第二話 シロ
蔵の壁の高窓から差し込む月の光で、埃がふわふわと舞っているのがわかる。弟は咳き込み目を凝らしながら、蔵のなかを見渡した。今では使われていない道具が壁や棚に収納されている以外は、いたって普通の蔵であった。なんだ、普通の蔵か。父様は蔵に何かあるのだと思わせるために俺たちに「蔵に近づくな」と言っていただけのことだったのか。父のやりそうなことだ、と弟は鼻で笑った。先ほどまで身体中を巡り巡っていた血がすっと冷めていくのがわかった。馬鹿馬鹿しい、と弟が蔵を出ようと扉に手をかけた、そのときだった。
「だれ?」
弟は思わず壁際にある棚の影に隠れた。心臓があわただしく跳ねる。聞こえたのは間違いない、確かに女人の声だ。月明かりが差し込む蔵のなかを、もういちど凝視する。呼吸は知らないうちに止めていた。
すると蔵の奥から、一人の女人が姿を現した。弟は、あっ、と声を漏らす。その女人は白かった。たとえではなく、本当に白かった。着物も肌も、目も唇も、そして結われていない長い髪も、すべてが真っ白だった。弟は驚いて身体が動かなかった。女人が目の前までゆっくりと近づいてきた。弟の喉がごくりと鳴る。
「あなた、だれ?」
女人は柔らかな物言いだった。何も手に持っていないので物盗りなどではなさそうだ、と弟は少し警戒を緩める。それにしても、なぜこんな夜の蔵に女人がいるのか。弟は名乗ったあと、女人に名を尋ねてみた。
「名前はないわ。ただあなたの父上には、『シロ』と呼ばれている」
彼女は蔵の床に置かれていた甕に腰掛けた。そのとき、何かがじゃらりと音を立てた。彼女の足元から聞こえた。弟は彼女の白い素足に目をやると、そこには鈍色に光る鎖がある。どうやら、細い足は鎖に繋がれているらしい。どういうことだ。弟は怪訝に思いながらも、彼女と同じように別の甕に腰掛けた。
「シロ。あんたはいったいなぜ、ここにいる?」
弟は幼い頃から父親に教育され続けた影響からか、得体の知れない女人への警戒心からか、高圧的な物言いになっていた。彼女は構わず、目を伏せて笑った。
「あなたは知らないのね。なぜ私がここにいるのか」
「どういうことだ」
「考えたことない? あなたの家がなぜこれほどまでに裕福なのか」
彼女--シロの言葉に、弟は眉間に皺を寄せた。この女は何を言っている?
「あんたがここにいることと、うちが裕福なことになんの関係があるんだ」
「知らないなら教えてあげましょう。わたしはあなたの父上にこの蔵に幽閉されているの」
「幽閉だと?」
そんな話などとんと聞いたことがない。由緒正しき自分の家が、あの厳格な父親がこの女を蔵に幽閉しているなど、寝耳に水どころか、根も葉もない笑い話に聞こえる。ハッ、と弟は自嘲的に笑う。シロは続ける。
「私はこの見た目のとおり、ちょっと身体が人と変わっているの」
「どう違う?」
「私のこの白い髪を煎じて飲めば、不老不死になるの」
弟はついに堪えきれずに高笑いした。夜、忍んで蔵に入ったことも忘れてしまっていた。目尻に滲む涙を拭いながら「それで?」と続きを促す。
「私はこの蔵で、この家の主人に幽閉され続けてきた。薬問屋の主人が、私の髪を切り落として、不老不死を夢見る金持ちに高値で売るためにね。あなた、問屋の帳簿を見たことはある?」
シロに尋ねられて、弟の笑い声が止まった。帳簿は代々主人自ら管理することが、家の習わしだった。家で働いている者たちも、兄も、そしてもちろん弟も、帳簿に目を通したことはなかった。弟に「なぜそんなに隠す必要がある?」と疑問がふっとわいた。いちど疑念がわくと、ささくれが指に刺さったように気になりはじめた。
「心当たりがあるようね」
シロの言葉に弟は肩をビクッと震わせた。シロの白い唇がゆるやかに弧を描く。
「そうやってこの家の主人は余りあるお金で私腹を肥やしていったの」
「ちょっと待て。あんたと会ったことあるのは父様……薬問屋の主人だけか?」
「ええ、そうよ。ここ十年は同じ男ね」
その口ぶりに、弟は違和感を抱いた。
「“ここ十年”?」
シロは宙に舞う塵を目で追いながら、思い出すように口にする。
「ええ、その前はあなたの祖父になるのかしら。その前はあなたの曽祖父だし、その前の男も、その前の男もよく覚えている。綺麗に剃りあげた月代がよく似合う男だった」
その口調に、弟は背筋に冷たいものを感じた。どう見たって目の前の彼女の歳は、弟と五つも変わらないだろう。なのになぜ、父様やお祖父様たちのことを知っているのだ。甕に座っているこの女は、いったい。
「なぜだか知りたい?」
弟の思考を読んだようなシロの口ぶりに、弟ははっと息をのんだ。刹那、シロは甕からふわりと降り、弟のほうへ勢いよく身体を寄せた。もうすこしで唇同士が触れ合う、その距離感でシロは言う。
「実はわたし自身も不老不死だから、よ」
ふふ、と彼女が笑うと、冬のように冷たい香りがした。弟は震えそうになる喉をぐっと締めながら、かろうじて言葉を絞り出す。
「う、嘘だ。不老不死なんて。おまえ、物盗りかなんかだろう。口から出まかせを言っているだけだろう」
シロは「この足に繋がれている鎖が見えないのかしら?」と、いちど身体を離した。
「じゃあ、明日の夜もここに来てみたらどうかしら。わたしが不老不死だという証拠に、たとえばあなたの曽祖父やご先祖様の話をしてあげる。もしくは、」
シロが着物の襟をぐいと開くと、白く細い喉が露わになった。弟は初めて見る女の胸元に顔を赤らめつつも、目が離せなくなっていた。シロは揃えた指先を首元で滑らせる。
「短刀か何かを持ってきて、この首を掻っ切ってもいい。それでわたしが死ぬか、試してみるのはどう?」
弟の掌には汗が滲んでいた。冷たい汗だ。そこで弟はやっと自分が目の前の女人を畏れていることを自覚した。何を言っているのかわからない。何を考えているのかわからない。明らかに普通の人間ではない、異常な人。父親に感じる恐怖とは別の、何か。恐い、なのに知りたい。この女人の正体は何なのか。
思ったよりも時間が経っていたのか、月光が先ほどよりも強く蔵のなかに差し込んでいた。シロは光に照らされて眩しいくらいだった。弟はひとつ頷いて静かに言った。
「わかった。明日また来る」
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