第四話 計画

 弟の呼吸が凪いだ海のように落ち着いた頃、弟はシロの身体を自分からそっと引き離した。掴んだ彼女の肩は冷たかったが、もう先ほどのように怖くはなかった。


「ごめん、痛かった?」


 シロは首を横にふる。


「もうずいぶん前から痛みはわからないから、大丈夫」


 そうか、大丈夫なのかと、弟はぼんやりと思った。なぜかシロの身体が白く光り輝いているように見えた。


「シロ、君は……ここにいて辛くないの」


 弟の言葉に、シロは目を伏せた。窓の外の月が雲に隠れたのか、シロの顔にも影が落ちた。


「私は老いないし、死なない。けれど、独りは寂しいわ。会えるのはこの家の当主だけ。それも髪が伸びる何年かに一回だけ。それが何十年も、何百年も続いているのだから」


 弟は静かに耳を傾ける。シロはそのまま続けた。


「数年ごとに会いに来ては、私の髪を切っていく。騒ぐなと怒鳴りたてて、髪をひっぱって鎌や鋏で。ざん、って音がすると、切り揃えられていない髪がおでこや首に突き刺さる。そして、また蔵の扉はかたく閉じられるの。それが何百年も続いてた」


 シロは弟を見て彼の手をそっと包み込んだ。


「そんなときに、あなたが来てくれた」


 弟が見たシロの目は、冬の雪のように清かった。


「あなたのおかげで、この数日、すごく楽しかったわ。髪を切られずに、おしゃべりして夜を明かすことが。とても嬉しかった。でも……」

「でも?」


 シロは着物の袂を握り締め、目を細めた。


「わかったでしょう? 私は不老不死。化け物よ。外になんか出れないわ。わたしなんか、この蔵に閉じ込められているのがお似合いなのよ」

「そんなことない」


 弟は甕から立ち上がって叫んだ。シロは驚いて「外に聞こえるわ」と弟を嗜める。しばらく黙って周囲の様子をうかがうが、変わらず静かだった。どうやら家人には聞かれなかったらしい。弟はもういちど甕に腰を下ろし、今度は声をひそめた。


「閉じ込められているのがお似合いだなんて、そんなことない。恐い思いや寂しい思いをすることが正しいことだなんて絶対にない」


 弟は、自分を見つめる父のあの厳しい目を思い出していた。何もかも兄のようにはできない、出来損ないの自分を見る、光のないあの目を。彼女を蔵に閉じ込めて、数年ごとに無慈悲に髪を切り去っていく父の姿を想像すると、胸にとてつもなく苦いものがこみあげた。父は−−あの人は、そんなひどいことをして富を得ていたのだ。そう考えると、腹の底から煮えたぎるものが湧き上がってきた。それらは血管を通して全身を巡る。身体が隅々まで熱く強張る。これが「怒り」か。弟は怒りがこのように気分が悪いものだったと改めて思い知った。父は最低だ。いままで父の脅威に怯えていた自分が情けなく、自分を威圧していた父の背中がなんとも姑息なように思えた。


「ここから出よう、シロ。俺も一緒に行く」


 弟の呟きを聞いた彼女は、弟の胸に手を添えた。その手のひらは冷え切っている。


「無理よ。どうやって私たちふたりが外の世界で生きていくの?」

「父様は……毎日その日の売上を問屋の金庫に入れる。翌朝には銀行に預けるが、一日分の売上は金庫に残っているんだ。それをくすねれば、多少の足しになるさ。それが尽きるまでに、知らない土地で仕事を探せばいい」


 弟は目の前にいるシロの両肩を掴んだ。華奢な肩だ。いくら不老不死とは言え、女人をこんな汚い蔵に閉じこめておくなんて、父は頭がどうかしているのだ。そしてそれを、優秀な兄に引き継ごうとしているに違いない。弟の心は自尊心と正義感で満たされていた。


「どうしようもなくなったときは、君の髪をすこしだけ売ればいい。そうすればふたりでも、知らない土地で暮らせるさ。どこかに君を閉じ込めるなんて、俺はそんなに酷いことはしない。一緒に生きていこう、外の世界で、自由に」


 シロとなら、こんな家に縛られず、自由に生きていけるだろう。胸が高鳴った。シロはその目に涙を溜めていた。彼女は両腕を弟の首にそっと絡めて抱き締めた。水に浸かったように、触れたところがひんやりと冷たくなった。


「ありがとう。私も、こんなところは嫌。外に出て、あなたと生きていきたい」


 その言葉を聞いた瞬間、弟の全身に新鮮で温かい血潮が行き渡る感覚があった。ああ、行こう。一緒に行こう。弟もシロの華奢な体を思いきり抱きしめた。ふたりの決断を祝福するかのように、格子窓から差しこむ月明かりは煌々とふたりを照らしていた。



 それからふたりは、ここから出る計画について話し合った。シロの足に繋がる鎖を断たねばならない。しかし、鎖は強固なもので、鋸や斧で壊すには手間がかかりそうだ。計画は一夜のうちに、静かに行われなければならない。いったいどうすべきかと弟が腕を組んだところで、シロはきょとんとした顔をしている。


「そんなの簡単じゃない」

「どうやって鎖を断ち切るんだ?」

「私の足を斧で切るのよ。足を切り落とした後で鉄輪から抜いて、もういちどくっつければ問題ないわ。だからあなたは、斧だけどこかから持ってきて」


 弟は喉をごくんと鳴らした。シロの笑顔はとても自然なもので、それがよりいっそう弟の背筋を冷やした。老いない、死なないとはこれほどまでに畏怖するものなのか。背筋とは反対に、腹の底は熱くなった。再び父への怒りがわいた。これほどまでに人智を超越した力をもつ彼女を、父は個人的な金儲けの道具にしているだけだ。それは神への冒涜だ。シロの力は世界を、病や怪我で困っている人々を、か弱き人々を救える。弟は目の前に風が吹いて視界が開けたような気がした。


 計画の実行は五日後、満月の夜に行うことにした。


   *


「弟よ、最近は勉強しなくていいのか?」


 昼間、母屋の廊下ですれ違った兄に声をかけられた。兄は笑みを携えている。それが弟は気に食わなかった。長子に生まれ、何不自由なく家督を継ぎ、おまけにシロを使って汚い金を稼ごうとしている兄。兄はまるで別の生き物になってしまったかのようにどす黒く見えた。


「ええ、必要な文献にはすべて目を通してしまいましたから」


 弟の答えに、兄は「そうか」とだけ答えて去っていった。弟は、斧を探しに別の道具蔵へと向かった。

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