第五話 毒

 満月の夜。目を凝らさずとも足元がよく見える夜だ。弟は旅装を身にまとい、荷を簡単にまとめて部屋を出た。幼い頃、亡き母の形見である櫛はしっかりと忘れなかった。それと、道具蔵でくすねてきた古い斧も。


 いつものように忍び足で離れの蔵に向かい、慣れた手つきで錠を開ける。扉を押し開け、埃っぽい蔵の奥に目を凝らす。


「シロ。来たぞ。ついに今日だ」

「来てくれたのね!」


 足につけられた鎖をじゃらりと引きずり、シロが弟に駆け寄った。その身体を弟は腕を広げて抱き止める。ふたりは強く抱擁し、互いの存在を確かめあった。


「金は店じまいを手伝うふりをして、なんとかくすねてきたよ。斧もほら、このとおり持ってきた。さあ、行こう」


 抜き身で持ってきた斧をシロに見せると、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。彼女は白い着物の裾をたくしあげ、鎖に繋がれた白い足を差し出した。


 弟の手は徐々に震え出し、息は細くなっていた。暑くないのに、汗が顎を伝う。全身が自分のものではないみたいだと弟は思った。斧の柄を力強く握る白ばんだ指先に、シロの冷たい手が添えられた。弟がシロに視線を向けると、彼女はその白い瞳で彼のことをまっすぐに見つめ返していた。それで弟は覚悟を決めた。


 シロの足に向かって、弟は斧をまっすぐに振り下ろした。弟の慣れない斧の扱いでも、シロの細い足は真っ二つになり、足先は蔵の隅のほうへ飛んでいって棚にぶつかった。弟はあわててそれを追い、足首から先を拾う。シロに渡すと、彼女はふくらはぎの先にそれをくっつけて手で覆い、じっとしていた。鉄輪は彼女のそばに落ちていた。


 一刻ほど経っただろうか。


「もう大丈夫よ」


 彼女が手を離すと、真っ二つになっていたはずの足が一筋の線だけ残してくっついていた。彼女曰く、その線も時間が経てば跡形もなく消えるのだという。弟は神の御業を目の当たりにし、身震いした。


 しかしゆっくりもしていられない。誰かに見つかれば、計画は水の泡だ。


「さあ、急ごう」


 弟が差し出した手を、シロが頷きながら握り締めた、そのときだった。


「正二?」


 聞き慣れた声に、弟の全身の産毛が逆だった。閉じていたはずの蔵の扉が開き、見慣れた背格好が月明かりとともに姿を現す。兄の正一だった。兄はゆっくりと蔵に足を踏み入れる。弟は咄嗟に片腕で顔を隠したが、意味のないことだった。


「こんなところで何してる。この蔵に入ってはいけないと父様に厳しく言われていただろう」

「兄様こそ、どうして」


 弟は平静をよそおったが、声がうわずった。


「最近様子がおかしかったから、話をしようと思っておまえの部屋に行ったのだ。そうしたら、もぬけの殻だった。敷地内をさがしていたら、この蔵の鍵がないことに気づいて見に来たんだ」


 シロは弟の背後に隠れたが、月明かりが強い。兄はその目を凝らし、シロの姿を捉えた。シロの足元に鉄輪と鎖が転がっているのを見た兄の目は、驚いたように大きく見開かれる。


「正二、おまえ、その女を逃すつもりか」


 弟の嫌な予感は当たった。その女を逃すのか、と兄は言った。兄は知っていたのだ、この蔵にシロが幽閉されていることを。弟の肌がぞわりと騒いだ。


「兄様。兄様は、彼女がここに囚われていることを知っていたのですね」


 兄は小さく息を吐く。


「ああ、知っていた。俺が十六になった日の夜、父様の部屋に呼ばれてすべてを聞いた」


 それを聞いた瞬間、弟の心の中で兄に対しての嫌悪感が勢いよく膨れあがった。兄はすべてを知っていたのだ。蔵のなかにシロがいることも、なぜシロが幽閉されているかも。知っている上で、何の行動も起こさなかった。むしろ、父様の考えに賛同していたのだ。父様だけでなく兄様まで、悪の道に染まってしまった。弟は、怒るとこんなにも自分の身体は震えるのかと思った。


「すべてを知っていたのに何も行動に起こさないなんて。兄様はそんなに金が大事ですか。人の心がないのですか!」


 思わず大きな声が出た。背後に隠れるシロの手が、自分の着物をきゅっと掴んだのが弟はわかった。それだけで震えが止まった。兄は眉間に皺を寄せて弟に問う。


「金だと? どういう意味だ?」

「しらばっくれないでください。シロは不老不死だ。父様は彼女をこんな狭く暗い蔵に鎖で繋ぎ止めて、髪を切っては不老不死の薬として金持ちに売ることで私腹を肥やしているんでしょう。その秘密を父様が兄様に告げたということは、次は兄様がその役目を受け継ぐということ。もう何代にもわたって行われてきた悪の所業を、兄様も認めたということでしょう」

「ちょ、ちょっと待て、正二」


 兄は片手をかかげて弟を制した。


「何を言っている? おまえはその女に何を吹き込まれた?」


 月明かりに照らされた兄の表情は作られたものではなく、本当に困惑しているものだった。弟はそこで違和感に気づいた。


「どういうことです、兄様」

「俺が父様から聞いた話とぜんぜん違うぞ。その女が不老不死なのは、俺も父様から聞いた。それは間違いないだろう。しかし、その女の髪が不老不死の薬になるなんて聞いていない。むしろその逆だ」

「逆?」


 兄は細く息を吐いて、弟の背後にいるシロを指差した。兄の顔は青ざめている。


「毒さ」

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