脳を洗う

高村 芳

第一話 離れの蔵

 今となっては昔のことだ、もう話してもよかろう。


 昔、裕福な家があった。大昔から薬問屋を営んでおり、数百年続くいわゆる老舗で、知らぬ者はおらなんだ。薬問屋の主人にはふたりの息子がいて、当時、兄の正一は齢十七、弟の正二は齢十四だった。

 兄は優秀なことで有名だったそうだ。父親である主人の厳しい躾にもよく耐え、主人の言うことをよく聞き、文武において才能が花開いた。主人も兄にたいそう期待を寄せていて、早い段階から家業について指導することが多かったんだと。


 いっぽう残念なことに、弟は兄に似なかった。文武の成績は決して悪くない。むしろ一般の者からすれば優秀であったが、どれも兄の成績に及ばす、その優秀さは春曇りのように霞んでしまった。主人はその霞で弟個人の良さに気づくことができず、厳しくあたるいっぽうであったらしい。


「父様は俺のことが嫌いなんだ。俺は落ちこぼれだよ」

「そんなことない。父様はおまえに期待しているから厳しく接しているだけさ」


 兄の励ましは誰から見ても形だけのもので、弟には何の慰めにもならなかった。きっと弟は、「兄様は薬問屋の後継ぎになることが決まっているから、父様に厳しくあたられていないから、そんなことが言えるのだ。俺のように不出来で跡取りにもなれない奴が、父様の言うことを聞いて何になるのだ」という溶けた金属のようにどろりとした想いが身体中を駆け巡っていただろうよ。


 そんな息子ふたりに、主人が厳しく言いつけている家訓があった。


「離れの蔵の扉は決して開けてはならぬ。開ければたちまち家に災いが降りかかるだろう」


 離れの蔵は、薬問屋の裏手の土地にある主人の屋敷をぐるりと囲んだ塀の中の、北西の端に位置する蔵のことであった。その蔵がいつからそこにあるかは誰も知らないし、家の記録にも不思議と残っていないのだという。白い漆喰がところどころひび割れたり剥がれ落ちたりしているから、かなり古いものであるのは間違いない、と屋敷の誰もが口にしていた。


 そんな不思議な蔵だったから、弟が蔵の中身に興味を持ったのは必然だったのかもしれない。どうせ父の言うことを聞いていても報われず、父に見放されればせいぜい家を出るだけのことだろうと、弟はすでに心のなかで割り切ってしまっていた。

 だから、離れの蔵の錠に手をかけた夜は胸が高鳴った。父に禁じられていたことを、良い子ちゃんの兄にはできないことを、俺はやってやる。そう弟は思っていただろうな。月明かりが強い夜のことだった。誰にも見つからないように錠をくすねるために、昼間のうちに市で似たような錠を買ってすり替えておいた。錠を手に、自室を出てなるべく人気がない場所を通りながら、離れの蔵に向かった。父は、あれだけ厳しく家人に言いつけているのだから、まさか誰も蔵には近づかないであろうと思っているのか、古い錆びた錠がひとつしてあるだけで、見張りも何もつけていない。弟は興奮していた。震える手で離れの蔵の錠を開ける。がちゃん、と重々しい金属音がした。扉が重くてなかなか開けられなかったが、弟は扉に体重をかけるようにしてやっと開いた。砂埃が頭上からぱらぱらと落ちるのを待って、弟はいよいよ蔵に足を踏み入れた。

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