第5話 風邪をひいたお嬢様と翌朝

「37度4分……見事に微熱ですね。自分の身体がここまで弱いとは……けほっ、けほっ。いつものことながら少しばかり、恨めしく思えてしまいます。あなたにも迷惑をかけてしまって――」


 そんなことは気にしないでください。

 俺はお嬢様の使用人です。

 このくらいなんでもありません。


「あなたは、優しいですね。こんなわたしを見捨てず、付きっ切りで看病してくれるのですから。せめてうつさないようにはしたいと思うのですが……」


 身体は頑丈なので大丈夫です。

 これまで看病してきて俺が風邪をうつされたことがありましたか?


「……あなたに風邪がうつったことはありませんでしたね。丈夫な身体が羨ましいです。羨んでも仕方のないことだとはわかっていますが」


 あまり喋らない方がいいですよ。

 薬を飲んで、早いうちに寝ましょう。


「わたし、このお薬がいまだに苦手なんですよね。良薬は口に苦し――効くのは理解しているのですが、どうにも漢方の類いは苦手で」


 わかりますが、常備薬がこれしかないんです。


「……では、飲ませていただきます」


 お嬢様が粉末状の漢方薬を口に運び、コップの水を含んで呑み込む。

 苦そうな顔。

 コップの水を空にする勢いで飲み、息をつく。


「…………やっぱり苦いです。いつまで経っても好きになれそうにありません。でもわたしは偉いので飲みました」


 お嬢様は偉いですね。


「なので……その、わたしが寝るまで傍にいてくれませんか? 風邪をうつしてしまうかもとは思うのですが…………どうしても心細く感じてしまって。台風の音もそうですし、一人の時に停電したらパニックになる自信があるので……」


 縋りつくように袖を摘まんで訴えてくるお嬢様。

 元から夜通しお嬢様を見守っているつもりだった。


 添い寝はしなくていいんですか?


「添い寝は……わたしが元気になったらお願いします。それと、電気も消さないでください。ふとした瞬間に目を開けて、あなたがいなくなっていたら怖いです」


 わかりました、お嬢様。


 いつもこれくらい素直ならいいのにな、なんて思ってしまう。


「それでは……すみません。お先に眠らせていただきますね。おやすみなさい」


 おやすみなさい、お嬢様。

 どうか、いい夢を。



 ■



「――ふふっ。寝顔、こんな感じなんですね」


 ぼんやりとした頭にお嬢様の声が届く。

 ゆっくり目を開けると、目の前に白いシーツが広がっていた。


 そして、頬を押すなにかの感触。


 ……あ、れ?


「ああ、起こしてしまいましたね。おはようございます。台風一過……すっきり晴れたいい朝ですよ?」


 …………まさか俺、途中で寝落ちしたのか?


 ……申し訳ありません、お嬢様。

 いつの間にか眠ってしまっていたみたいで――


「わたしはなんともありませんでしたから気にしないでください。一晩寝たら熱も下がって、悪化している雰囲気もありません。ですから、あなたもちゃんと休むべきです。居眠りみたいな睡眠では身体が持ちませんよ?」


 なんともないのならよかった。

 もしこれでお嬢様の身に何かあったら、俺は自分を責め続けていたことだろう。


「実はわたし、二度寝をしたい気分なんです。なので、あなたも一緒にどうですか? 添い寝をしてくれる約束だったじゃないですか」


 ……今、ですか?


「ええ、今です。今しかありません。わたしは病み上がりで、あなたは寝不足。一緒に寝れば効率的だと思いませんか? ――それならわたしもあなたの寝顔を見ていられますし」


 何か言いました?


「何も言ってませんよ? さ、こっちに来てください」


 ……約束は約束だ。

 破ったらお嬢様を悲しませてしまう。


 仕方ないですね。


 お嬢様が開けてくれたスペースに身体を滑らせた。

 シーツを被るとほんのり温かく、じんわりと眠気が湧いてくる。


 正面には微笑むお嬢様。


「あなたとこうして並んで寝ていると昔を思い出しますね。あなたが使用人ではなく一人の幼馴染だった頃、一緒にお昼寝をしたことがあったじゃないですか」


 ……そういえばありましたね、そんなことも。


「病弱で家からほとんど出られないわたしは退屈を持て余していました。部屋に籠って出来ることと言えば本を読むくらい。そんなわたしをあなたは毎日訪ねてきて、外の世界に連れ出そうとしてくれました」


 今考えるととんでもないことをしていましたね。


「そうでもありませんよ。わたしはあなたに救われたと思っています。あなたがいなければ、人と関わろうなんて思いもしなかったでしょう。自分の境遇を嘆き、改善するための策を講じず、死んだように生きるだけの日々だったかもしれません。でも――わたし、今はとても楽しいですよ。他ならないあなたがいてくれるから」


 そっと、お嬢様の手が頬に当てられる。


 ほのかに熱を持った小さな手のひら。

 指は細くて肌は白い。

 脆く儚いそれは、紛れもなく俺が守りたかったものだ。


「あなたはわたしがお嬢様だから仕えようとしていない。わたしがわたしだから傍にいてくれる。それがたまらなく嬉しいのです。もしもわたしがお嬢様じゃなかったら、あなたと出会えていなかったかもしれない。けれど、わたしがお嬢様である以上、あなたとの関係性は一生お嬢様と使用人のままなのかと考えると、胸の奥がもやもやします」


 ……それはつまり、どういうことですか?


「これだけ言っても察せないのは使用人以前に男性としてどうかと思いますよ?」


 ええと、ごめんなさい。


「……一度しか言いませんから、よく聞いてくださいね?」


 妙に神妙な面持ちで、お嬢様が顔を寄せてくる。

 その顔はリンゴのように真っ赤で、熱がぶり返したのかと心配になって額へ手が伸びたけど、お嬢様が無言で掴んで遮った。


 そして、息がかかるくらいの距離まで近づいて。


「――わたしはあなたのことを、心の底から愛していますよ」


 ……。

 …………。

 ………………。


 俺は自分の耳を疑う。

 その間に離れていったお嬢様の顔はさらに赤く染まっていた。


「ですから……その。これからもずっと、わたしの傍にいてくださいね?」



―――

これにて完結です。

本作は【Gsこえけん】の応募作となっています。

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