第三話 不老不死

 それからというもの、弟は昼間に家の書庫に所蔵されている先祖の記録を読み漁った。歴代当主の肖像や日記、商売の履歴、交友録まで。何日も書庫に入り浸ることになった。


「最近書庫で勉強しているそうじゃないか」


 兄は食事の際、弟に笑いかけた。どこか馬鹿にされているようで、弟は目も合わさず言い放つ。


「兄様がこの家を継いだとき、俺が補佐を務めなければなりませんから」

「ははは、気の早いことだ。これからもまだまだ父様のお勤めが続くだろうよ」


 兄は冗談だと思ったらしい。もちろん弟も、心の底からそんなことを思ってはいなかった。書庫に通うのは将来のための勉強をしたいからではなく、すべてはシロの記憶と照らし合わせるためにやっていることだった。シロの言うことが正しいのかを確認しなければ、弟の気がおさまらなかった。


 弟は毎夜布団を抜け出し、蔵へ向かった。家人や使用人にばれないよう、細心の注意を払いながら、深夜みなが寝静まった時機を見計らって部屋を出る。明け方になれば使用人が起きるから、長くはいられない。毎日、その日に書庫で調べたご先祖様の話をシロに問いただした。それは尋問に近かったが、彼女は弟が調べた内容をよどみなく、正確に言い当てていった。



 その夜も弟が蔵に入ると、シロはいつもどおり甕に座っていた。何かを食べているふうでもなく、寝ているようでもなく、用を足している様子もない。ただ「今日も来たのね」と笑うだけだ。


「さて、昨日は誰の話をしたかしら?」


 もう兄弟から六代も遡ったご先祖の話まで聞いていた。父や祖父、曽祖父、そしてその先祖も、弟自身が調べ上げたこととシロの話に違いはなかった。彼女のただならぬ容姿も手伝って、弟はすでにシロが本当に不老不死なのではないかと思い始めていた。


「いや、今日はもう話はいい」


 弟の声は低かった。


「あら、いいの? 昔のことを思い出して、私はけっこう楽しかったのに」


 いつものようにくすくすとシロは笑い声を立てる。弟はひとつ大きく息を吐き、懐からすばやく短刀を取り出した。勢いそのままシロの喉に刃を立てる。ずぶりと柔らかな皮膚を貫く感触が弟の手に伝わった。シロの身体は甕からぐらりと床に倒れ、鎖がじゃらんと大きな音を立てた。数瞬ののち、弟は声にならぬ声を漏らし、腰を抜かして床に尻餅をついた姿勢のまま後ずさり、壁にぶつかった。息をするのも忘れていた。シロはぴくりとも動かない。やってしまった。やってしまった。本当にやるつもりはなかったのに。蔵のなかに入った途端、頭のなかの自分が囁いたのだ。「記録など、その女も読めばわかることではないか。不老不死かどうかを知る方法はひとつしかない。殺してみるのさ。生きていれば、不老不死だ」、と。弟は頭を掻きむしる。汗が止まらない。遺体を隠さなければ、父様に何をされるかわからない。震える膝を拳で叩いて言うことを聞かせながら、這い寄るようにしてシロの身体に近づいた、そのときだった。


「も……、いき……なり、なんだ、から」


 白い花が咲くようにシロの腕が動いたと思ったら、その上体がゆっくりと起こされた。短刀はシロの喉元からカランと音を立てて床に落ちる。シロの首は、元通りに白い肌が艶やかに光っているだけだった。


「ああ、あ……!」


 弟は声が漏れ出るのを抑えきれなかった。本物だ、本物だったのだ。目の前にいる真っ白な女人は不老不死なのだ。弟にとって、彼女は神に見えた。薬問屋の家に生まれた弟は、不老不死の価値を十二分にわかっていた。問屋に来る人々は、いつも怪我や病に苦しんでいる。治せる病もあるが、苦痛を和らげるしかできないものや、もう治らないものも多くある。そういう人たちを見ると、弟は歯痒かった。何が老舗の薬問屋だ、この人たちを治すこともできないのにと、父の仕事を影から見つめながら拳を握り締めていた。でももうそんな歯痒い思いをする必要はない。この女人の髪を煎じて飲めば、苦しむ人々が皆救われるのだ。弟はシロから目を離せなくなっていた。その眼からは涙が流れていた。


 シロは首をさすりながら、床にへたり込んでいる弟の目の前まで歩いてきた。その場にしゃがんで弟の目線に合わせたと思ったら、弟の震える唇に自身の唇をそっと重ねた。弟は動けなかった。


「いきなり刺すから、驚いちゃった。ほら、怖くない、怖くない」


 シロは幼児をあやすように弟の身体をそっと抱きしめた。何も温かさを感じなかったが、弟は湯に浸かったときのように身体の力が抜けていく気がした。幼い頃、不治の病で亡くなった母を思い出した。


 それからどのくらいの時間、そうしていただろうか。弟は流れる涙もそのままに息を整えようと深呼吸をし、シロはそんな弟を抱きしめ続けた。

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