。
「おい、おまえ。正二を離せ。正二! 俺の言うことを聞け」
その言葉の響きが、弟の身体をまたしても硬直させた。兄の姿に、父の面影がだぶった。「俺の言うことを聞け」と、何度も頬を打たれたことがまるで昨日のことのように思い出された。泣く自分を慰めてくれた母はもういない。
ぎゅっと、自分を抱き締めている冷たい腕に力が込められた。目の前が白く拓ける。優しい、笑顔の女性が弟に手を差し伸べている。
……母様?
そうだ、シロは、母様なのかもしれない。自分を優しく抱き締めてくれる。この家に縛り付けられて、この家のために利用されて。なんて、なんて可哀想な人なのだろう。でも、もう大丈夫だよ。俺がいる。ここから出て、一緒に暮らそう。どこかの街で、ふたりでひっそりと、幸せに。
弟は両拳を握り締めた。
「兄様、そこをどいてください。俺はシロとここを出ていきます」
「正二!」
「どけ!」
弟はすぐさま床に落ちていた斧を拾い、兄に向かって突き出した。兄は怯んで一歩後ずさったが、踏みとどまり弟に掌を向けて制止しようと試みた。
「正二、おまえは何をしているのかわかっているのか」
恐怖からか怒りからか、兄の声は珍しく震えている。
「兄様。俺はこの家が嫌いでした。薬問屋といえど、救える人の数は少なく、自分の母親さえ救えない。父様は母様が亡くなってから、さらに俺に厳しくあたるようになりました。兄様のように賢くもなく、強くもなく、人望もない俺のことを、父様は最初から見限っていたのでしょう。優秀な兄様にはわかりますまい」
斧を持つ手に力が入る。腹の中で渦巻いていたどす黒いものが、口から流れ出て止められない。は、は、と浅い息を吐く。
「そんな俺を、シロは受け止めてくれた。シロとなら、俺は『出来損ないの次男』ではなく『俺』として生きていける。俺はそうして生きていきたい。だからそこをどいてください、兄様」
弟の言葉に、兄の目が血走り、吊り上がった。初めて見る鬼のような形相に、父への畏れと同じものを感じた。
「正二。その女に洗脳されたか!」
兄はこちらへ身を乗り出して、斧を奪い取ろうとした。兄の手がにゅうっとこちらへ伸びてくる。
「わああっ!」
弟は咄嗟に斧を振り回し、兄を自分たちへ近づけまいとした。そのとき。
「ああっ」
弟の身体が背後から何かに押されたように、前へぐらついた。斧は思ってもみない軌道を描き、刃は兄の肩から胸をざっくりと切り裂いた。兄はその衝撃を受けたまま、勢いよく仰向けに倒れた。
「しょ、うじ、おま、え……」
兄の身体から流れ出る血が、床に広がっていく。埃っぽい空気に鉄の匂いが混じった。足袋にその血が染み込み、足の指先に温い湿りを感じる。弟は目の前が真っ暗になった。
「あ、あ……! 兄様! ああ!」
兄は低く呻き声をあげているが、起き上がりはしない。弟が跪いて揺り起こそうとしたとき、その腕を強く引く者がいた。月明かりを反射して光る白い髪が、弟の真っ暗な視界になびいた。
「落ち着いて」
弟はシロに抱きしめられ、彼女の胸に顔を埋めた。どろどろと溶けてなくなってしまいそうな心と身体が、冷たさで形をなんとか留めている。「違う違う違う」と譫言をもらす弟の耳元で、シロが囁く。
「いまのは事故だわ。しょうがなかったのよ。あなたのせいじゃない」
シロは弟が言ってほしかった言葉を正確に口にした。弟はふーっ、ふーっと震えながらも息を長く吐こうと努力した。シロの胸は冷たいはずなのに、どこかに温もりがあるのではないかと必死に探した。
「お兄さんは大丈夫よ。今は気を失っているけれど死ぬほどの傷じゃない。この蔵の扉を開けておけば、遅くとも夜明けには誰かが気づいて治療してくれるわ」
「シロ、シロ……」
弟は錯乱していた。まるで母親の胸にすがるかのように、シロの着物の袖を掴んで頬を胸にすり寄せていた。シロはそんな弟の頬を両手で挟み、額に優しく接吻する。
「大丈夫。行きましょう。お兄さんには、あなたの父親や使用人たちがいるもの。そして、あなたにはわたしがいるわ」
弟は返事をしなかった。シロは骨が抜けたようにふらつく弟の肩を支える。血で濡れた斧がごつん、と地面に落ちた。
「さあ、行きましょう」
おぼつかない足取りのまま、弟はシロに抱えられながら蔵を出た。蔵の外に出ると、月に雲がかかってあたりは暗くなっていた。ふたりはそのまま、裏手の門へと歩を進め、暗闇の中に姿を消した。
そうして、ふたりは行方知れずとなった。後継ぎとされていた兄は一命を取り留めたものの、家を継げる状態ではなくなった。で、家は廃業とあいなったということさ。これが呪われた薬問屋の顛末さ。
ん? シロの髪は、本当は薬なのか毒なのか、どっちだったのか、だって? さあてね。やめときな。それを知る者は、不幸になっちまうだけさ、どこかの兄弟のように、な。
了
脳を洗う 高村 芳 @yo4_taka6ra
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